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島津忠宗 | 島津貞久 |
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島津久経の子として生まれ、元服して忠宗と名乗る(年代的に考えて、「宗」の字は鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より下賜されたものと考えられる)。元寇時は九州にて父と共に活躍して武功を挙げた。弘安7年(1284年)、父の死により家督を継ぐ。永仁年間には鎮西探題・北条実政の下で引付の職務にあり、西国の控訴の裁定に関与した。 |
元服に際して、鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を賜い貞久と名乗る。文保2年(1318年)薩摩守護職を嗣ぐ。元弘3年(1333年)、元弘の乱における足利高氏(のちの尊氏)の倒幕挙兵勧誘により、少弐貞経,大友貞宗と共に鎮西探題・北条英時を攻撃、自刃に追い込む。その功により、大隅・日向守護職に補任され、島津氏は初代・忠久来、本貫地と見なしていた薩隅日三州を約130年ぶりに回復する。 |
島津師久 | 佐多忠光 |
5代当主・島津貞久の3男として誕生。足利尊氏に属して武功を挙げたため、薩摩国内や肥前国内の地頭に任じられた。父の死の直前である正平18年/貞治2年(1363年)4月、次兄・宗久が早世したため、父から家督と薩摩守護職を継ぐこととなった。これが総州家の始まりである。その後、家督を子・伊久に譲っている。 |
文保2年(1318年)3月15日、島津宗家4代当主忠宗の3男・忠光が大隅国の佐多(現・鹿児島県南大隅町)を与えられたことにより、「佐多氏」を称したのが始まりである。忠光はさらに、文和2年(1358年)に足利尊氏により薩摩国知覧を与えられている。 |
佐多久政 | 佐多久慶 |
永禄11年(1568年)、島津貴久が菱刈氏を攻める際に栗野の番手を務めていたが、3月23日に菱刈氏が相良氏,渋谷氏と共に曾木城を攻めたため、城主の宮原景種を救うべく出陣し、敵数十人を討ち取ってこれを追い払った。 |
天正17年(1589年)頃、久慶の一族は門之浦に居住していたが、その一族である佐多久福の家来らが久福の名を旗に書いて、禁止されている海賊行為に及んでいた。これに豊臣秀吉が立腹、久福のみならず久慶にも咎が及んだ。久慶は自分は関係していない旨を誓紙に書き、自身の知行目録を質に入れて金子を借り三奉行に付け届けを入れた上で上洛し釈明、主君・島津義久の執り成しもあり一応の事無きを得た。 |
島津久逵 | 島津久邦 |
慶安4年(1651年)、藩主・島津光久の5男として生まれる。初めは旗本・伊勢貞衡の養子となり貞朝と名乗る。寛文6年(1666年)4月、将軍・徳川家綱に御目見する。寛文12年(1672年)、養父に実子・貞守が生まれたことにより実家に戻り、改めて佐多丹波久利の養子となる。知覧地頭職となり領主と兼任する。 |
宝暦3年(1753年)3月19日、島津久峰の3男として生まれる。明和9年(1772年)、父・久峰が死去すると、兄・久容(久徴)は一門の島津加治木家を相続していたため、知覧島津家の家督を相続する。 |