中国(秦王朝)渡来系

SM01:島津忠久  島津忠久 ― 島津忠宗 SM02:島津忠宗

リンク SM03SM13SM14SM15SM16SM17
島津忠宗 島津貞久

 島津久経の子として生まれ、元服して忠宗と名乗る(年代的に考えて、「宗」の字は鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より下賜されたものと考えられる)。元寇時は九州にて父と共に活躍して武功を挙げた。弘安7年(1284年)、父の死により家督を継ぐ。永仁年間には鎮西探題・北条実政の下で引付の職務にあり、西国の控訴の裁定に関与した。
 文保元年(1317年)、日向国高知尾庄や肥前国松浦庄などの地頭に任じられた。そしてこれらの所領を嫡男の島津貞久をはじめとする多くの息子たちに与えている。これにより、北郷氏や樺山氏、新納氏などの諸氏が成立した。
 正中2年(1325年)11月12日、75歳で死去し、後を子の貞久が継いだ。墓所は鹿児島本立寺跡や出水郡野田町感応寺跡。
 『島津系図』,『西藩野史』,『薩藩旧記雑録』等によると、忠宗は和歌に優れていたとされ、『続千載和歌集』,『新後撰和歌集』入集の詠歌3首が載録されているが、同時代、越前島津氏忠景の子に同名の武将が存在し、『勅撰作者部類』には、当該歌の作者について「惟宗(島津)忠宗 常陸介忠景男」と明記されている。越前島津氏は、鎌倉期に数人の歌人を輩出していることもあり、これは越前家の忠宗の作品であろうと考えられる。 

 元服に際して、鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を賜い貞久と名乗る。文保2年(1318年)薩摩守護職を嗣ぐ。元弘3年(1333年)、元弘の乱における足利高氏(のちの尊氏)の倒幕挙兵勧誘により、少弐貞経,大友貞宗と共に鎮西探題・北条英時を攻撃、自刃に追い込む。その功により、大隅・日向守護職に補任され、島津氏は初代・忠久来、本貫地と見なしていた薩隅日三州を約130年ぶりに回復する。
 建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇に離反。貞久は一時敗れて九州へ逃げのびた尊氏を助け、多々良浜の戦いで菊池勢を撃退、尊氏の巻き返しに協力するなど、室町幕府成立に大きく貢献した。しかし、膝下の三州では谷山氏や肝付氏が南朝方として挙兵。これに対し貞久は庶長子・川上頼久らを薩摩に下向させ、南九州における南北朝の激戦が繰り広げられる。
 従来、南九州は谷山氏ら薩摩平氏や肝付氏など在庁官人が勢力をもっていた地であったが、鎌倉時代、島津氏や渋谷氏と言った東国武士団が進駐し、在地勢力との間に軋轢を生んでいた。その鬱憤が、在地勢力をこぞって南朝方に誘導し、守護島津氏との対決姿勢を顕わにすることとなった。
 康永元年/興国3年(1342年)には征西大将軍・懐良親王が熊野水軍や伊予の海賊衆に守られながら鹿児島市南部にある谷山城に入城すると結集軸となり城主・谷山隆信はじめ谷山御所に南朝方の各地の諸氏が参集し勢いを取り戻し、薩摩半島山南を勢力下に収めることとなった。勢いづく谷山城を貞久は幾度となく攻撃を仕掛けるがこれを落とせず、戦況はなかなか有利にならないばかりか、正平2年(1347年)6月、懐良親王率いる南朝方と熊野水軍三十余艘とが海と陸から、貞久の本拠である東福寺城を急襲したこともあったが、貞久方は辛うじてこれを撃退に成功する。正平5年(1350年)、そのような状況の中、北朝方は尊氏方と直義方とに分裂(観応の擾乱)、この間、直義方の畠山直顕とも戦わなければならず、一時南朝の軍門に下らざるを得ないほどであった(観応の擾乱終結後に北朝方に復帰)。
 幕府方に復帰した貞久は、正平17年/貞治元年(1362年)に幕府に対して申状を送っている。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3ヶ国守護であることの正当性を訴えた。史実では島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたものでその支配はわずか数年に過ぎず、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの訴えは彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、薩摩・大隅のみならず日向を支配する理論的支柱として用いられた。
 正平18年/貞治2年(1363年)、薩摩守護職を3男・師久(総州家)に、大隅守護職を4男・氏久(奥州家)にそれぞれ譲り、同年7月、95歳の長寿を以って逝去。両家は征西府九州探題・今川了俊の存在する間は協力し合って外敵にあたったが、共通の敵が消滅すると、やがて戦国時代の前触れのように互いに勢力を争うようになる。 

