中国(秦王朝)渡来系

CHN1:秦王朝  弓月君 ― 秦 酒公 HT01:秦 酒公

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秦 酒公 秦 河勝

 5世紀後半頃の豪族。浦東君の子。渡来系氏族の廷臣と伝えられている。
 『日本書紀』巻第十四によれば、雄略天皇が木工の闘鶏御田に命じて楼閣を造らせた。御田は楼に登って、四方に飛ぶように疾走した。これを見ていた伊勢の采女がその速さに驚き 、饌をひっくりかえしてしまった。天皇はこれを見て、御田がその采女を犯したのだと疑い、物部の手に渡して処刑しようとしたとき、酒公が琴を弾いて歌を歌い、御田の無実を天皇に悟らしめた。
 また、秦の民が分散して臣・連などの姓を持つ諸氏のもとに置かれ、各々の一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いて、秦造酒は天皇に訴えた。天皇はこれを集めて酒公に賜った。酒公はこの百八十種勝を率いて庸,調の絹や縑を献上し、その絹・縑が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜ったという話がある。この話は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』にもみえ、『新撰姓氏録』には、さらに大蔵の長官になったと伝えられている。

 河勝は聖徳太子の儕輩(同志)として国造りに大きく貢献したとされており、当時の秦氏の族長的人物であったとされる。富裕な商人でもあり、朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
 『上宮聖徳太子傳補闕記』によると、 用明天皇2年(587年)の丁未の乱の際は、軍を率いて聖徳太子を守護しつつ、聖徳太子に命じられて仏像とするための白膠木を用意したという。迹見赤檮が榎の木から射落した物部守屋の首を斬ったのも秦河勝であるという。そして乱後に冠位十二階の大仁に叙された。なお、河勝の丁未の乱参戦については、『日本書紀』にそのような記述が見られず、太子と河勝の関係を踏まえた伝承と思われる。
 また、聖徳太子が諸国を巡った際に、山城国の楓野村(=現在の葛野)の蜂丘の南に宮を建て、その宮を河勝が一族を率い敬うことを怠らなかったので小徳に叙され、また宮を賜ったという。後に新羅の仏像を賜った際には宮を寺とし、水田數十町並びに「山野の地」等を施入した。これが広隆寺である。 一方『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、河勝が、この仏像を譲り受け「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に崩御した聖徳太子の供養のために建立されたとある。
 後世の書物において河勝が授けられたとされる小徳(大花上)は、大夫格の代表者に授けられた冠位であって、その格ではない河勝が小徳になったというのは後世の秦氏の誇張である。
 また、名前に関する逸話が残る。初瀬川氾濫により三輪大神の社前に流れ着いた童子を見た欽明天皇は、以前の夢で「吾は秦の始皇帝の再誕なり、縁有りてこの国に生まれたり」と神童が現れていたことから、「夢にみた童子は此の子ならん」として殿上に召した。後に帝は始皇帝の夢に因んで童子に「秦」の姓を下し、また初瀬川氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされる。

秦 綱手 秦 石竹
 飛鳥時代の人物。姓は造、死後に忌寸。秦河勝または秦和賀の子とする系図がある。冠位は贈大錦上。壬申の乱の功臣とされるが、『日本書紀』が壬申の乱を記述するくだりに綱手の名は現れない。天武天皇9年(680年)5月21日に死に、壬申の年の功により大錦上の位を贈られた。それから16年後の持統天皇10年(696年)5月3日に、大錦上秦造綱手が忌寸の姓を与えられた。事情は不明だが、遺族の申請によるものかと推測する説がある。

 奈良時代後期の官人。名は伊波太気とも記される。姓は伊美吉(忌寸)。官位は外従五位下・播磨介。
 『万葉集』によると、天平感宝元年5月9日(749年5月29日)に「諸僚」(越中国府の役人)が当時、越中少目であった石竹の館で宴を行い、主人である石竹が百合の花縵3枚を作り、豆器(高杯)に重ね載せ、賓客に贈呈しており、その際にその花縵を題材として、越中守・大伴家持,越中介・内蔵縄麻呂が合わせて3首の歌を詠んでいる。同年(天平勝宝元年)12月頃、同じく少目の石竹の館の宴にて、家持が詠んだ歌が1首見える。翌天平勝宝2年10月16日(750年11月19日)に、朝集使として都に向かう石竹への餞別として、国守の家持が贈った歌も存在する。
 称徳朝の天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱後の論功で、弓削耳高,田部男足,秦智麻呂,内蔵若人,美努奥麻呂,大原家主,津真麻呂,雀部兄子,丈部不破麻呂,建部人上,桑原足床らとともに正六位上から外従五位下に叙せられている。
 その後しばらく記録が途絶えるが、光仁朝の宝亀年間(770年~ 780年)には飛騨守,播磨介と地方行政に携わっている。

秦 広国 秦 弁正
 秦河勝は丁未の乱(587年)で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功を立て、信濃国に与えられた領地に子の広国を派遣した。

 飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。秦牛万呂の子とする系図がある。少年の頃に出家し、玄学にすぐれていた。
 大宝2年(702年)留学僧として第8次遣唐使に加わり入唐。唐では、囲碁を能くするとして、まだ皇子であった李隆基(のちの玄宗)によってたびたび賞遇された。その後、還俗し、唐人の女性と婚姻したと想定され、息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている。秦朝元は養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国に従って訪日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で没した。
 『懐風藻』に弁正による漢詩が残っている。また、故宮博物館に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。

秦 朝元 秦 友足

 奈良時代の官人。姓は忌寸。官位は外従五位上・主計頭。大宝2年(702年)留学僧として第8次遣唐使に加わり入唐した弁正の子として唐の地にて生まれ、養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国と共に訪日したと考えられている。
 翌養老3年(719年)に忌寸姓を賜与される。養老5年(721年)元正天皇の詔により官人の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして吉宜らと共に朝元の名が挙げられ、絁10疋,絹糸10絇,麻布20端,鍬20口を与えられている。
 聖武朝の天平2年(730年)訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ、翌天平3年(731年)外従五位下に昇叙している。天平4年(732年)多治比広成を大使とする第10次遣唐使節に入唐判官として加えられている。唐では父・弁正の縁故により、玄宗によって厚く賞賜を与えられる。
 天平6年(734年)帰国し、翌天平7年(735年)入京して外従五位上に叙されている。天平9年(737年)図書頭。天平18年(746年)元正天皇の御所に左大臣・橘諸兄らと共に参上し、雪景色を和歌に詠むように、との詔があった。他の出席者は和歌で応えたが、秦朝元だけは詠まなかったため、橘諸兄に「麝香をもって贖え」と言われ、黙り込んだと伝えられる。同年3月に主計頭に任ぜられている。

 672年の壬申の乱で大友皇子側について戦い、鳥籠山で敗れて戦死した。秦友足についての史料は、鳥籠山の戦いについて記した『日本書紀』中の一文しかない。そこには「男依らが近江の将秦友足を鳥籠山で討ち、これを斬った」とある。
 村国男依らが率いる大海人皇子側の軍は、数万の兵力でこのとき琵琶湖東岸を西進していた。これに対して大友皇子側(近江側)も数万の兵を向かわせたが、7月7日に息長の横河で会戦して敗れた。鳥籠の戦いはその2日後である。
 この頃の近江軍は指揮系統が混乱していた。書紀の表現では秦友足がこの戦いの総指揮官と読めるが、確実ではない。鳥籠は犬上郡にあるので、鳥籠山は犬上郡と坂田郡との境界付近の丘陵にあたるとされるが、具体的にどの山かについては諸説ある。