中国(秦王朝)渡来系

HT04:惟宗永厚  秦 酒公 ― 惟宗永厚 ― 島津忠久 SM01:島津忠久

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島津忠久 島津忠時

 島津氏の祖。本姓は惟宗氏で惟宗忠久、また後年には藤原氏も称した。出自,生年については諸説ある。
 生誕は大阪市の住吉大社であり現在でも境内に誕生石が残されている。『島津国史』などの島津家の諸家伝によれば治承3年(1179年)12月31日とある。15世紀後半に島津家家臣・山田聖栄により書かれた『山田聖栄自記』には、文治5年(1189年)の奥州合戦の際に畠山重忠を烏帽子親として13歳で元服したという記述があり、1177年(安元3年、治承元年)の生誕ということになるが、山田聖栄は別のところで1166年であるとも記しているという。
 忠久の史料上の初見は、治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録である(『山槐記』)。また『玉葉』にも翌年「左兵衛尉忠久」の記録がある。島津家伝や山田聖栄の記述が正しければ、10歳にも満たない忠久が兵衛尉に任官したこととなるが、事実とはみなし難い。生年は治承3年より十数年以上遡っているものと推定される。
 島津家伝では忠久の父を源頼朝、母を丹後局としている。家伝ではこの女性が比企氏の出であるとしており、安達盛長の妻であった丹後内侍に比定されている。ただし忠久が源頼朝の子であったという記述が見られるようになるのは15世紀の初め頃からであり、同時代史料には存在しない。『吉見家系図』では頼朝の乳母であった比企尼と比企掃部允の3女が都で二条天皇に仕えていた際に、惟宗広言と通じて忠久を産み、その後鎌倉で安達盛長に嫁いだとされる。これが事実であれば、丹後内侍は頼朝の乳母子であることとなる。
 元暦2年(1185年)3月、比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとされ、恩賞として元暦2年(1185年)6月に頼朝より伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。文治元年(1185年)8月17日付で、源頼朝の推挙により摂関家領の島津荘下司職に任命される。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。その後まもなく島津荘の惣地頭に任じられている。また、同じ年に信濃国塩田荘地頭職にも任命される。文治5年(1189年)の奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣し、建久元年(1190年)の頼朝上洛の際にも行列に供奉している。建久8年(1197年)12月、大隅国・薩摩国の守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。諸国で守護や郡地頭職に任命されているが、これ以降、忠久は最も広大な島津荘を本貫にしようと、その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称する。
 ただ『吾妻鏡』に忠久が記載されるのは、正治2年(1200年)2月26日、源頼家の鶴岡八幡宮社参記事が最初であり、忠久は20人の御後衆の一人として登場している。
 頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企能員の変が起こり、この乱で忠久は北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として連座し、大隅,薩摩,日向の守護職を没収された。この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった。比企の乱後は在京していたとみられ、建暦3年(1213年)2月に3代将軍・源実朝の学問所番となり、御家人としての復帰がみられる。同年6月の和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡の古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した。同年7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その2国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。
 承久3年(1221年)の承久の乱後、同年7月、越前国守護に補任された。これより前の5月には同国足羽郡東郷荘の地頭職を与えられている。また、この頃、惟宗姓に代えて藤原姓を称している。元仁元年(1224年)に八十島使の随兵を務め、嘉禄元年(1225年)には検非違使に任じられ、嘉禄2年(1226年)には豊後守となった。
 嘉禄3年(1227年)6月18日、脚気と赤痢により死去。墓は、島津家第25代当主・島津重豪により、江戸時代後期、鎌倉の西御門に源頼朝の墓と共に建立され、頼朝の墓から約70m程度離れた場所に建てられている。
 忠久の実父については惟宗広言であったとする説もあるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説が有力であり、養子であったとされている。その場合の実父候補に関して、忠久や弟・忠季の名から、惟宗氏で「忠」の字を持つ惟宗忠康が父親であるとする説が存在する。母親に関しては、忠久は比企能員の変に連座して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図』に記されているとおり比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。将軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されていることから、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる。
これに対して、『吉見系図』では丹後内侍は「無双の歌人」であったとされ、女房三十六歌仙の一人・宜秋門院丹後が摂津源氏の出身でもあることから、宜秋門院丹後が忠久の母であるとの説も提示されている。
 忠久は鎌倉で活動してそこで生涯を終え、2代目・島津忠時も同様に鎌倉で没している。3代目・島津久経が元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化し、4代目・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。 島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは5代目・島津貞久以降である。碇山城(薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。
 忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護する武士であり、出身である惟宗家は近衛家の家司を代々務めた家で、その近衛家は鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた。こうした関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられ、以後、島津家は近衛家と長い関係を持つにいたった。 

