HT04:惟宗永厚 | 秦 酒公 ― 惟宗永厚 ― 島津忠久 | SM01:島津忠久 |
リンク | SM02・SM19 |
島津忠久 | 島津忠時 |
---|---|
島津氏の祖。本姓は惟宗氏で惟宗忠久、また後年には藤原氏も称した。出自,生年については諸説ある。 |
承久3年(1221年)、承久の乱で幕府軍に従軍して武功を挙げた。一門が守護をしていた若狭国の守護職を兼任する。
|
伊作宗久 | 伊作久義 |
文保元年(1317年)、父・伊作久長より家督を譲り受ける。当時、元寇による出費に苦しんでいた御家人達は先祖伝来の土地を売却し、商人などから借金をして生計を立てていた。宗久は幕府の許可を得て御家人と商人間の仲裁を行っていた。 |
建徳2年(1371年)、父・伊作親忠より所領を受け継ぐ。応永2年(1395年)、今川了俊が九州探題としての任務を終え駿河国守護となり任地に赴くが、その際に島津討伐の書状を発す。これに応じた薩摩北部の渋谷氏が決起すると、島津宗家と共に征伐に参加。渋谷氏を撃退したが、島津宗家の内部では7代当主・島津伊久と、奥州家2代で当時伊久から家督を譲られていた島津元久の対立が生まれていた。 |
伊作勝久 | 伊作教久 |
薩摩国島津氏の分家・伊作氏5代当主。父・伊作久義は伊集院頼久の乱で伊集院氏側に加担、島津宗家8代当主・島津久豊と争いを繰り返していた。応永22年(1415年)、勝久は鹿児島に向かい久豊にこれまでの非礼を詫びたため、久豊はこれを許している。さらに勝久は、伊集院氏に味方し久豊と対立していた総州家の島津久世を説得、翌応永23年(1416年)には久豊と久世の対面を成功させる。しかし久豊は宿泊中の久世を包囲し総州家の所領を要求したため久世は自害。以後、勝久は再び伊集院方につき久豊と戦うことになった。 |
薩摩国島津氏の分家・伊作氏6代当主。年代的に考えると「教」の字は当時の室町幕府の将軍・足利義教から下賜されたものと推測される。 |
伊作久逸 | 伊作善久(新納忠真) |
嘉吉元年(1441年)、島津氏第9代当主・島津忠国の3男として誕生。長禄2年(1458年)、伊作氏7代当主・犬安丸が幼くして急死したため、伊作氏の養子に入り跡を継いだ。この伊作氏は、鎌倉時代の早い時期に分家し本家とは遠い関係にあったため、一族ながら家臣格の家柄であった。 |
応仁2年(1468年)、伊作氏8代当主・伊作久逸の長子として誕生。岳父である新納是久の死後、その名跡を継いで、新納忠真とも名乗った。 |
町田久倍 | 町田久則 |
薩摩国島津氏の家老。町田氏18代当主。永禄11年(1568年)、大口城の相良氏・菱刈氏の連合軍を攻めた際、久倍は菱刈家臣の有屋田源四郎を討ち取る武功を上げた。天正3年(1575年)に琉球王国よりの使節が来訪した際は、犬追物を披露する役に選出されている。また、この頃に伊集院の地頭にも任じられ、天正6年(1578年)の耳川の戦いや、同9(1581年)の相良氏の水俣城攻めなどにも参加、同13年(1585年)に島津義弘の3男・忠恒が元服する際には、16代・島津義久によりその理髪役を仰せ付かっている。 |
父の久政が文禄・慶長の役での露梁海戦にて討ち死にしたため家督を継ぎ、鹿児島へ召し寄せられた。また、山田,大崎,隈之城,阿久根などの地頭を歴任、更に寛永9年(1632年)にも百次の地頭となった。 |
町田久成 | 島津忠綱 |
慶応元年(1865年)、他の18名と共にイギリスへ留学。東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)。小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。 |
承久3年(1221年)、父・島津忠久が越前国守護に補任されたとき、17歳で守護代となり、同国生部に居住したと伝える。現在福井市生部町内に「越前島津屋敷跡」がある。しかし安貞2年(1228年)には島津氏に代わって後藤基綱が越前守護となったため、忠綱も同時に守護代を退任したものと推測される。薩摩国揖宿郡,知覧院等に地頭職を有していたが、前者に関しては文暦2年(1235年)、郡司・指宿忠秀との間に所領問題を起こし解職された。嘉禎2年(1236年)~文応2年(1261年)、鎌倉にあって歴代将軍に近侍。宝治2年(1248年)、4代将軍・藤原頼嗣に高麗山のヤマガラを献じている。寛元3年(1245年)8月16日の鶴岡馬場の儀にて流鏑馬の的立を務め、また正嘉元年(1257年)6月1日旬鞠会では見証(審判)に列していることから、文武に優れた人物であったことが窺われる。
|
島津忠行 | 島津忠景 |
6代将軍・宗尊親王に仕える。弘安2年(1279年)、播磨国下揖保荘地頭職を母・越後局より相続し同地に下向。子孫は在地の有力国衆となり、15代・忠長までの事跡は『越前島津家文書』に記録されている。 |
学芸に優れ、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の近臣として廂衆,門見参衆,御格子上下結番,昼番衆等の御所内番役に選ばれる。弘長元年(1261年)『宗尊親王家百五十番歌合』をはじめ、親王や二条為氏ら主催の和歌会・連歌会に度々列席し、『弘長歌合』では源親行と番えられ、これに勝つなど成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。そのためか宗尊親王からの信任が非常に厚く、『吾妻鏡』をみると親王の私的な行動にまで供奉しているのがしばしば見受けられ、兄・忠行はもとより本宗家の忠時,久経らと比較しても顕著な活躍を示しているのがわかる。蹴鞠にも造詣が深く、弘長3年(1263年)には旬御鞠奉行にも選任された。 |
島津忠長 | 島津忠之 |
播磨島津氏の15代当主。『越前島津氏正統家譜』,『越前島津家文書』(越前島津氏系図)に記載される最後の当主である。播磨国立岡山城(石蜘蛛城)主。 |
島津忠長の長男。天文3年(1534年)、父・忠長が朝日山の合戦で戦死すると、播磨島津氏の本領である播磨国布施郷,下揖保庄は、一時、欠所となっていたと考えられるが、天文23年(1554年)12月27日、忠之は赤松晴政の奉行・難波泰興によって、布施郷,下揖保の地頭職を返付されている。 |
島津義弘 | |
島津忠之の嫡男として生まれる。天正3年(1534年)に忠之が青山の合戦で戦死した際、義弘の母はわずか2歳の義弘を抱え、足軽を使って十文字鑓をもち、石蜘城から領地下揖保庄上村にかえる、と伝えられる。成人し宇野氏の女を娶り、彦兵衛尉蔵人義弘と名乗る。 |