SM01:島津忠久 | 秦 酒公 ― 惟宗永厚 ― 島津忠久 ― 伊集院久兼 | SM19:伊集院久兼 |
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伊集院忠国 | 伊集院久氏 |
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南北朝の争乱が起きると、当初は島津貞久とともに足利尊氏に協力していた。足利尊氏が南朝方に敗れ九州に落ち延びると、貞久の招きに応じて北九州に出陣し、筑後の南朝方豪族・菊池氏を討つ。薩摩に戻った忠国だったが、延元2/建武4年(1337年)、懐良親王が征西将軍に任命され、先遣として南朝方公家の三条泰季が薩摩へ到着するや、南朝方に属して居城の一宇治城で挙兵する。南朝方に属した薩摩の豪族は多かったが、島津一族の中で忠国は唯一南朝方に属した人物であった。 |
室町時代前期の武将で薩摩守護島津氏の一族伊集院氏6代当主。南北朝時代の動乱が始まると、島津宗家は足利尊氏に従い続けていた。父・忠国は島津一族の中で唯一南朝方に属していたが、久氏は島津本家が薩摩の混乱を収拾するため南朝方に降伏すると、ともに南朝軍として戦っている。
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伊集院頼久 | 伊集院煕久 |
応永16年(1409年)、室町幕府より島津元久が薩・隅・日三州の守護に任命されると、御礼の使者として先遣に任ぜられる。頼久は元久が上京する一年前から準備を整え、翌年、元久が将軍・足利義持に面謁した際の献上品は幕府の高官を驚かせただけではなく、天下の評判ともなった。 |
島津久豊が死去、子の忠国が守護の地位を継ぐと、石谷の地が町田高久に与えられた。石谷の地は先代久豊と頼久が和解し、その条件として頼久の娘(熙久の姉)が久豊に嫁いだ際、伊集院側から化粧料として贈られた土地であった。既に久豊も煕久の姉も亡くなっており、石谷の地が町田氏に与えられることに不満を覚えた煕久は、宝徳元年(1449年)、町田(石谷)高久を居城の一宇治城に招き妙円寺の山門付近で高久らを迎え討ち、彼を殺害する。これを聞いた忠国は激怒、翌年に一宇治城を襲撃、熙久は城を脱出して肥後に逃亡した、といわれているが詳細は不明。 |
伊集院忠棟 | 伊集院忠真 |
島津氏の家臣・伊集院忠倉の子として誕生。初名は忠金で天正4年(1576年)までには忠棟と改名している。早くから島津義久に仕え、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切った。武将としても肥後国や筑前国などの出兵で多大な功績を挙げている。また、歌道にも優れ、細川藤孝と親交があり、豊臣秀吉の九州出兵以前から、豊臣氏と和睦の交渉を進めていたという。 |
父同様島津氏に仕え、慶長の役に出陣し、泗川の戦いでは忠真の部隊は6,500以上の首を挙げたとされる。ところが、慶長4年(1599年)、父・忠棟が権勢を誇りすぎていたとして島津忠恒によって殺害されると、その跡を継ぐとともに居城の日向国庄内の都城に立て籠もり、島津氏に対して公然と反旗を翻した(庄内の乱)。 |
今給黎久治 | |
久治の家は島津家の重臣である伊集院忠朗とは別流で、伊集院氏5代・忠国から分かれた家である。日向国福島,薩摩国桜島・市来・出水,大隅国高山の地頭を務めた。 |