中国(秦王朝)渡来系

HT10:秦 物主  秦 酒公 ― 秦 物主 ― 神保国久/国氏 HT11:神保国久/国氏

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神保国宗 神保長誠

  越中守護の畠山氏は在京していたため、畠山氏に代わり遊佐,神保,椎名の三氏が守護代として政治に関わっていた。はじめは、遊佐氏が一国守護代として政治に関与していたが、遊佐氏も在京しており現地には又守護代が置かれていた。
 嘉吉元年(1441年)に始まった持国と持永の畠山家の家督争いは、同年7月の嘉吉の変により将軍義教=持永に加担した遊佐氏の没落を招き、代わって神保氏の台頭を招いた。神保氏の越中入国時は不明だが、守護代としての初見は国宗である。神保氏は射水,婦負両郡の守護代を兼ね、守護とともに在京し、紀伊などの支配にも関わっていたことが知られている。このころ、椎名氏も守護代に任ぜられたものと考えられている。こうして、砺波郡を遊佐氏、新川郡を椎名氏、射水,婦負の二郡を神保氏に支配させるという三守護代方式で、遊佐,椎名,神保氏はそれぞれ実権を握っていった。
 持国と持永による家督争い後、持国が畠山家の家督と守護職を継承した。没落した持永は越中に逃れようとしたが、越中の国人らに入国を拒否され越中で討たれた。かくして、畠山惣領家の家督争いは結着をみたが、持国には実子がなく、文安5年(1448年)弟・持富の子・弥三郎を養子にした。ところが、その後に実子・義就が誕生し持国は義就に家督を譲ろうとした。
 これに対して、享徳3年(1454年)畠山氏の有力被官である遊佐,神保氏らは義就から離れ弥三郎を擁立しようとしたため、弥三郎と義就とは畠山惣領家の家督をめぐって争い弥三郎方が敗北した。その結果、弥三郎擁立に加担した神保一族の多くが殺害された。弥三郎は逃れて細川勝元にかくまわれ、その支援を受けて反撃に出た。敗れた義就は没落し弥三郎が家督を相続したが、間もなく形成は逆転、義就が上洛してくると代わって弥三郎が没落することになった。かくして、畠山惣領家の家督は義就が継承した。
 幕府は義就に弥三郎追討を命じ、この動きは越中にも波及した。その結果、神保氏の拠点であった越中放生津城は落城して、神保備中守国宗は没落した。国宗の没落以後、越中は混乱が続き神保一族も没落していった。

 放生津城が陥落し国宗が消息不明となった後、長禄3年(1459年)に弥三郎派が復権に成功し、長誠が神保氏の惣領として歴史の表舞台に登場する。弥三郎が亡くなり、弟の畠山政長が擁立されると、長誠は遊佐長直と共に腹心として仕えた。
 応仁元年(1467年)、政長が山名宗全,斯波義廉の後ろ盾を得て復権した義就との政争に敗れると、長誠は政長に上御霊神社での挙兵を薦め、これにより応仁の乱が勃発した。長誠は細川勝元の側近・安富元綱と昵懇であったため細川軍の支援を期待したが、勝元は動かず政長軍は敗れてしまった(御霊合戦)。しかしその後長誠は各地で奮戦し、上杉定正にその武勇を激賞されるなど、目覚しい活躍ぶりを見せた。その後越中へ戻り、倉垣荘など寺社本所領を押領して勢力の拡大に努めた。
 明応2年(1493年)に、細川政元などが足利義澄を擁立して10代将軍・足利義材を廃立して政長を自害させた明応の政変が起こった。長誠は中風を煩って越中に帰国中だったため難を免れたが、部下の越中衆の多くが河内正覚寺での戦いで政長と共に殉じた。神保,椎名両氏など越中勢力は共に打撃を受けたが、長誠は越中をよくまとめている。将軍の座を廃された足利義材は、小豆島へ配流されることが決まり、京都の上原元秀の屋敷に幽閉されていたが、長誠の配下の手により京都を脱出。長誠は、越中国の放生津に足利義材を迎えて、正光寺を改装して将軍の御座所とした。このことにより足利義材は、越中公方と呼ばれるようになった。
 長誠は細川政元派の畠山基家軍の越中侵攻をたびたび撃退して軍事力を誇示する一方、被官・鞍河兵庫助に数千貫の料足を持たせて京に送り、義材の将軍復帰工作に尽力するなど、和戦双方の手で義材の上洛を支援した。明応7年(1498年)9月に義尹と改名した義材は越前国の朝倉貞景のもとへ移った。この行動をめぐっては諸説あり、神保長誠らとの対立による越中退去、越前への没落とみる説がある。翌年、義尹は軍事行動で上洛を図るが失敗し、周防の大内義興を頼った。この時息子の慶宗が随行したとの説もある。
 文亀元年(1501年)病没。長誠像と伝わる肖像が富山市富崎の本覚寺に残されているが、制作年代は江戸時代後期を下ると思われる。

