<桓武平氏>高望王系

H171:北条時方  平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 名越朝時 H176:名越朝時


リンク
名越朝時 名越光時

 建久4年(1193年)、北条義時の次男として鎌倉で生まれる。母は源頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、正室の子としては長男であり、北条家の嫡子であったと考えられる。建仁3年(1203年)、朝時が11歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家・比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされたことで両親は離婚し、姫の前は上洛して源具親に再嫁した3年後に死去している。後に朝時は具親の次男・源輔時を猶子にしている。建永元年(1206年)10月に、13歳で元服する。
 建暦2年(1212年)5月7日、20歳の時に将軍・実朝の御台所・信子に仕える官女に艶書を送り、さらに深夜に娘の局に忍んで誘い出したことが露見して、父・義時から義絶され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされる。1年後の建暦3年(1213年)、和田合戦の際に鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と防戦にあたり、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するなど活躍した。その後、御家人として幕府に復帰する。
 承久3年(1221年)の承久の乱では北陸道の大将軍として、佐々木信実や結城朝広らと協力して転戦し、越後や越中の朝廷軍を撃破した。戦後は上皇方に荷担した藤原範茂の処刑を行っている。貞応2年(1223年)10月の時点で、朝時は加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任した。
 嘉禎2年(1236年)9月には評定衆に加えられるが、初参ののち即辞退しており、幕府中枢から離脱する姿勢を見せている。
 6年後の仁治3年(1242年)5月17日、泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖されたことが伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があったことによると見られている。3年後の寛元3年(1245年)4月6日、53歳で死去。
 正室・姫の前を母に持つ朝時は、祖父・時政の名越邸を継承しており、時政が朝時を後継者に考えていたのではないかとも推測される。ただし名越邸継承の時期は不明で、朝時の元服の前年に時政は失脚しており、時政の真意は定かでない。朝時の名越流は一族内でも高い家格を持つ有力な家となる。朝時は、自らが北条の本流という自負を持っていた可能性もある。泰時の後継者を巡って、朝時ら名越一族に不穏な動きがあったと見られるが、詳細は明かではない。その後の名越流は得宗家に常に反抗的で、朝時の嫡男・光時をはじめ時幸,教時らが宮騒動,二月騒動で度々謀反を企てている。 

 寛元4年(1246年)、第4代執権・北条経時が早世すると、光時が前将軍・藤原頼経と共謀して新執権・北条時頼を廃しようとした謀反が発覚する(宮騒動)。『保暦間記』によれば、光時は時頼の執権就任に対抗し、「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり」と述べたという。結局、頼経派は敗北し、将軍御所にいた光時は陰謀の発覚を悟り、御所を出たものの自邸には戻らず出家して弟らと共に時頼に髻を送って降伏し、所領を没収されて伊豆国江間郷へ配流となった。
 弘長2年(1262年)には叡尊から鎌倉で菩薩戒を授けられた。また金沢文庫本『斉民要術』の紙背文書には、越訴奉行・北条実時に宛てた光時の書状がある。
 子孫は名越流の嫡流から外れ、江間氏を称した。
 得宗家と名越家の対立はその後も続き、二月騒動で弟・教時が再び謀反を起こして北条時宗に討伐されている。 

名越時章 名越公時

 寛元3年(1245年)には兄の北条光時が5代執権・北条時頼の廃立を企てて失敗した宮騒動により失脚しており、時章は赦免されて宝治元年(1247年)より評定衆となる。時章は穏健派で、得宗家との協調を望んでいたが、兄・光時や弟・教時が急進的な反得宗であったため、家中の政争に巻き込まれてゆく。
 8代執権・北条時宗の頃、文永9年(1272年)に弟・教時が謀反を起こし、時章のもとにも追討の兵が迫り、その兵によって殺害される(二月騒動)。享年58。その後、時章は無実であったことが判明し、時章を殺害した5人は斬首に処せられ、時章の子の公時は評定衆、孫の時家は評定衆,鎮西探題に就任するなど、時章の子孫は幕府の要職に取り立てられている。
 蒙古襲来を前に幕府首脳陣は幕府の一元化を企図していたこと、時章が守護職を務めていた大隅国などが二月騒動後に収公されていることから、幕府としては初めから時章を始末する腹積もりであった可能性もある。

