H103:平 維衡 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 戸沢衡盛 | H104:戸沢衡盛 |
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戸沢衡盛 | 戸沢道盛 |
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平衡盛の代に木曾義仲に属していたが、その不義を憎み奥州磐手郡滴石庄に下向した。1185年に源頼朝に臣従し、屋島の戦いや奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身の御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。1206年、戸沢兼盛は南部氏から攻められ、滴石から門屋小館に移る。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。以上が『藩翰譜』等が伝える戸沢氏の出自である。 |
父・戸沢秀盛の死により、享禄2年(1529年)にわずか6歳の若さで家督を相続する。だが、叔父の戸沢忠盛(兄である秀盛から後継者に指名されたが、秀盛の晩年に道盛が生まれたために約束が反故にされた)が反乱を起こしたため、道盛は一時角館城を追放された。だが重臣達が道盛を支持して逆に忠盛を追放したため、無事に角館城に復帰した。 |
戸沢忠盛 | 戸沢盛重 |
大永7年(1527年)、戸沢氏と安東氏との合戦の際、当主・秀盛の弟で前線に近い淀川城主だった忠盛が秋田方に寝返ったとの風聞が伝わって角館領内は動揺したが、翌年、忠盛が角館にきて弁明したことでこのときは一件落着している。 |
天文20年(1551年)、第16代当主・戸沢道盛の嫡男として生まれる。若くして隠居した父の後を継いで当主となるが、生来から多病のために天正6年(1578年)に家督を弟の戸沢盛安に譲って仏門に入った。しかし小館戸沢家の当主・戸沢政重(道盛の叔父)に継嗣が無かったことから、還俗して政重の養子となり、小館戸沢家の家督を継いだ。しかしこのため、本家の当主である弟の盛安の家臣となったため、盛重はその身分に不満を抱き、天正18年(1590年)に盛安が小田原征伐に参加していたときには謀反を企てていたとされる。また家臣の家を継いだことから盛重を戸沢宗家の世系に入れない系譜も多い。文禄元年(1592年)に42歳で死去。 |