文章生を経て大宰少監,式部丞を歴任し、久寿2年(1155年)正六位上、永暦元年(1160年)従五位下に叙される。文治2年(1186年)筑後守。 歌人として私撰集に『言葉集』、家集に『惟宗広言集』がある。『千載和歌集』に5首と『玉葉和歌集』に1首が採録されている。また、今様の名人として後白河法皇に親しく仕えた。 薩摩島津氏祖となる島津忠久(惟宗忠久) を実子とし妻は比企尼長女(丹後内侍)とする説もあるが、島津氏に伝わる公式書類にしか出てこない話であり近年疑問視されている。忠久は、通字「忠」の問題などから同族の惟宗忠康の実子で広言の養子となった可能性がある。
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鎌倉幕府御家人で若狭国守護。惟宗氏の流れを汲む島津氏の一門で、薩摩国守護・島津忠久の弟(あるいは兄)と伝える。堤忠季さらに後に若狭忠季と名乗った。若狭島津氏の祖。 若狭遠敷郡玉置荘津々見保の地頭職に補任されたことから、最初、津々見忠季と名乗る。建久7年(1196年)9月1日、源頼朝は若狭国内の最有力在庁官人であった稲庭時定より没収した遠敷・三方両郡の所領25か所を忠季に与えた。忠季はこの時点で若狭国守護と補されたと考えられ、これ以後、忠季が「若狭」という国名を苗字としたのは若狭国の中心に立つこととなった自らの立場に対する自覚によるものであろうと考えられている。東寺百合文書には、忠季は若狭守護補任と同時に太良荘地頭職も与えられ、派遣した代官が苛政を行って公文や百姓と対立した様子が記されている。 正治元年(1199年)には梶原景時を弾劾する連判状に名を連ねた。建仁3年(1203年)、比企能員の変に連座して所職を没収される。承久2年(1220年)、若狭国守護職に復す。翌年、承久の乱が起こると鎌倉方に属して活躍したが、6月14日宇治川における合戦の際、急流のため渡河に失敗して死去。戦後、兄・忠久の子で甥に当たる忠時が若狭国守護職を継いだ。 子孫は、三方郡に本拠地を構えたことから三方氏を名乗り、室町時代初期に若狭守護であった一色氏の被官となった。一色氏が若狭守護を解任されると三方氏も一色氏に付き従い、南山城に本拠地を移し、諸城の城主を務めたりした。
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