 承久3年(1221年)、承久の乱で幕府軍に従軍して武功を挙げた。一門が守護をしていた若狭国の守護職を兼任する。
 嘉禄3年(1227年)、父・忠久の死により家督を継ぐ。しかし在国はせず、鎌倉に在住して有力御家人として近習番役などに任じられ、幕政で重きを成した。その功により伊賀,讃岐,和泉,越前,近江国内などに地頭職を与えられた。
 文永2年(1265年)、嫡男の久経に家督を譲った。文永9年(1272年)4月10日、71歳で死去。墓地は鹿児島市の本立寺。または出水市野田町の感応寺。

 

伊作宗久 伊作久義

 文保元年(1317年)、父・伊作久長より家督を譲り受ける。当時、元寇による出費に苦しんでいた御家人達は先祖伝来の土地を売却し、商人などから借金をして生計を立てていた。宗久は幕府の許可を得て御家人と商人間の仲裁を行っていた。
 正慶2/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が幕府に叛旗を翻し各地の豪族に決起を促すと、島津宗家5代当主・島津貞久は倒幕軍に加わる。宗久は貞久と共に参陣。九州探題の北条英時を襲撃、勝利を収める。翌年、建武の新政が始まるが、宗久は恩賞を与えられなかった。そのため天皇に奏上し、所領を加増されている。
 建武2年(1335年)、後醍醐天皇と足利尊氏の間に紛争が勃発。貞久が尊氏方に属すと、宗久もこれに従う。翌年南朝方に敗れ尊氏が九州に落ち延びてくると、島津一族は薩摩,大隅の南朝勢力の討伐を命じられ、宗久は貞久指揮の下軍功をあげる。尊氏が京都へ侵攻すると一族と共に従軍、京都を奪還した。
 延元2/建武4年(1337年)、在京の宗久は国許の父・久長が南朝方の攻撃を受けたことを聞き、貞久を通じて尊氏に帰国を願い出る。尊氏の許可を得て貞久の庶長子・川上頼久と共に帰国。薩摩南部の南朝勢力討伐を命じられる。暦応3/興国元年(1340年)、貞久が帰国し南朝方の伊集院忠国の攻勢により占領された地域を奪還していくと、宗久もこれに参加する。康永元/興国3年(1342年)、懐良親王が征西将軍宮として薩摩谷山に到着すると、幕府は宗久に出陣を要請する。貞和2/正平元年(1346年)、伊集院忠国が伊作に侵攻すると、宗久は敗北し居城にて篭城している。
 貞和5/正平3年(1349年)、幕府内で内訌が起こり、尊氏の弟・直義が追放されると、直義の養子で尊氏の庶長子・直冬は身の危険を感じ九州へ潜伏。翌年幕府は宗久に直冬捕縛の命を発す。しかし幕府内の事態が一変し直義が復帰、直冬が九州探題に就任したため討伐は中止される。幕府内の混乱を収めるため尊氏・義詮親子が南朝方に降伏すると、貞久・宗久ともに南朝に帰属、直冬を攻撃した。その後、尊氏が再び南朝に背くとこれに従い、終始幕府と行動を共にする。
 文和3/正平8年(1354年)、長子・親忠に家督を譲り隠居し、ほどなく死去。 

