<桓武平氏>高望王系

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戸沢衡盛 戸沢道盛

 平衡盛の代に木曾義仲に属していたが、その不義を憎み奥州磐手郡滴石庄に下向した。1185年に源頼朝に臣従し、屋島の戦いや奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身の御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。1206年、戸沢兼盛は南部氏から攻められ、滴石から門屋小館に移る。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。以上が『藩翰譜』等が伝える戸沢氏の出自である。
 しかし、上記に記した出自については疑問が持たれている。まず平衡盛と、その子兼盛の存在であるが、『戸沢家譜』と『藩翰譜』以外に、存在を確認できる資料は皆無である。平安時代末期に奥州に下向したとあるが、その当時、滴石は奥州藤原氏の勢力範囲であり、簡単に下向・土着できる環境ではなかった。滴石を本拠地とし、源氏に組した状況で屋島の戦いや奥州合戦に従軍することが、現実として可能であったか。また、滴石に4千6百町歩の田畑を与えられたとされるが、吾妻鏡に拠れば磐手郡は千葉,工藤,南部等の関東御家人に分け与えたとされ、戸沢氏に関する記述はない。更に、1206年に南部氏と争って出羽国仙北地方に移ったとあるが、南部氏側資料にそういった記述は一切無く、争った経緯も不明である。
 家祖とされる平衡盛の「衡」という漢字から、奥州藤原氏の郎党だったという説がある。また、本拠地とされる滴石も藤原清衡の母方の安倍氏の本貫地の厨川に極めて近いことから、奥州藤原氏の中でもそれなりの地位にあったものと考えられる。
 以上を踏まえた上で、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主というのが、その実態であり、奥州征伐の時に藤原氏に協力しなかったことから辛うじて家名存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受けて、出羽国に移っていったのがことの真相と考えられる。

 父・戸沢秀盛の死により、享禄2年(1529年)にわずか6歳の若さで家督を相続する。だが、叔父の戸沢忠盛(兄である秀盛から後継者に指名されたが、秀盛の晩年に道盛が生まれたために約束が反故にされた)が反乱を起こしたため、道盛は一時角館城を追放された。だが重臣達が道盛を支持して逆に忠盛を追放したため、無事に角館城に復帰した。
 その後、若いうちに隠居し、移封地の常陸国にて79歳まで戸沢氏四代にわたって後見した、という説と、隠居したころに病死している、という説がある。

戸沢忠盛 戸沢盛重

 大永7年(1527年)、戸沢氏と安東氏との合戦の際、当主・秀盛の弟で前線に近い淀川城主だった忠盛が秋田方に寝返ったとの風聞が伝わって角館領内は動揺したが、翌年、忠盛が角館にきて弁明したことでこのときは一件落着している。
 享禄2年(1529年)、兄・秀盛が死去し、あとにはわずか6歳の道盛が残された。忠盛は淀川から角館に移って、その後見役として政務を担当した。このとき忠盛は宗家奪取を企てて、道盛とその母を角館から追放し、道盛母子は城外に身を隠した。忠盛としては、兄の秀盛からいったんは後継者に指名されたものの、秀盛晩年に道盛が生まれたために約束が反故にされたかたちとなっていた。この忠盛の謀叛は家臣たちの支持を得られず、道盛の外戚である楢岡氏を中心に六郷氏,本堂氏,白岩氏ら周辺国人衆・重臣らが結束して角館に圧力をかけ、天文元年(1532年)に忠盛を淀川城に退去させたことで決着した。
 天文14年(1545年)4月14日に頓死。忠盛死後、仙北郡(北浦郡)進出に意欲を燃やした安東氏によって淀川城は落城している。

 天文20年(1551年)、第16代当主・戸沢道盛の嫡男として生まれる。若くして隠居した父の後を継いで当主となるが、生来から多病のために天正6年(1578年)に家督を弟の戸沢盛安に譲って仏門に入った。しかし小館戸沢家の当主・戸沢政重(道盛の叔父)に継嗣が無かったことから、還俗して政重の養子となり、小館戸沢家の家督を継いだ。しかしこのため、本家の当主である弟の盛安の家臣となったため、盛重はその身分に不満を抱き、天正18年(1590年)に盛安が小田原征伐に参加していたときには謀反を企てていたとされる。また家臣の家を継いだことから盛重を戸沢宗家の世系に入れない系譜も多い。文禄元年(1592年)に42歳で死去。