神保慶宗 神保長職

 畠山政長に臣従し、越中神保氏の最盛期を築いた神保長誠の子として誕生。初名は慶良、のち慶宗に改名。いずれも「慶」の一字は、主君にあたる越中守護・畠山尚慶(のち尚順、尚長)より偏諱を受けたものである。
 明応7年(1498年)、父・長誠が支援する足利義尹(のち義稙)の上洛に従うが、六角氏等により阻止されると、義尹に従って周防大内氏(大内義興)の元に滞在した。文亀元年(1501年)の父の死後、内紛を経て神保家当主となった。しかし永正3年(1506年)3月、突如侵入した加賀一向一揆に敗退し、越後守護代・長尾能景を頼る。能景はこれに応えて8月に越中に来援し、長尾,神保勢は婦負郡寒江蓮台寺の戦いにおいて一揆勢を撃破した。ところがその後、神保勢は長尾軍に対し非協力的となり、続く般若野の戦いで長尾勢は一揆勢に敗北し、能景は討死を遂げた。この事件を能景の子・為景は慶宗の裏切り行為によるものであると見做し、以後両家は度々合戦を繰り返す宿敵となった。
 一方の慶宗は、本願寺坊官・下間氏との婚姻を進めるなどして一向一揆との和解を進め、守護・畠山氏から独立する動きをみせた。このため、永正16年(1519年)に守護・畠山尚長(尚順改め)は同族の能登守護・畠山義総と長尾為景を誘い、尚長の猶子・畠山勝王(畠山義英の子)を主将とする神保慶宗征伐の軍を催した。慶宗は二上山城(守山城)に籠城し苦しい戦いを強いられたが、能登畠山軍を急襲して撃退し、窮地を脱した。しかし翌永正17年(1520年)に再び連合軍の侵攻を受け、新庄の戦いで長尾勢に敗北、敗走中に自刃した。
 永正16年(1519年)、放生津出身の24世遊行上人・古跡不外に慶宗が勧めた結果、時宗総本山である相模国藤沢清浄光寺が放生津へ移転されることとなった。しかし、慶宗自身の自害により取り止めとなった。

