大化元年(645年)古人大兄皇子を擁立し、蘇我田口川堀,物部朴井椎子,吉備笠垂,倭漢文麻呂と謀反を企てたとされている。この際に名を挙げられたそれぞれは、しかし処罰された形跡はなく、田来津は斉明天皇7年(661年)9月には狭井檳榔と共に兵士5000を率いて、百済の王子・扶余豊璋を百済に衛送している。 翌天智天皇元年(662年)12月に豊璋と臣下の扶余福信は、食糧事情を理由に州柔から避城への遷都を主張する。主に豊璋が険峻な要害の周留城より、暮らしやすい避城に住みたがり、福信はこれに反対したが豊璋を説得できなかった、とされている。そもそも豊璋は百済遺臣らに侮られており、百済陣営は一枚岩とは言い難い状況であった。田来津の懸念は的中し、遷都間もない天智天皇2年(663年)2月、新羅人が百済南部の4郡を焼き討ちして徳安などの要地を奪取したこのため、新羅勢力から近過ぎる避城から州柔へ還都することになり、遷都は百済に費用と労力の浪費および内部対立を残しただけのものとなった。 唐軍の侵攻から百済を救済するため、同年3月に大和朝廷は前軍将軍・上毛野稚子以下27,000人の兵士を朝鮮半島に派遣した。豊璋は城兵を見捨てて脱出し、8月13日にこの軍に合流した。しかし同年8月27から28日の白村江の戦いで大和朝廷軍は唐の水軍に敗れ、百済救済は無に帰した。この時、田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが遂に戦死した。
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