 建徳2年(1371年)、父・伊作親忠より所領を受け継ぐ。応永2年(1395年)、今川了俊が九州探題としての任務を終え駿河国守護となり任地に赴くが、その際に島津討伐の書状を発す。これに応じた薩摩北部の渋谷氏が決起すると、島津宗家と共に征伐に参加。渋谷氏を撃退したが、島津宗家の内部では7代当主・島津伊久と、奥州家2代で当時伊久から家督を譲られていた島津元久の対立が生まれていた。
 応永4年(1397年)、久義は宿怨のあった加世田別府城主・別府忠種を攻撃するも、島津宗家の仲裁により撤兵。応永6年(1399年)、元久から別府氏の所領を与えるという書状を受け取り、翌年、伊久からは阿多田布施を支配する二階堂氏の所領を与えるという書状を受け取った。応永11年(1404年)、久義は二階堂氏を攻撃するが、伊久は攻撃を非難し二階堂氏に援軍を送る。応永13年(1406年)、これに対し元久は久義を援護、二階堂氏は城を棄て敗走、田布施は久義の領地となった。
 応永18年(1411年)、元久が死去。元久の弟・久豊と元久の寵臣で島津家庶流の伊集院頼久の間に争いが起こると、久義は伊集院氏に加担。久豊は敗れ鹿児島から逃亡する(伊集院頼久の乱)。応永21年(1414年)、頼久は鹿児島へ侵攻するも敗退、逆に久豊は伊集院氏の一族が支配する給黎に侵攻。久義は総州家の島津久世と共に援護に向かい久豊を破るものの、相良氏の援軍を得た久豊により敗退する。
 その後、久義の跡を継いだ子・勝久が久豊に面会し非礼を詫びたため、島津宗家と伊作氏は和解に至る。しかし久豊は伊作氏のことを完全に許したわけではなく、久義の弟・十忠が伊作氏の家督を狙っていることを知るとこれを黙認。応永29年(1422年)、家督を狙い挙兵した十忠によって久義は殺害された。

伊作勝久 伊作教久

 薩摩国島津氏の分家・伊作氏5代当主。父・伊作久義は伊集院頼久の乱で伊集院氏側に加担、島津宗家8代当主・島津久豊と争いを繰り返していた。応永22年(1415年)、勝久は鹿児島に向かい久豊にこれまでの非礼を詫びたため、久豊はこれを許している。さらに勝久は、伊集院氏に味方し久豊と対立していた総州家の島津久世を説得、翌応永23年(1416年)には久豊と久世の対面を成功させる。しかし久豊は宿泊中の久世を包囲し総州家の所領を要求したため久世は自害。以後、勝久は再び伊集院方につき久豊と戦うことになった。
 応永24年(1417年)、久世の家臣が久豊に対し謀反。久豊が討伐の軍を発すると、勝久は久豊と戦うため出陣する。久豊は敗れ、鹿児島へと退却した。伊集院頼久の乱が終結すると、久豊は勝久に阿多,日置,南郷,高橋,知覧院,瀬々村などの領地を与え懐柔した。翌応永25年(1418年)、領地を失った阿多氏が謀反。勝久は久豊に援軍を要請するも、阿多氏に協力する豪族が多く勝久は敗退する。応永26年(1419年)、久豊は長男・忠国を大将とし反久豊勢力を攻撃。勝久も忠国の軍に加わり総州家の居城・木牟礼城を攻める。阿多氏との紛争も応永28年(1421年)に阿多氏から奪った田布施を放棄することで終結させた。
 当時、勝久の居城である伊作亀丸城は、父・久義と長子・教久が留守を預かっていた。前々から勝久の叔父・十忠(久義の弟)は伊作氏当主の座を狙っており、常々久豊にもその野望を告白していた。勝久を快く思っていなかった久豊はそれを黙認していた。勝久が木牟礼城攻めに参加すると十忠は久義を殺害。教久も殺害しようとしたが、教久は家臣に守られ伊作亀丸城に立て篭もる。十忠は久豊の命で実行したと公言し、久豊も十忠の行動を支持。伊作氏縁故の豪族は勝久の助命を嘆願したため、久豊は領地削減と勝久の亡命を条件に助命を認めた。久豊の長子・忠国は側室が勝久の娘であったことから、勝久に薩摩を出ることを勧める書状を送る。その結果、勝久は肥後国へ亡命。一方、十忠はのちに久豊の怒りを買い逃亡、消息不明となった。
 勝久は薩摩を追われたが、永享5年(1433年)、子・教久が家督を継ぐことが許され、伊作氏は家名を保った。 