 公時は弓術に精通し、宝治2年(1248年)の百番小笠懸、建長2年(1250年)5月10日の馬場殿の笠懸、同年8月18日の犬追物などで射手に選ばれている。蹴鞠にも堪能であり、鞠奉行にも任じられている。藤原頼嗣や宗尊親王ら将軍に近習として仕えて台頭、文永2年(1265年)に31歳で引付衆に就任し幕政に参与。伯父である名越光時が宮騒動に加担したことで悪化した名越家と得宗家との関係を修繕すべく、父・時章と共に腐心した。
 北条時宗の元服の際には、叔父・教時と共に鎧を奉献している。文永9年(1272年)、38歳の時に二月騒動で父・時章と叔父・教時が謀反の疑いで誅殺され、時章が所領としていた肥後・筑前の守護職を没収される。この時、公時も嫌疑を抱かれるが、後に時章に叛意がなかったことが明らかとなり許された。あるいは二月騒動の際の動向は不明とされる。
 文永11年(1274年)には評定衆に選任され、その後四番,三番,二番引付頭人と累進。引付が廃止されると執奏となったが、間もなく引付は再編され、再び二番引付頭人となった。以降、死去するまで二番引付頭人の任にあった。寄合にも参画し、得宗家の補佐と失墜した名越流の地位恢復に心血を注いだ。弘安7年(1284年)4月、第8代執権・北条時宗の死去により出家して道鑑と号している。永仁3年(1295年)12月28日に死去、享年61。永仁2年(1294年)12月28日に死去ともいわれ、『系図纂要』では「被誅」とある。 

名越貞家 名越時有
 子に北条周時と北条高家がいるが、2人は弟とする説がある。これは貞家が早世したため、父の時家が孫らを養子にして引き取ったと見られている。 

 正応3年(1290年)、時有は越中国守護所として放生津城を築城する。正慶2年/元弘3年(1333年)、隠岐から脱出し鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた14代執権・北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重,近衛宗康,日野直通らを暗殺させた。
 同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公、甥の貞持と共に放生津城へ撤退するも、脱走する兵が相次ぐのを受けて、最早これまでと妻子らが舟に乗り、奈呉の浦に入水したのを見届けた後、城に火を放ち自刃した。

名越時兼 北条時長

 正慶2年/元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の滅亡後、幕府再興と建武の新政転覆を謀り北条氏の残党が各地で蜂起する。建武2年(1335年)7月、北条時行が信濃で諏訪頼重らに擁立され鎌倉奪還を目指し挙兵すると(中先代の乱)、時兼もそれに呼応して、越中や能登・加賀で長沢氏や井口氏,野尻氏ら新政に不満を持つ武士を結集し北陸で蜂起した。
 時兼は杉本城を拠点とし、松倉城の椎名六郎入道ら北陸の新政権側の勢力を攻撃しつつ、3万騎余を率い上洛を目論んだが、加賀の大聖寺城に拠り迎撃した福田・敷地・山岸・上木といった狩野一党や、援軍として派遣された瓜生保を初めとする越前の武曽・深町ら武士団に敗れ討ち取られた。 