 長誠以後の神保氏嫡流が称する官途である宗右衛門尉を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、これが後の長職である可能性がある。慶宗が越中守護の畠山尚慶(尚順)より偏諱を賜ったのに倣い、長職も同じく、守護の畠山稙長より「長」の一字を受けた可能性がある。
 永正17年12月22日(1521年1月30日)、慶宗が畠山尚順と越後守護代・長尾為景の連合軍に敗れて自刃し、神保家は連合軍側に与した神保慶明が継承したと思われる。享禄4年(1531年)、加賀国における享禄の錯乱に神保氏は守護方連合軍の一員として出兵したが、神保勢は加賀国太田の戦いで悉く敗北し落命したという。この時の神保氏当主の名前は不明であり、前述の慶明の可能性もある。
 神保長職の名が確実な史料に現れるのは天文年間になってからである。長職は神保家の再興に努め、天文12年(1543年)頃、神通川を越えて新川郡に東進して富山城を築き、椎名長常と国人衆を巻き込み越中を二分した越中大乱と呼ばれる大戦を引き起こした。長職は更に南進して城生城主・斎藤氏を一年余に渡って包囲するなど猛威を奮い、能登畠山氏の仲裁により大乱は集結したものの、常願寺川以西を併呑し、神保家を越中最大の勢力に築き上げた。
 永禄2年(1559年)、再び椎名氏への圧迫をはじめ、長尾景虎(のちの上杉謙信)により仲裁を受けるが、その後も攻撃を止めなかった。永禄3年(1560年)、景虎の越中出兵を招いて敗北し、富山城を放棄して増山城へ逃げ込み、畠山氏の仲介を受けて上杉謙信と和睦した。ところがその後も甲斐の武田信玄と通謀して椎名氏への圧迫を続け、永禄5年(1562年)7月に謙信の再侵攻を受けて敗北。上杉軍が帰国するとすぐに再起し、勝興寺,瑞泉寺の越中一向一揆の二大寺院を味方につけ、9月5日には神通川の合戦で上杉方,椎名勢を撃破し、上杉方についていた同族の神保民部大夫、椎名家重臣の神前孫五郎、土肥二郎九郎などを討ち取る大勝利をおさめた。その勢いを駆って新庄城,堀江城を落とし、さらに松倉城下まで椎名氏を追い詰めたが、翌10月になると再び謙信が後詰に来援したため、椎名氏打倒は目前で阻止、逆に居城の増山城を包囲されてしまい、またも能登畠山氏の仲介で降伏を余儀なくされた。
 長職は神通川以東を失ったが、本領の射水,婦負二郡の支配権は従前通り認められた。その後も上杉氏,椎名氏とは対立を続けたが、永禄9年(1566年)に能登畠山氏に内紛が起こり、畠山義綱父子が重臣により追放されると、長職は上杉謙信と共同して義綱の能登復帰作戦を支援する。
 永禄11年(1568年)、椎名康胤が上杉氏を離反して武田,一向一揆方に立つと、神保家中は嫡子・神保長住を仰ぐ家老・寺島職定を中心とする反上杉派が台頭し、親上杉派の家老・小島職鎮と対立した。長職は長住一派を弾圧し、それまで親密だった一向一揆への攻撃を開始したため家中は分裂し内戦状態となった。上杉家の介入によって反上杉派は壊滅したが、神保家の上杉氏への従属を深める結果となった。長住は出奔して後に京で織田信長に仕えた。
 永禄13年(1570年)1月、足利義昭を擁し上洛を果たした信長が義昭の名で全国の有力諸大名に上洛命令を発した中には、「越中神保名代」も含まれていた。しかしこの頃神保氏は内紛の結果疲弊しており、名代を派遣できたかは不明。また、家中の実権は次第に親上杉派の小島職鎮に牛耳られていったとされる。
 長職は剃髪して宗昌と号し、家督を次男・神保長城に譲っていたが、元亀2年(1571年)末頃、再び立場を一変させ、一向一揆と和睦し、反上杉の立場をとった。その後、長職は史料に表れず程なく死去したものと思われる。
 長職の反上杉路線は長城に継承されたが、天正4年(1576年)、足利義昭により第三次信長包囲網が形成されると、上杉家は反織田信長の立場を鮮明にし、北陸地方へ大規模な侵攻を行った。この際に増山城は攻略され、長城の消息も途絶えてしまい、ここに長職の再興した神保氏嫡流は滅亡した。織田氏に仕えた嫡子長住は、一時は富山城主に返り咲いたが後に信長により追放され、庶流の神保氏張が後に佐々氏、次いで徳川氏に仕えている。