 薩摩国島津氏の分家・伊作氏6代当主。年代的に考えると「教」の字は当時の室町幕府の将軍・足利義教から下賜されたものと推測される。
 応永29年(1422年)、祖父であり伊作氏4代当主・伊作久義が弟の十忠により殺害されると、久義と共にいた教久の身にも危険が及ぶが、家臣に守られ居城の伊作亀丸城に篭城。島津宗家8代当主・島津久豊はこの騒動の原因が教久の父・勝久にあるとしたため、勝久は肥後国へ追放される。教久は縁故の市来氏に預けられることになった。永享5年(1433年)、島津宗家9代当主・島津忠国の弟で守護代の用久の命で領地は大幅に減ったものの伊作へ復帰することになった。
 嘉吉2年(1442年)、伊作にて死去。家督を継いだ子・犬安丸が長禄2年12月4日(1459年1月8日)に急死すると、島津忠国の3男・久逸が養子に入り、伊作氏を継承した。 

伊作久逸 伊作善久(新納忠真)

 嘉吉元年(1441年)、島津氏第9代当主・島津忠国の3男として誕生。長禄2年(1458年)、伊作氏7代当主・犬安丸が幼くして急死したため、伊作氏の養子に入り跡を継いだ。この伊作氏は、鎌倉時代の早い時期に分家し本家とは遠い関係にあったため、一族ながら家臣格の家柄であった。
 文明5年(1473年)、薩摩守護である島津氏10代当主・島津立久の命で日向国櫛間にて伊東氏に備えていた。ところが、対立する有力分家の新納氏は、立久の死後、本家を継いだ11代当主・忠昌に久逸を伊作へ還すように願い出て、忠昌はこれを聞き入れた。これに久逸は反発し、日向の伊東氏や豊後国の大友氏に助力を請い、新納氏の飫肥城を攻撃、忠昌に叛旗を翻した。久逸ら連合軍は、忠昌の居城・鹿児島清水城に迫り、忠昌は妻子を伊集院一宇治城に避難させるまでになった。しかし、文明16年(1484年)、忠昌は分家である相州家の島津友久や薩州家・島津国久ら近い島津一族を率いて伊作氏の討伐に出陣する。末吉で敗れた久逸は櫛間に退却、同年降伏し、伊作へ戻ることとなった。
 その後、明応3年(1494年)に嫡子・善久が下男により殺害されるという事件が起こった。久逸自身も薩州家の内紛に介入し、明応9年(1500年)に薩州家の島津忠興に攻められ戦死した。享年60。 

 応仁2年(1468年)、伊作氏8代当主・伊作久逸の長子として誕生。岳父である新納是久の死後、その名跡を継いで、新納忠真とも名乗った。
 明応3年(1494年)、馬飼いの下男により殺害される。享年27。 

