<桓武平氏>高望王系

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平 盛康 平 盛国

 系譜ははっきりしないが、下総守・平季衡の7男と見られている。右兵衛尉から右衛門尉。保延3年(1137年)、従五位下。
 同族の平正盛・忠盛父子と共に白河法皇に仕える。また正盛・忠盛一家の家人として仕えたと見られ、盛康の子とされる平盛国は平清盛の家令として活躍した。

 

 父は平盛康、または平盛遠(『平家物語』)、平季衡(『尊卑分脈』)など諸説あるが、平正度に連なる一族と見られる。子息・盛俊と共に「主馬判官管親子」などと称されることから、本拠は伊勢国壱志郡須可郷(現三重県津市)で、その荘官を務めていたと考えられている。他に鎮西にも知行所を有している。
 清盛の側近として仕え、保元元年(1156年)の保元の乱,平治元年(1159年)の平治の乱では、一門衆の要となる侍大将として嫡男・盛俊と共に戦い、多くの功績を挙げた。
 保元2年(1157年)10月、信西による大内裏造営での功により、右衛門尉、ついで左衛門尉となる。長寛2年(1164年)に厳島神社に奉納された平家納経の製作に関与している。永万元年(1165年)正月、検非違使に補任される。仁安元年(1166年)10月、憲仁親王の立太子に伴い、東宮の主馬首を兼任し、主馬判官と呼ばれる。平家貞の死後は、盛国が平家第一の郎党となり、平氏宗家の家令(執事)としての役割を担った。
 承安年間には関白・松殿基房の賀茂詣に供奉するなど、検非違使・左衛門尉としての務めが多く見られる。承安3年(1173年)に清盛一門が厳島神社に奉納した舞楽面が9面現存し、国宝に指定されているが、そのうち2面の裏面に朱漆で「厳嶋社二面承安三年八月 日 盛国朝臣調達」と銘が記されている。
 治承元年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀では、清盛邸に赴いて密告した多田行綱の応対をしている。平家打倒の陰謀に激怒する清盛の動きを案じ、重盛に知らせたという。治承4年(1180年)、富士川の戦いで大敗し、責任を問われた伊藤忠清を弁護した。
 清盛の死後、平家が衰退して都落ちを余儀なくされると、盛国もこれに従った。清盛死後の盛国の活躍は老齢のためもあってか、あまり詳しくは見られないが、新たに平氏棟梁となった平宗盛の側近として仕えていたと見られる。都落ちの翌年、寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで盛俊が討ち死にしている。寿永4年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いで平家一門が滅ぼされると、捕虜となって宗盛とともに鎌倉に送られた。源頼朝は盛国の一命を助けて岡崎義実の元にその身柄を預けた。
 その後、盛国は日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を一切絶って文治2年(1186年)7月25日、餓死によって自害した。享年74。頼朝はこの盛国の態度を称賛したという。

