6世紀前半ごろの豪族秦氏の人物。姓はなし。山背国紀郡深草里(現在の京都市伏見区)の人。 『日本書紀』巻第十九は、以下のような物語を最初に載せている。 欽明天皇が幼少の頃、「秦大津父という者を寵愛すれば、壮年になって必ず天下をしらすことができるでしょう」という夢をみた。目を覚ました天皇は、使いを遣わして広く探させたところ、その人物を見つけることができ、天皇は大津父に、「何か思い当たることはないか」と尋ねた。すると 大津父は、「私が伊勢に商価(商い)をして還る時、山(稲荷山)南方の大亀谷辺りで、2匹の狼が闘って血まみれになっているのを見かけました。馬から下りて、手を洗い、口をすすいで、『貴い神であるあなたがたが争っていたら、猟士にたちまち捕らわれてしまうでしょう』と言って、争いを止めて、血にぬれた毛を拭い洗って、逃がしてやりました」と言った。天皇は「この報いだろう」と感心し、彼を近侍させ優遇した。大津父は富を重ね、天皇が即位した後には大蔵の司に任じられた。 欽明天皇元年8月(540年)には、漢人,秦人ら日本に帰化した人々を戸籍に登録したとあり、秦人7,053戸を管掌する伴造に「大蔵掾」を任命したと記されている。この「大蔵掾」は大津父のことであろうと想像される。 この説話は、秦氏と商業活動との関連性を示している。すなわち、調の貢納にあたる秦氏集団が、族長である大津父の下に組織化され、朝廷の蔵の経営に参与するようになった歴史的事実を示しているものと推定される。 また、秦氏の拠点は、紀伊郡深草の地のほかに、葛野郡太秦の地が有名であり、6世紀中葉から7世紀初頭頃に、秦氏の族長が深草から太秦に移住したか、あるいは深草から太秦の一族に族長権が移動したことが考えられる。あるいは、深草の秦氏は直系ではなく、傍系であった可能性もある。『深草」の名前は、「伊奈利社」や、『書紀』巻第二十四の山背大兄王の変の際の「深草屯倉」などに現れている。
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秦中家忌寸等の遠祖と伝えられ、以下の伏見稲荷大社創建の物語が伝えられている。 伊侶具秦公が、稲梁を積むほどの富裕な生活をしていた。そこで餅を用いて的としていたところ、餅が白鳥に姿を変え、飛翔して山の峰に行ってしまい、そこで子を産んだ。最後にはここが神社となった。その子孫が先の過ちを悔いて神社の木を抜いて家に殖やし祭っていた。今その木を植えて育てば福が来、枯れれば福は来まいという。 このほか、『河海抄』所引の『山城国風土記』によると、伊侶具の餅が鳥と変じて飛び去った森を「鳥部」といった、ともいう。
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