町田久倍 町田久則

 薩摩国島津氏の家老。町田氏18代当主。永禄11年(1568年)、大口城の相良氏・菱刈氏の連合軍を攻めた際、久倍は菱刈家臣の有屋田源四郎を討ち取る武功を上げた。天正3年(1575年)に琉球王国よりの使節が来訪した際は、犬追物を披露する役に選出されている。また、この頃に伊集院の地頭にも任じられ、天正6年(1578年)の耳川の戦いや、同9(1581年)の相良氏の水俣城攻めなどにも参加、同13年(1585年)に島津義弘の3男・忠恒が元服する際には、16代・島津義久によりその理髪役を仰せ付かっている。
 その後は島津義弘に従い八代に在陣し、九州制覇に向け貢献するも天正15年(1587年)に豊臣秀吉が行った九州征伐により島津氏は敗れ、義久は泰平寺にて秀吉と和睦を結び、名を龍伯と改めた。義久は上洛し聚楽城にて改めて臣従の意を示したが、その際に久倍は嫡子・忠綱と2男・久幸を連れ義久の供をしている。
 久倍は忠良,貴久,義久,義弘の四代に仕え義久,義弘の代には家老職を務めたが、慶長5年8月28日に大病により播州明石浦にて没した。名跡は、嫡男の忠綱が文禄・慶長の役の際に朝鮮国唐島(巨済島)にて死去していたため、肥後氏の養子となっていた久幸が忠綱の養子として継いだ。

 父の久政が文禄・慶長の役での露梁海戦にて討ち死にしたため家督を継ぎ、鹿児島へ召し寄せられた。また、山田,大崎,隈之城,阿久根などの地頭を歴任、更に寛永9年(1632年)にも百次の地頭となった。
 慶長4年(1599年)、庄内の乱での山田城攻めのときは、火縄銃の弾に当たり手負いとなるも奮戦を続け、伊集院方の黒木越前を討ち取る功を上げた。翌年の関ヶ原の戦いにも従軍し、島津義弘に従い撤退戦を行うも途中で義弘を見失う。久則は京へ出て近衛家を頼ると、長谷場純智,川上久智,白浜重次,新納旅庵,喜入忠続ら10名と共に、三輪山の大先達前官より銀子一貫目を借りて薩摩への帰国を果たした。
 その後は琉球国への在番役を8年ほど務めた。寛永13年(1636年)、主君・島津家久(忠恒)の3男で加治木島津家の当主・島津忠朗の、その御付きであった市来家繁が死去したため、その代役を仰せ付かり加治木に移住した。しかし、翌々年の寛永15年(1638年)には再び鹿児島への帰参を命じられている。慶安2年(1649年)に家久の跡を継いだ島津光久の家老を仰せ付かり、寛文2年(1662年)まで務め上げた(以後の家老職は、子の忠代が引き継ぐ)。
 延宝4年(1676年)に死去した。

町田久成 島津忠綱

 慶応元年(1865年)、他の18名と共にイギリスへ留学。東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)。小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。
 ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し、維新改革,廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わる。官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。書画篆刻を自らよくし、美術品の鑑定眼が優れていた。
 町田は美術品の中でも特に和楽器に関心を持っていた。ある時、祇園の茶屋で遊んでいた際に芸妓が持っていた古い琴に惚れ込み、ゆずってもらえないかと頼みこんだものの断られたので、琴を芸妓ごとを身受けし、琴だけを手元に残して芸妓には暇を出したと伝えられている。音楽に造詣が深く、山井景順に師事して横笛を学んだ。
 明治天皇の銀婚式に杉孫七郎に参加するように請われたところ、このとき既に出家していた町田は貧しい姿をして宮門に参上した。警備のものが不審者と思いこれを止めたところ町田はその通りである。乞食坊主がこのような尊い儀式に参加するのは最も恐れ多い次第である。初めは参賀は恐れ多いので断ったのだが、参賀を厳達されたのでやむを得ず着た次第なりと答え警備の者の言うとおり引き返そうとするところで連絡を受けた杉が町田の悪戯には困ると言って通すように言ったという。
 ある骨董商が、庵を立て月に200円の布施をするので自分以外の骨董商の品の鑑定をやめてくれないかと頼んだところ。好意はありがたいが自分はようやく世間の煩を免れたところであり、自らの如き乞食坊主を金儲けの餌に使うのは友人としてあまりに過酷ではないか。御免被ると答えた。
 ある日、知り合いの料理屋の主人が町田のもとを訪れ、ある玉の鑑定書を請うた。町田がその鑑定書を何に使うのかと聞いたところ、町田の鑑定書があればある銀行家が2万5千円で買う約束があると答えたので、「それは面白い。乞食坊主が書いた紙切れにそんな価値があるとは恐れ入る。それではあなたはいかほど布施をするのか」と併せて聞いたところ、一般の商習慣に則って1割2千500円を布施するとのことだった。町田はそれに対して「2万5000円を布施すれば立派な奉書紙に書いてやる」と答えたので聞いていた者らは大笑いしたという。