平 盛俊 高橋盛綱

 伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする平氏の有力家人で、「彼の家、第一の勇士」といわれた。剛力の持ち主として有名で、平清盛の政所別当を務めるなど実務にも長じていた。清盛からの信頼も厚く、厳島内侍を妻として賜ったという逸話もある。安元元年(1175年)には越中守に在任していた。鹿ケ谷の陰謀では清盛の命で、首謀者の藤原成親を捕縛している。
 治承4年(1180年)10月、富士川の戦いで追討軍が敗走すると、全国各地で反乱が激化する。12月になると平氏は反撃を開始し、近江国に精鋭部隊を送り込んだ(近江攻防)。盛俊も侍大将として平清房に付き従い、園城寺を攻撃する。戦闘で金堂に火が燃え移ったが、盛俊は迅速な措置で消し止めた。
 畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、治承5年(1181年)正月に高倉上皇、閏2月に清盛が相次いで死去する。平氏政権は清盛の3男・平宗盛が畿内惣官となって戦時体制を構築するが、その一環として盛俊は、丹波国諸荘園惣下司に補任された。小松家(清盛の長男・平重盛の家系)の家人である伊藤忠清や平貞能が遠征軍の司令官として前線に飛ばされたのに対して、盛俊は宗盛ら一門主流に近い立場にあり平氏の軍制の中核となった。
 寿永2年(1183年)4月17日、清盛の嫡孫で重盛の嫡男・平維盛を総大将とする10万騎とも言われる大軍が北陸道に下向する。養和の北陸出兵をはるかに上回る規模の動員であり、盛俊も従軍した。平氏軍は緒戦で勝利するが(火打城の戦い)、5月9日明け方に般若野の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊・盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平氏軍は一旦加賀国へ退却する(般若野の戦い)。
 ここで平氏は軍を二手に分け、平維盛・通盛が率いる本隊は加賀国と越中国の国境にある砺波山へ、盛俊が率いる別働隊は能登国と越中の国境にある志保山へ進軍した。しかし5月11日、砺波山に向かった平氏軍本隊は義仲軍との戦闘で「過半死し了んぬ」という大敗を喫する(倶利伽羅峠の戦い)。志保山で源行家と対峙していた盛俊も、本隊の壊滅で退却を余儀なくされる。6月1日、平氏は残存兵力を結集して再び決戦を挑むが、義仲軍の勢いを食い止めることはできず総崩れとなった(篠原の戦い)。敗戦の理由として『玉葉』6月5日条は、大将軍(維盛)と3人の侍大将(盛俊・景家・忠経)が権盛を相争ったためと記している。盛俊・景家は宗盛の家人、忠経は維盛の小松家の家人であり、一門主流と小松家の確執が指揮系統の混乱を招いた可能性もある。
 寿永2年(1183年)7月25日、宗盛は一門を引き連れて京都を退去し、福原から海路を西へ落ち延びる。目指す先は九州の大宰府だった。この直後の8月8日、薩摩国島津荘の留守所に現地の荘官である伴信明が訴状を提出しているが、その訴状には「前越中守平」、すなわち盛俊の名と花押が記されている。盛俊は筑前の宗像社の知行にも携わっており、本隊より一足先に現地に下向して在地武士の糾合に動いていたとも考えられる。しかし豊後の臼杵,肥後の菊池は形勢を観望して動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。平氏は緒方惟栄の攻撃で10月には九州の地を追われ、再び海上を漂うことになった。 九州を追われた平氏は、四国に上陸して屋島を新たな本拠地とした。東の屋島、西の彦島を押さえて瀬戸内海の制海権を掌握したことで、寿永3年(1184年)正月には福原に前線基地を設けて都を伺うまでに勢力を回復した。
 源範頼・義経の率いる追討軍を迎撃するため、福原に陣営を置いた宗盛は、東の生田口に平知盛、西の一ノ谷口に平忠度、山の手の鵯越口に盛俊を配備して、強固な防御陣を構築する。福原は北に山が迫り、南に海が広がるという天然の要害であり、東西の守備を固めれば難攻不落と思われた。
 寿永3年(1184年)2月5日、三草山の戦いで資盛が敗退すると、宗盛は山の手に増援として通盛・教経を向かわせて、北の守備も固めた。2月7日の一ノ谷の戦いで平氏軍は全ての防衛線を突破された。盛俊はもう逃げてもかなわぬと馬を止めて敵を待っていると、源氏方で鹿の角の「一、二の枝」を簡単に引き裂くほどの剛の者・猪俣範綱が駆けてくる。腕力に自信があった両者は組討をして地面に落ち、範綱が組み敷かれてしまう。首を斬られかかった範綱は、盛俊の名を尋ね聞いてさらに「命を助けてくれるなら、貴方の一族を自分の恩賞と引き換えに助けよう」と命乞いを始める。それに盛俊は怒り「盛俊は不肖なりとも平家の一門、源氏を頼ろうとは思わない」と範綱の首に刃を立てようとしたところ、範綱に「降伏した者の首を掻くのか」と言われて、押さえ込んでいた範綱を放してやる。二人があぜ道に腰を下ろしていると、人見の四郎という源氏方の武者が駆け寄って来て、それに気をとられた盛俊は範綱に不意に胸を突かれて深い田んぼの中に倒されてしまう。泥濘で身体の自由が利かない盛俊は、このような騙し討ちによって範綱に首を取られてしまった。

 平盛国の子、もしくは盛国の子・盛俊の子と言われる。
 盛国らと同様に平清盛に仕え、承安4年(1174年)には「盛国の別功の賞」をもって左兵衛尉に任官、安元元年(1175年)には内舎人正に任ぜられ、治承2年(1178年)には主馬頭を兼任した。降って治承4年(1180年)には左衛門尉の任にあったと『山槐記』に記されている。また讃岐守にも任じ、号として「高橋」を名乗ったという。
 養和元年(1181年)に平家の侍大将の一人として墨俣川の戦いに参加。敵将の一人・源義円を討ち取って名を挙げた。その後、源義仲追討の戦いにも出陣したようであるが、その終焉の地については不明である。

平 盛嗣

 『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将であった。源氏との数々の戦に参戦し、水島の戦いでは源義清を討ち取り、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦(嘲笑合戦)の逸話を残している。
 寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、盛嗣は自害を快く思わず京の都に落ち延び、その後、但馬国で潜伏生活へ入った。盛嗣は城崎郡気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われている。その後、盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っている。しかし鎌倉方は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもある。
 建久5年(1194年)、盛嗣は源氏方に捕縛され、鎌倉に送られることとなった。盛嗣は頼朝の面前に引き出された際に「今は運尽きてかように搦め召し候上は、力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と自説を述べ、ついに由比ヶ浜にて斬首された。