H171:北条時方 | 平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 名越朝時 | H176:名越朝時 | ● |
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名越朝時 | 名越光時 |
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建久4年(1193年)、北条義時の次男として鎌倉で生まれる。母は源頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、正室の子としては長男であり、北条家の嫡子であったと考えられる。建仁3年(1203年)、朝時が11歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家・比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされたことで両親は離婚し、姫の前は上洛して源具親に再嫁した3年後に死去している。後に朝時は具親の次男・源輔時を猶子にしている。建永元年(1206年)10月に、13歳で元服する。 |
寛元4年(1246年)、第4代執権・北条経時が早世すると、光時が前将軍・藤原頼経と共謀して新執権・北条時頼を廃しようとした謀反が発覚する(宮騒動)。『保暦間記』によれば、光時は時頼の執権就任に対抗し、「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり」と述べたという。結局、頼経派は敗北し、将軍御所にいた光時は陰謀の発覚を悟り、御所を出たものの自邸には戻らず出家して弟らと共に時頼に髻を送って降伏し、所領を没収されて伊豆国江間郷へ配流となった。 |
名越時章 | 名越公時 |
寛元3年(1245年)には兄の北条光時が5代執権・北条時頼の廃立を企てて失敗した宮騒動により失脚しており、時章は赦免されて宝治元年(1247年)より評定衆となる。時章は穏健派で、得宗家との協調を望んでいたが、兄・光時や弟・教時が急進的な反得宗であったため、家中の政争に巻き込まれてゆく。 |
公時は弓術に精通し、宝治2年(1248年)の百番小笠懸、建長2年(1250年)5月10日の馬場殿の笠懸、同年8月18日の犬追物などで射手に選ばれている。蹴鞠にも堪能であり、鞠奉行にも任じられている。藤原頼嗣や宗尊親王ら将軍に近習として仕えて台頭、文永2年(1265年)に31歳で引付衆に就任し幕政に参与。伯父である名越光時が宮騒動に加担したことで悪化した名越家と得宗家との関係を修繕すべく、父・時章と共に腐心した。 |
名越貞家 | 名越時有 |
子に北条周時と北条高家がいるが、2人は弟とする説がある。これは貞家が早世したため、父の時家が孫らを養子にして引き取ったと見られている。 |
正応3年(1290年)、時有は越中国守護所として放生津城を築城する。正慶2年/元弘3年(1333年)、隠岐から脱出し鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた14代執権・北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重,近衛宗康,日野直通らを暗殺させた。 |
名越時兼 | 北条時長 |
正慶2年/元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の滅亡後、幕府再興と建武の新政転覆を謀り北条氏の残党が各地で蜂起する。建武2年(1335年)7月、北条時行が信濃で諏訪頼重らに擁立され鎌倉奪還を目指し挙兵すると(中先代の乱)、時兼もそれに呼応して、越中や能登・加賀で長沢氏や井口氏,野尻氏ら新政に不満を持つ武士を結集し北陸で蜂起した。 |
暦仁元年(1238年)、将軍・藤原頼経が上洛する際、供奉人として随行。同年、蔵人頭に補任され、さらに右衛門権少尉,左衛門尉と昇進した。父・朝時は幕政から疎外されており、それに対する反撥から将軍・頼経に近侍、随従して結びつきを深めていた。 |
北条定長 | 名越時幸 |
父・時長も備前守であったことから、自らが備前守に着任する以前は備前太郎と名乗っていた。系図によっては宗長という別名も記載されている。 |
寛元4年(1246年)に4代執権北条経時が早世すると、兄弟と共に前将軍藤原頼経を擁して反得宗派を形成し、経時の弟で後を継いだ執権・北条時頼を廃そうとした宮騒動を起こすが失敗し、5月25日に兄・光時と共に出家して時頼に降伏した。時幸は反得宗で最も強硬派であったと見られている。
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名越教時 | 名越宗教 |
康元元年(1256年)から文永2年(1265年)まで引付衆、文永2年(1265年)から文永9年(1272年)まで評定衆を務めた。北条得宗家への反抗の意志が強く、文永3年(1266年)6月、将軍・宗尊親王の京都送還の際、北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ている。文永9年(1272年)、得宗転覆を企て謀反を起こすが、8代執権となった時宗の討伐軍によって討ち取られた(二月騒動)。享年38。 |
文永9年(1272年)2月、父の教時が執権・北条時宗に二月騒動で誅された。このとき、系図によれば宗教も弟・宗氏と共に討たれているが、真偽は不明。 |
名越時基 | |
時基の史料上の初見は建長5年(1253年)で、康元2年(1257年)2月2日以前に六位の地位にあった。 |