 承久3年(1221年)、父・島津忠久が越前国守護に補任されたとき、17歳で守護代となり、同国生部に居住したと伝える。現在福井市生部町内に「越前島津屋敷跡」がある。しかし安貞2年(1228年)には島津氏に代わって後藤基綱が越前守護となったため、忠綱も同時に守護代を退任したものと推測される。薩摩国揖宿郡,知覧院等に地頭職を有していたが、前者に関しては文暦2年(1235年)、郡司・指宿忠秀との間に所領問題を起こし解職された。嘉禎2年(1236年)~文応2年(1261年)、鎌倉にあって歴代将軍に近侍。宝治2年(1248年)、4代将軍・藤原頼嗣に高麗山のヤマガラを献じている。寛元3年(1245年)8月16日の鶴岡馬場の儀にて流鏑馬の的立を務め、また正嘉元年(1257年)6月1日旬鞠会では見証(審判)に列していることから、文武に優れた人物であったことが窺われる。
 忠綱の没年は定かではない。墓所もいくつか伝わる。忠綱の居城があったとされる福井県丹生郡越前町の厨城山の近くに瓢箪塚と呼ばれる小丘があり、その上に忠綱の墓と伝える五輪塔が残されている。また、福井市の専光寺に残る「島津石」も忠綱の墓石とする伝説がある。たつの市揖保上にも墓石があり、同市の如来寺には位牌が奉られている。

 

島津忠行 島津忠景

 6代将軍・宗尊親王に仕える。弘安2年(1279年)、播磨国下揖保荘地頭職を母・越後局より相続し同地に下向。子孫は在地の有力国衆となり、15代・忠長までの事跡は『越前島津家文書』に記録されている。
 幕府の御家人であった忠行の下揖保庄への下向は、一説では元寇及び『筑紫大道』建設と関連していると考えられている。一度目の文永の役(1274年)後、元の侵攻に備え、軍用道路である『筑紫大道』が建設されたと考えられている。『筑紫大道』の存在は近年の発掘調査及び法隆寺の古文書『法隆寺領斑鳩荘絵図』により確認されている。『法隆寺領斑鳩荘絵図』には『筑紫大道』が斑鳩荘を東西に横切っていたことが示されている。斑鳩荘(播磨国の荘園)斑鳩寺は、忠行が築城した立岡山城(石蜘城)の北500mに位置し、さらに1km北に『筑紫大道』が走っていた。
 忠行は弘安6年(1283年)までに没し、その後、子の左衛門三郎行景,左衛門六郎忠幹が下揖保荘の相続をめぐって争論したことが知られる。また、『越前島津氏正統家譜』には忠行の官名について「三郎左衛門尉・周防守」とあるが、正応4年(1291年)12月7日付将軍家政所下文に「亡父左衛門忠行」云々とあり、また行景と忠幹がいずれも「左衛門」を冠していることから、実際は周防守に任官されず左衛門尉のまま終わったのではないかと推察できる。 