神保長住 神保長城

 永禄11年(1568年)頃、甲斐武田氏や加賀一向一揆との同盟を主張して、親上杉氏の政策を維持しようとした父・長職や重臣・小島職鎮らと対立。越後国の上杉謙信が介入し、長住ら反上杉派は鎮圧されたとされる。天正5年(1577年)11月16日、謙信により能登国珠洲郡細谷村、神保越中守分89貫457文が飯田与三左衛門に与えられている。このことから、内紛に敗れた後、長住は能登畠山氏に身を寄せ、所領を持っていたとみられる(ただし能登畠山家中にも神保家があるため、別人の可能性もある)。しかし、能登も謙信に征服されたため、長住は京都に上って織田信長に仕えたとみられる。
 天正6年(1578年)、謙信の急死を契機として信長より佐々長穐らの兵を与えられて織田軍の先鋒として飛騨国経由で越中へ侵攻し、国人の斎藤信利,小谷六右衛門,二宮長恒などを味方につけ増山城を攻略し、越中西南部を制圧した。9月には更に斎藤利治が濃尾の兵を率いて援軍に加わり、月岡野の戦いで上杉・椎名勢に大勝した。斎藤勢ら援軍は間もなく帰国したが、津毛城に入っていた長住は北進して神保氏ゆかりの富山城を奪還し、更に東進して新庄城,松倉城に攻め入るなど活発な軍事行動を行ったが、天正9年(1581年)の佐々成政越中入国後はその指揮下に入った。
 天正10年(1582年)、上杉方より神保昌国,神保信包(覚広)らに太田の領有と越中支配の委任が約束されて、同年3月、長住は、旧臣の小島職鎮,唐人親広らに富山城を急襲され幽閉された。間もなく織田軍の反攻で助けられたが、この事件で長住は失脚し、追放された。その後、かつて長住の傘下にあったと思われる国衆・菊池右衛門入道が織田家臣・柴田勝家に長住の身上取り成しを依頼しているが叶わず、翌年に伊勢神宮へ越中還住を祈願している。その後の長住の消息は不明である。

 反上杉派の兄・長住が父・長職と対立して出奔し織田信長に仕えたとされ、そのため長城は長職から家督を譲られたとみられ、元亀2年(1571年)に出家して宗昌と名乗った父と共に、連署で八尾聞名寺に不入等を申し付けている。その後、間もなく父・長職は死去したと見られる。後を継いだ長城の動向は不明ながら、天正4年(1576年)に上杉謙信によって本拠増山城を攻め落とされている。長城はこの時討死したものか、その後の消息については不明である。または、長国と同一人物で、昌国と改めて謙信、および景勝,兼続等に従った者の可能性もある。
神保総誠 神保相茂
 畠山義総,義続に仕えた。大永から天文10年(1541年)頃にかけて、主君・義総と三条西実隆の文芸交流の使者を勤め、大永4年(1524年)8月には自らも実隆に色紙の揮毫を求めた。また、天文9年から同17年には石山本願寺の交渉の際に奏者として活動しており、外交面で重要な役割を果たしていた。

 春茂の系統は越中国神保氏とは同族にあたり、神保長誠から分かれたもので、代々紀伊国有田郡石垣鳥屋城に居住し畠山氏尾州家の家臣を務めていた。畠山氏没落後、父・春茂は豊臣秀長,豊臣秀吉に仕え、大和国に6,000石を与えられた。
 父の跡を継いだ相茂は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して東軍に味方し、上杉景勝討伐に従軍して1,000石の加増を得る。慶長20年(1615年)、大坂の陣では300の小勢ながら水野勝成隊に属して勇敢に戦うが、5月7日船場口にて明石全登隊が越前勢左翼を攻め崩したために水野勝成隊は混乱に陥り、激戦の最中神保隊馬上32騎、雑兵293人が全滅し、相茂も討死した。一説には、相茂の死は突如後方より味方の伊達政宗隊から鉄砲の一斉射撃を受けたためといわれている。この「伊達の味方討ち」に関しては、事件当時上方に批判的な風説が流れていたらしく、島津氏の『薩藩旧記』には「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。然りともいえども御前はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」と書き記している。これに対して神保遺臣が水野氏と本多正純を介して伊達家に抗議したものの、伊達政宗は「神保隊が崩れかかってきたので、共崩れを避けるために撃った。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と開き直りとも取れる弁明をした。わずか7千石の外様である神保氏と60万石の大名・伊達氏とでは争いにならず、結局伊達氏にはお咎めなしであった。
 戦後、相茂の子・茂明は直参旗本に取り立てられ、家門は大身旗本として交代寄合を勤めた。