 暦仁元年(1238年)、将軍・藤原頼経が上洛する際、供奉人として随行。同年、蔵人頭に補任され、さらに右衛門権少尉,左衛門尉と昇進した。父・朝時は幕政から疎外されており、それに対する反撥から将軍・頼経に近侍、随従して結びつきを深めていた。
 時長も父や兄・北条光時らと同調して将軍に接近し、外出時の随兵や御剣役を担当した。
 朝時が寛元2年(1244年)に没すると、時長は兄弟らと共に信濃善光寺で供養を行っている。この供養は表向きで、裏では将軍・頼経と結託して名越一族が得宗打倒を画策しており、時長もその一翼を担っていたとされる。そのため、将軍が更迭された宮騒動に連座して備前守の官途を解かれた。時長の兄・光時と時幸はこの事件でそれぞれ処分されたが、時長は兄弟の時章,時兼らと共に時頼に陳弁して許された。
 その後の時長は得宗との協調路線を重視する方針を採り、幕府内である程度の地位を回復させることに成功した。建長4年(1252年)8月26日死去。 

北条定長 名越時幸

 父・時長も備前守であったことから、自らが備前守に着任する以前は備前太郎と名乗っていた。系図によっては宗長という別名も記載されている。
 史料には『吾妻鏡』の1263年の記事に供奉人として登場するのみであり、顕著な業績はなく、事績は明細ではないが、父・時長の地位、役職をそのまま踏襲したと考えられている。定長は東漸寺と号して富岡に住居を構えた。東漸寺とは神奈川県横浜市磯子区杉田にある臨済宗の寺院で、北条備前守宗長を開基としている。
 没年については、武家年代記の1309年の記事に「名越備前前々宗長法師」なる人物の訃報が掲載されているが、定長の甥(兄・長頼の子)にも宗長という人物がいるため、明確に区別できておらず未詳である。 

 寛元4年(1246年)に4代執権北条経時が早世すると、兄弟と共に前将軍藤原頼経を擁して反得宗派を形成し、経時の弟で後を継いだ執権・北条時頼を廃そうとした宮騒動を起こすが失敗し、5月25日に兄・光時と共に出家して時頼に降伏した。時幸は反得宗で最も強硬派であったと見られている。
 降伏後、まもなく6月1日に死去したと『吾妻鏡』は伝えるが、葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば自害させられたという。

 

名越教時 名越宗教
 康元元年(1256年)から文永2年(1265年)まで引付衆、文永2年(1265年)から文永9年(1272年)まで評定衆を務めた。北条得宗家への反抗の意志が強く、文永3年(1266年)6月、将軍・宗尊親王の京都送還の際、北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ている。文永9年(1272年)、得宗転覆を企て謀反を起こすが、8代執権となった時宗の討伐軍によって討ち取られた(二月騒動)。享年38。 

 文永9年(1272年)2月、父の教時が執権・北条時宗に二月騒動で誅された。このとき、系図によれば宗教も弟・宗氏と共に討たれているが、真偽は不明。
 元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱の際、北条高時によって畿内の反幕府勢力追討のために関東諸将らとともに派遣され上洛した。元弘3年/正慶2年(1333年)、千早城の戦いのさなか、甥の名越兵庫助と賽の目から口論となり、互いに刺し違えて死んだとされる。そのため、双方の家来が戦って200余人が殺される騒ぎが起きたという。 

名越時基

 時基の史料上の初見は建長5年(1253年)で、康元2年(1257年)2月2日以前に六位の地位にあった。
 名越流と得宗家との対立により、兄たちが宮騒動,二月騒動で度々討伐を受けるが、兄弟の中でも年少であった時基は、その埋め合わせ的に引き立てられ、文永10年(1273年)6月、38歳で引付衆となり、弘安元年(1278年)、43歳で評定衆となる。弘安3年(1280年)11月、遠江守、弘安6年(1283年)4月、三番引付頭人。弘安7年(1284年)4月、執権・北条時宗の死去に伴って出家し、法名は道西と称する。その後、三番引付頭人を再任、二番引付頭人就任などを繰り返し、正安元年(1299年)4月1日、64歳の時に三番引付頭人を辞任した記録が最後である。『鎌倉年代記』では永仁6年(1298年)4月9日の記事を最後に登場しない。