島津師久 佐多忠光

 5代当主・島津貞久の3男として誕生。足利尊氏に属して武功を挙げたため、薩摩国内や肥前国内の地頭に任じられた。父の死の直前である正平18年/貞治2年(1363年)4月、次兄・宗久が早世したため、父から家督と薩摩守護職を継ぐこととなった。これが総州家の始まりである。その後、家督を子・伊久に譲っている。
 天授元年/永和元年(1375年)、今川了俊の謀略で少弐冬資が暗殺されると(水島の変)、この行為に激怒して了俊と対立した。翌年3月、52歳で死去。墓所は初め川内隈之城の称名寺跡にあったが、後に福昌寺跡に改葬された。

 文保2年(1318年)3月15日、島津宗家4代当主忠宗の3男・忠光が大隅国の佐多(現・鹿児島県南大隅町)を与えられたことにより、「佐多氏」を称したのが始まりである。忠光はさらに、文和2年(1358年)に足利尊氏により薩摩国知覧を与えられている。
 忠光は伊敷の地に居住していたが、孫の氏義の代に佐多へ居城を移す。そして、その子である親久の頃に知覧城へと移った。ただし、その子の忠遊は自ら一代を限りに佐多へ居住している。
 江戸時代より薩摩藩一所持の家格となる。16代・島津久逵は2代藩主島津光久の子で、4代藩主・島津吉貴より島津庶流知覧家として長男家のみであるが島津姓を代々名乗ることを許された。次男家は変わらず佐多姓(佐多本家家臣格)を名乗り、庶流には達山氏(加世田・穆佐衆)や伊佐敷氏などがある。諱は嫡男が「久」の字、次男以降が「直」の字とされた。また、直別支流であることから、正徳年間以降は士分以下や他家の奉公人が佐多氏を称することは許されなかった。 

佐多久政 佐多久慶

 永禄11年(1568年)、島津貴久が菱刈氏を攻める際に栗野の番手を務めていたが、3月23日に菱刈氏が相良氏,渋谷氏と共に曾木城を攻めたため、城主の宮原景種を救うべく出陣し、敵数十人を討ち取ってこれを追い払った。
 天正8年(1580年)、肥後国矢崎城攻めに参加しこれを攻め落とし、翌日の綱田城攻めでも敵を降参させるべく功があった。また同年11月に合志城下を放火した際に敵4,000が打ち掛かってくるが、久政らはこれを打ち崩して首級300余を上げるに至る。その後の水俣城攻め、同11年(1583年)の耳川の戦いにも軍功を上げた。しかし、天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、久政が守っていた田北城も攻撃を受け、奮戦するも敢え無く戦死した。墓は知覧の栄仙寺に建てられた。

 天正17年(1589年)頃、久慶の一族は門之浦に居住していたが、その一族である佐多久福の家来らが久福の名を旗に書いて、禁止されている海賊行為に及んでいた。これに豊臣秀吉が立腹、久福のみならず久慶にも咎が及んだ。久慶は自分は関係していない旨を誓紙に書き、自身の知行目録を質に入れて金子を借り三奉行に付け届けを入れた上で上洛し釈明、主君・島津義久の執り成しもあり一応の事無きを得た。
 天正19年(1591年)、所領を知覧から川辺へ移される。同年、肥前名護屋城の普請役を務めた。文禄元年(1592年)、島津義弘に従い朝鮮に渡海したが病にかかり、弟の久作,久英を軍代として帰国、慶長9年(1604年)に没した。 

島津久逵 島津久邦

 慶安4年(1651年)、藩主・島津光久の5男として生まれる。初めは旗本・伊勢貞衡の養子となり貞朝と名乗る。寛文6年(1666年)4月、将軍・徳川家綱に御目見する。寛文12年(1672年)、養父に実子・貞守が生まれたことにより実家に戻り、改めて佐多丹波久利の養子となる。知覧地頭職となり領主と兼任する。
 延宝4年(1676年)、城代となる。延宝5年(1677年)、頴娃地頭職。延宝8年(1680年)、城代と国老を兼任し職田2000石を賜る。加世田地頭職となる。元禄6年(1693年)、藩主・島津綱貴の参勤に随行して、江戸に下り江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)、国老を免じられ城代に専任する。職田2000石はそのまま給された。
 正徳元年(1711年)、島津吉貴より、島津姓を代々名乗ることを許された。享保3年(1718年)、隠居して次男の久豪に家督を譲る。光久,綱貴,吉貴3代に城代として仕えた功績を賞されて、年100俵を給された。翌享保4年(1719年)7月5日死去、享年69。 

 宝暦3年(1753年)3月19日、島津久峰の3男として生まれる。明和9年(1772年)、父・久峰が死去すると、兄・久容(久徴)は一門の島津加治木家を相続していたため、知覧島津家の家督を相続する。
 安永3年(1774年)、藩主・島津重豪の帰国許可の謝恩使として江戸城に登城し、将軍・徳川家治に拝謁する。安永7年(1778年)、寺社奉行。安永8年(1779年)、大目付となる。安永9年(1780年)、国分地頭職。同年若年寄。天明7年(1787年)、家老となる。同年、重豪の参勤に随行して江戸に下った。
 寛政3年(1791年)3月19日没、享年39。