神保茂明 神保氏張

 元和元年(1615年)に大坂夏の陣で父・相茂が戦死した。茂明と外祖母(杉若無心の室)は共に、本多正信に連れられて父の戦死を言上した。その後駿府に呼び出され、日光東照宮の父の墓に参っている。次に江戸に移り住み、徳川秀忠に仕えた。寛永2年(1625年)には7000石を賜った。寛永11年(1634年)に徳川家光が上洛した際は、あらかじめ京都へ上洛した。寛永17年(1640年)には甲府城の守備を命じられ、しばらくこれに従った。慶安3年(1650年)に大安宅船の修理奉行に指名され、寛文2年(1662年)にはこの修理の褒美として羽織を賜った。天和2年(1682年)に致仕。
 元禄4年(1691年)に死去、享年81。江戸谷中の大行寺に埋葬された。大行寺は以降、大身旗本神保氏の菩提寺となる。

 越中守護代神保氏の庶流・神保氏重の子。『寛政重修諸家譜』などには、能登畠山氏出身で神保氏の養子になったとしている。神保長職との系譜関係は明らかではないが、長職とは敵対関係にあり、氏張は能登畠山家臣の温井氏,越中一向一揆と連携し、越後上杉氏に敵対したため、長職に知行を没収されている。長職の死後、織田信長に接近して誼を通じるが、織田・上杉の手切れ後、上杉謙信に攻められて降伏し、一時上杉氏に従属した。しかし謙信の急死後、再び信長に接近し、神保長住や能登の長連龍らと共に織田氏の越中,能登平定に協力した。
 織田氏の家臣・佐々成政の越中入封後はこれに臣従して功があり、嫡子・氏興は成政の婿となり一門に準じた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると成政は徳川家康・織田信雄方につき、豊臣秀吉方の前田利家と対立。同年の前田氏との末森城の戦いにおいて、神保父子は前田軍の後詰阻止の任を担っていたが果たせず敗北した。その後、阿尾城の菊池武勝が寝返ったのでこれを攻めるために出陣したが、その隙に居城・守山城で家臣が謀反を起こし、留守を守っていた父・氏重を討って城を乗っ取る事件が起きた。氏張はただちに軍を返して反乱を鎮圧したが、改めて出陣した阿尾城攻めは村井長頼らの援軍により撃退された。
 その後、成政は秀吉に降伏し越中三郡を没収されるが、九州征伐で戦功をあげ肥後一国を得たため、氏張もこれに従った。しかし入封間もなく国人一揆が勃発し、氏張は隈本城籠城の指揮を執り城を守りきるなど奮戦するが、成政は一揆勃発の責任をとらされて切腹。佐々氏は改易となり、氏張は浪人の身となる。天正17年(1589年)に徳川家康に仕え、下総香取郡に2,000石を与えられた。文禄元年(1592年)4月の家康の名護屋城出陣に際し内藤信成に代わり江戸の留守を守った。8月5日に死去。65歳という。
墓所は千葉県成田市伊能の宝応寺。子孫は旗本として存続した。

神保景正 神保忠昭

 景正の出自はよく分かっていないが、永禄4年(1561年)に生まれる。はじめ小早川隆景に仕え、足軽大将(物頭役)を務めた。諱の「景」の字は隆景からの偏諱と思われる。
 文禄・慶長の役では隆景に従って朝鮮に渡り、隆景が三原に隠居した際にも従っている。慶長2年(1597年)6月12日に隆景が死去した後は牢人となったが、後に召し出され毛利秀就に仕えた。
 寛永19年(1642年)8月28日に死去。享年82。子の就正が後を継いだ。

 父の作兵衛忠明は剣豪として知られ、桜田御屋敷将より五十騎組物頭200石に取り立てられるまでとなり、斎藤法信,真島清房,大峡助信,依田秀復、棒術では南斎市兵衛,中村当常らを育てたが、嫡男の綱忠が「忠昭門弟の第一人者」と呼ばれる程の力量であり、その将来を嘱望された。だが、鷹山の学友となり、後に儒学者として大成したため、その剣術が伝わらなかったという。