秦王朝

 秦王朝 CHN1:秦王朝

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秦仲 襄公 穆公

 秦仲3年(前842年)、周の厲王が無道だったため、諸侯で叛く者が出始めた。西戎もこれに乗じて叛き、犬丘の大駱(秦の初代当主である非子の父)の一族を滅ぼした。
 秦仲23年(前822年)、周の宣王が秦仲を大夫として西戎を討伐させたが、逆に秦仲は西戎に殺されてしまった。秦仲の死後は長子の荘公が継いだ。

 襄公は秦の太子であった兄の世父から太子を譲られ、秦の太子となった。荘公44年(前778年)、荘公が卒去したため、襄公が後を継いだ。襄公元年(前777年)、襄公は妹の繆嬴を豊王の妻とした。
 襄公2年(前776年)、戎が犬丘を包囲した。兄の世父はこれを撃って戎の捕虜となったが、1年あまりして釈放された。
 襄公7年(前771年)春、周の幽王は褒姒を寵愛し、太子を廃して褒姒の子を嫡子とした。また、しばしば諸侯を欺いたので、諸侯は幽王に叛き、西戎・犬戎・申侯とともに周を撃ち、幽王を驪山の麓で殺した。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦い、周の洛邑東徙でも周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。ここにおいて襄公は秦国を創始し、諸侯と聘享の礼を通じた。襄公は騮駒,黄牛,羝羊の各3匹を供え、西畤を作って上帝を祠った。
 襄公12年(前766年)、襄公は戎を討って岐山の麓で薨去し、子の文公が立って秦君となった。

 隣国晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるようになった。
 紀元前651年に晋の献公が死ぬと、後継争いで晋国内は騒乱状態となった。晋の公子夷吾は晋公の座に着くために穆公に援助を要請した。穆公は夷吾の兄重耳の方を人格的に好んでいたが、重耳が辞退したことと、英邁の誉れ高い重耳に比べると出来の悪い夷吾を晋公に推せば何かと自分に有利になると踏んで、夷吾を晋に入れて恵公とした。この時に恵公は穆公に礼として領土の割譲を約束していた。しかし晋に入った恵公は約束を破り、晋国内で悪政を行った。
 紀元前647年、晋は不作になり、食糧が不足したために秦へ援助を要請した。穆公は「恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無い」と言い、晋に大量の食糧を送った。その翌年に今度は秦が不作となった。穆公は晋へ援助を要請した。しかし恵公は食糧を送らず、逆に好機ととらえて秦に攻め込んできた。これにさすがの穆公も激怒し、翌年に出兵して晋軍と韓原で激突し、大勝して恵公を捕虜とした。凱旋して帰ってきた穆公は恵公を祭壇で生贄にしようと思っていたが、夫人の穆姫に止められた。そこで恵公の太子圉を人質にして、恵公の帰国を許した。
 紀元前641年、度重なる土木工事で増築して、国家自体が疲弊した同族の梁を滅ぼした。
 紀元前638年、晋で恵公が重病となると圉は晋に逃げ帰った。度々の背信に怒った穆公は楚にいた重耳を迎え入れて、共に兵を出して重耳を文公とした。紀元前624年、文公没後の晋を討ってこれを大いに破り、西戎を討って西戎の覇者と認められた。
 紀元前621年、死去。この時に主立った家臣177名が殉死したため秦の国力は大きく低下し、一時期、表舞台から遠ざかることとなる。

康公 簡公 献公

 父の穆公の死を追うように200名近くの重臣たちが次々と殉死したことにより秦の国力は大きく衰え、再び隆盛を得るのにしばしの時を必要とした。後に始皇帝はこのときの停滞を教訓として、殉死を防ぐ目的で兵馬俑を造らせたと言われている。
 紀元前620年、晋の襄公が死去すると後継者争いが起こり、当時秦にいた公子雍が新たな晋公に即位すると決まったところを、宰相の趙盾が約束を破って夷皋を立てた(霊公)。このため、公子雍を迎えるための使者であった晋の先蔑と士会は怒って秦に亡命した。当時、士会は無名の大夫であったが軍旅の才を見せ、康公へ献言して晋の領土を次々と攻略した。これに悩んだ趙盾は郤缺に相談して謀略を用い、士会を晋に取り戻したほどである。このとき、士会の一族の一部が秦に留まり劉氏を名乗るようになった。漢の高祖劉邦はこの一族の末裔であると名乗ったという。
 紀元前609年、在位12年で没した。こののち秦は早世する君主が続句。

 簡公6年(前409年〉、令を下し、初めて役人に剣を帯びさせた。また、洛水に溝を掘って重泉に長城を築いた。

 出公2年(前385年)、庶長が霊公の子である献公を河西から迎えて秦公に就かせ、出公とその母を殺して深淵に沈めた。また、晋がこの混乱に乗じて河西の地を奪っていった。
 献公元年(前384年)、献公は殉死を禁じ、翌年(前383年)には、櫟陽に都を遷した。
 献公11年(前374年)、周から太史儋がまみえ、「17年経つと秦から覇王が出ましょう」と告げてきた。
 献公21年(前364年)、章蟜は晋と石門で戦い、6万人を斬首し、周の天子から黼黻の衣服を賜った。
 献公23年(前362年)、魏・晋と少梁で戦い、その将の公孫痤を捕虜とした。
 献公24年(前361年)、献公が薨去し、子の渠梁が立って秦公(孝公)となった。

