CHN1:秦王朝 | 弓月君 ― 秦 酒公 | HT01:秦 酒公 |
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秦 酒公 | 秦 河勝 |
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5世紀後半頃の豪族。浦東君の子。渡来系氏族の廷臣と伝えられている。 |
河勝は聖徳太子の儕輩(同志)として国造りに大きく貢献したとされており、当時の秦氏の族長的人物であったとされる。富裕な商人でもあり、朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。 |
秦 綱手 | 秦 石竹 |
飛鳥時代の人物。姓は造、死後に忌寸。秦河勝または秦和賀の子とする系図がある。冠位は贈大錦上。壬申の乱の功臣とされるが、『日本書紀』が壬申の乱を記述するくだりに綱手の名は現れない。天武天皇9年(680年)5月21日に死に、壬申の年の功により大錦上の位を贈られた。それから16年後の持統天皇10年(696年)5月3日に、大錦上秦造綱手が忌寸の姓を与えられた。事情は不明だが、遺族の申請によるものかと推測する説がある。 |
奈良時代後期の官人。名は伊波太気とも記される。姓は伊美吉(忌寸)。官位は外従五位下・播磨介。 |
秦 広国 | 秦 弁正 |
秦河勝は丁未の乱(587年)で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功を立て、信濃国に与えられた領地に子の広国を派遣した。 |
飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。秦牛万呂の子とする系図がある。少年の頃に出家し、玄学にすぐれていた。 |
秦 朝元 | 秦 友足 |
奈良時代の官人。姓は忌寸。官位は外従五位上・主計頭。大宝2年(702年)留学僧として第8次遣唐使に加わり入唐した弁正の子として唐の地にて生まれ、養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国と共に訪日したと考えられている。 |
672年の壬申の乱で大友皇子側について戦い、鳥籠山で敗れて戦死した。秦友足についての史料は、鳥籠山の戦いについて記した『日本書紀』中の一文しかない。そこには「男依らが近江の将秦友足を鳥籠山で討ち、これを斬った」とある。 |