 学芸に優れ、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の近臣として廂衆,門見参衆,御格子上下結番,昼番衆等の御所内番役に選ばれる。弘長元年(1261年)『宗尊親王家百五十番歌合』をはじめ、親王や二条為氏ら主催の和歌会・連歌会に度々列席し、『弘長歌合』では源親行と番えられ、これに勝つなど成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。そのためか宗尊親王からの信任が非常に厚く、『吾妻鏡』をみると親王の私的な行動にまで供奉しているのがしばしば見受けられ、兄・忠行はもとより本宗家の忠時,久経らと比較しても顕著な活躍を示しているのがわかる。蹴鞠にも造詣が深く、弘長3年(1263年)には旬御鞠奉行にも選任された。
 文永2年(1265年)12月、検非違使に補せられる。気骨のある誠実な人物で、文永3年(1266年)7月3日、宗尊親王の更迭をめぐる騒動の際には多くの近臣が親王を見捨てて将軍御所から逃げ出す中、忠景ら数名のみが御所に残留し、その姿勢を『北条九代記』などに評価されている。翌年12月叙爵。晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたと推測される。正安2年(1300年)5月没、60歳。忠景の作品は『続古今和歌集』,『続拾遺和歌集』,『新後撰和歌集』,『玉葉和歌集』,『続千載和歌集』,『続後拾遺和歌集』,『新千載和歌集』,『新拾遺和歌集』,『新続古今和歌集』などに収録されている。 

島津忠長 島津忠之

 播磨島津氏の15代当主。『越前島津氏正統家譜』,『越前島津家文書』(越前島津氏系図)に記載される最後の当主である。播磨国立岡山城(石蜘蛛城)主。
 天文3年(1534年)8月26日、赤松晴政に従い、播磨揖東郡で浦上景宗と戦うも討死した(朝日山の合戦)。享年34。立岡山城の忠長は篭城が不利と見るや、打って出て朝日山にて戦死したものと考えられる。大日寺に島津氏の墓はないが、朝日山の合戦では大将格の人が戦死したと寺に伝わっており、毎年住職がまとめて供養を行っている。

 島津忠長の長男。天文3年(1534年)、父・忠長が朝日山の合戦で戦死すると、播磨島津氏の本領である播磨国布施郷,下揖保庄は、一時、欠所となっていたと考えられるが、天文23年(1554年)12月27日、忠之は赤松晴政の奉行・難波泰興によって、布施郷,下揖保の地頭職を返付されている。
 忠之は永禄12年(1569年)に赤松政秀と小寺政職とが戦った青山合戦に参戦して討死したと伝えられる。また天正3年(1575年)に小寺政職と戦って戦死した島津新九郎を忠之と同一人物とする説も存在するが、そのことを裏付ける史料はない。いずれにせよ、赤松氏側であった新九郎は小寺勢と戦い、敗死したものと考えられる。 

島津義弘

 島津忠之の嫡男として生まれる。天正3年(1534年)に忠之が青山の合戦で戦死した際、義弘の母はわずか2歳の義弘を抱え、足軽を使って十文字鑓をもち、石蜘城から領地下揖保庄上村にかえる、と伝えられる。成人し宇野氏の女を娶り、彦兵衛尉蔵人義弘と名乗る。
 弟・佐渡守忠之,長男・蔵人豊後太夫忠遠,次男・長井大膳大夫忠頼と共に豊臣秀頼に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大坂城に籠城する。同20年(1615年)の大坂夏の陣後、大坂城を逃れて、赤松祐高らと共に網干大覚寺に籠もる。しかし、池田勢に包囲され、祐高は衆兵を救わんとして切腹した。逃れた義弘は下揖保庄上村に帰還し剃髪、宗賀と名乗る。しかし2ヶ月後、上村を池田勢に包囲され、長男・忠遠,次男・忠頼は父に代わって切腹した。
 家督は3男・甚左衛門政之が継ぎ、切腹した忠遠の子・忠範は下揖保庄西の野田の郷長となった。この時代、薩摩藩は龍野藩領の室津港を江戸・京都への拠点としており、薩摩公が来た際には、道案内や上洛のお供、揖保川東岸において御座所を設け、これを迎えたりした。こうした交誼は義弘の孫で19代目の島津藤太夫義綱の代まで続いた。
 寛永5年(1628年)正月、「慣例申伝之事」を子孫に書き残す。これには文書類を火災などで失わぬこと、家系は絶やさず、血縁を持って繋ぐこと、埋葬方法などが記されている(揖保上の本家に保存されている)。