中国(秦王朝)渡来系

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惟宗直宗 惟宗公方

 貞観19年(877年)4月1日の夜間に日食が発生する予測を陰陽寮が上奏した際、陽成天皇が各博士に廃朝の是非を問うたところ、直宗は明法博士として、『儀制令』『令義解』『公式令』の内容を勘案すると夜間の日食では廃朝を行うべきでないと解釈できる旨を述べた。同年11月に外従五位下に叙せられ、同年12月に弟の直本と共に本貫を讃岐国香川郡から平安京の左京六条に移すことを許される。
 大判事に任ぜられた後、元慶6年(882年)内位の従五位下に叙せられ、翌元慶7年12月(884年1月)には直宗を含む秦氏(秦宿禰,秦忌寸,秦公)の男女19人が惟宗朝臣姓に改姓した。元慶8年(884年)勘解由次官。
 仁和3年(887年)に発生した阿衡事件に際して、翌仁和4年(887年)になってから、参議・橘広相が誤った詔書を作成したことが何の罪に該当するか、明法博士・凡春宗と共に勘申を命ぜられ、流罪に相当する旨を上申している。

 右衛門権少志を経て、醍醐朝の後期の延長4年(926年)以前に明法博士に任ぜられる。以降、醍醐,朱雀,村上,冷泉の四朝30年以上に亘って明法博士を務める。この間、主計助,大判事,勘解由次官,民部少輔,左衛門権佐などを兼帯した。
 村上朝の天徳2年(958年)天皇に奏上した勘文に失錯ありとされ、左衛門権佐兼明法博士から大蔵権大輔に左遷される。しかし、天徳4年(960年)頃には明法博士に復帰した。著作に『本朝月令』がある。

惟宗直本 令宗允亮

 陽成朝の元慶元年(877年)兄・惟宗直宗とともに讃岐国香川郡から左京六条に移貫する。元慶7年(883年)直宗を始めとして直本自身を含む同族19人が、それまでの秦公姓から惟宗朝臣姓を賜与され改姓した。
 光孝朝の仁和2年(886年)右衛門少尉から大尉に昇格する。寛平4~5年(892年~893年)頃に検非違使別当・藤原時平からの諮問を受けて、検非違使兼右衛門大尉として『検非違使私記』2巻を撰述。醍醐朝にて勘解由次官,主計頭を歴任し、明法博士も兼帯している。
 明法道の権威として、自邸で律令を講ずべき旨の宣旨を受けた。これは、かつて文徳天皇から律令の宗師と称えられた讃岐永直が、その晩年に自邸で律令を講じた先例を襲ったものとされる。
 著作に『令集解』50巻と『律集解』30巻があり、『二中歴』には十大法律家の一人としてあげられている。

 父は明らかでなく、惟宗公方,惟宗致方(公方の子),惟宗忠方の諸説がある。『大日本史』では允亮を惟宗直宗の玄孫とする。
 明法得業生より立身して、円融朝の天元5年(982年)信濃掾・美努秀則からの「除目官と宣旨職と分別有るべきか」との問いに対する選叙令を引用した回答にその名前が現れる。その後、明法博士を務めるが、永祚2年(990年)には既に博士を退任しているのにも拘らず勘文提出を命じられている。勘解由次官を経て、正暦4年(993年)左衛門権佐に任じられ、長徳2年(996年)には従五位上に叙され加賀権介を、長保元年(999年】には備中権介を兼務している。また、長徳2年(996年)の長徳の変に際しては検非違使佐として、内大臣・藤原伊周逮捕の指揮を執っている。長徳4年(998年)頃には弟とみられる明法博士・惟宗允政と共に令宗朝臣の姓を与えられた。令宗とは「律令の宗師」(学界の第一人者)という意味である。
 長保元年(999年)6月30日には自宅において令の講義を行っている。明法道の学者といえども自宅での講義には天皇の宣旨による許可が必要とされており、実際にこれを許されたのは平安時代前期の讃岐永直、允亮の曽祖父(祖父とも)である惟宗直本とこの時の允亮の3例のみであり、前年の令宗姓の賜姓と並んで彼の社会的名声が破格のものであったことを示している。
 寛弘3年(1006年)には従四位下に叙せられて、河内守に任ぜられた。従四位下はこの叙任の前年に卒去した陰陽師の安倍晴明と同じ位階である。両者ともそれぞれの家格からして前例のない叙位であったという側面からしても、その社会的名声の高さを示している。翌年には任国から平安京に召還されて藤原道長の屋敷(土御門殿)にて開かれた諸道論議の場に参加している。任が終わった後も河内国大県郡に留まり程なく病死したと言われている。
 藤原実資の依頼で執筆されたとされる『政事要略』130巻は現在では25巻しか伝わっていないが、当時の律令学説を知る上で貴重であると共に、彼の知識の深さを物語っている。
 長保元年の自宅での講義を実際に聞いたとされる大江以言(千里の孫で文章博士)は、允亮の講義の素晴らしさを日記で記しており、後世においても大江匡房や葉室定嗣などが高く評価している。