孝公 孝文王 荘襄王
 即位するや、国中に布告を出して国政の立て直しをはかり、やがて、魏からやってきた商鞅を起用して抜本的な国政の改革(商鞅の変法)を断行、穆公亡き後の衰退した秦を強力な中央集権国家として生まれ変わらせた。都を櫟陽から咸陽に遷都。対外的にも魏を破るなど富国強兵に努めた中興の祖。

 紀元前265年、昭襄王の後継の太子として安国君が選ばれた。安国君には20人以上の子がおり、その中にも後の太子となる異人もいた。異人は母の夏姫が安国君から気にいられなくなり、趙の人質として捨て駒のごとく出されていた。それを見かけた大商人の呂不韋が異人に投資をして趙での名声を上げ、安国君に気にいられていたが子供のいなかった華陽夫人に対して呂不韋が養子として名声がある異人をもらい受けるように助言をし、それを華陽夫人が安国君に伝え安国君は太子として異人を指名した。
 後に異人は秦が紀元前258年から紀元前257年にかけて趙の首都邯鄲を攻めた際に処刑されかけたが呂不韋の手引きで邯鄲を脱し、秦に帰国。華陽夫人と面会して名を子楚と改名した。
 紀元前251年秋、父の昭襄王が死去し、安国君が孝文王となり、華陽夫人が華陽后、子楚が太子となった。また母親の唐八子に唐太后を諡号。
 紀元前250年10月、父の喪が明けて正式に即位したが、3日後に53歳で死去した。

 安国君(のちの孝文王)には20人以上の子があった上に母の夏姫が安国君から気にいられなくなり、異人は趙の人質として捨て駒のごとく出された。それを目にしたのが大商人であった呂不韋である。呂不韋は父に相談し、我々が投資すべきだと言い、異人と接触。彼に投資をして趙での名声を上げた上に、安国君に気にいられていた華陽夫人と呂不韋が接触。そのとき、呂不韋は華陽夫人に対し、異人を養子とさせ、安国君の跡継ぎに指名されることに成功。その際、華陽夫人が楚の公女であったことにちなみ、子楚と改名した。
 子楚が安国君の太子になった頃、子楚は呂不韋が連れてきた芸者(趙姫)を気に入った。それが政(始皇帝)の母である。だが、その女は呂不韋とも関係を持っていて、呂不韋に対して子を身ごもったと伝えていた。そのため、政の実父が呂不韋であるという説が今でも残っている。
 紀元前258年、秦が趙を攻め邯鄲を包囲。趙では子楚殺害を決定したために、呂不韋は子楚を秦へ逃がし、政親子は趙の豪族に匿うようにさせ無事を計った。
 紀元前252年、昭襄王が死去し、安国君が孝文王となり、子楚が太子となった。孝文王がわずか1年で没し、子楚が荘襄王、呂不韋が丞相、義母の華陽夫人が華陽后から華陽太后、実母の夏姫を夏太后、政が太子となった。政が太子となると聞くと趙の孝成王は驚き、政母子を秦に送り返した。
 荘襄王は昭襄王・孝文王の政権を引き継ぐ形になり、これまでの功臣をそのまま登用し、魏・韓・趙を攻め、東周を滅ぼし、三川郡を設置する。ただし、東周の王族は存続させた。更にかつての長平の戦いの舞台となった上党の地を完全制圧し、上党郡や太原郡を設置する。
 紀元前247年に荘襄王即位後の戦争で37もの城を奪われた魏の信陵君が5ヶ国をまとめ上げて秦を攻め、蒙驁(蒙恬の祖父)率いる軍を破り函谷関まで秦を追い詰めた(河外の戦い)。しかし、秦が信陵君と魏の安釐王が不仲だという噂を聞きつけ、信陵君と安釐王を引き離すための流言を流し、信陵君を政治から引き離す事に成功している。同年5月丙午、35歳で死去。在位はわずか3年であった。

始皇帝

胡亥

弓月君

 古代中国の戦国時代の秦の王・初代皇帝となった人物である姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)の通称(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。
 紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると歴史上最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。
 統一後、始皇帝は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。法(法家)による統治を敷き、批判する学者(儒家や方士)や本の弾圧を行った焚書坑儒でも知られる。

 始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ、秘したまま一行は咸陽へ向かった。崩御を知る者は胡亥,李斯,趙高ら数名だけだった。死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車が伴走し、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた。
 始皇帝の死から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った。そして李斯さえ陥れて処刑させた。
 しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた。

 応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし3年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月(5世紀中頃)、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
 『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが、これは秦氏自らが権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている。『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。その後の子孫は氏姓に登呂志公,秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(太秦)を賜ったと記されている。
 弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がる。天皇家に協力して朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献したとされている。