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長宗我部能俊 | 長宗我部信能 |
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初めは秦能俊と名乗った。秦氏の後裔。秦明友の子だと言われているが定かではない。
信濃秦氏の一族として信濃を根拠にしていたが、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭となったため、長宗我部氏を称するようになった。
子に長宗我部俊宗がいる。その子孫で信濃国更級郡の住人の秦能俊( 長宗我部能俊)が土佐国に入って、長宗我部氏を称したとされる[3]。能俊が土佐に入部した時期は説によって大きく異なるが、平安時代末~鎌倉時代初期に入国したものと考えられる。
延久年間(1069年 - 1073年)説[4]。 |
父は第10代の重宗。元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏から土佐介良庄(高知市介良)で起こった在地豪族の反乱を香宗我部秀頼と共に鎮圧するように命令された[1]。
この信能の代から、長宗我部家は土佐の名主などを組織化して在地領主としての基礎を固めていった。 |
大黒清勝 | |
土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家[1]。字は「元右衛門」[2][3]。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。
来歴
武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う[3]。
明和2年(1765年)、父好勝の跡目相続[4]。
安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる[4]。
長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる[5]。
寛政2年2月13日(1790年3月28日)歿、享年65歳[4]。
墓は、高知県高知市小高坂平和町(福井へ越える峠の西の峰頂北側)にある[4]。
清勝が林安太夫政詡から授かった居合の伝書は、林安太夫の孫である林益之丞政誠に伝えられた[5]。 |