HT10:秦 物主 | 秦 酒公 ― 秦 物主 ― 神保国久/国氏 | HT11:神保国久/国氏 | ● |
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神保国宗 | 神保長誠 |
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越中守護の畠山氏は在京していたため、畠山氏に代わり遊佐,神保,椎名の三氏が守護代として政治に関わっていた。はじめは、遊佐氏が一国守護代として政治に関与していたが、遊佐氏も在京しており現地には又守護代が置かれていた。 |
放生津城が陥落し国宗が消息不明となった後、長禄3年(1459年)に弥三郎派が復権に成功し、長誠が神保氏の惣領として歴史の表舞台に登場する。弥三郎が亡くなり、弟の畠山政長が擁立されると、長誠は遊佐長直と共に腹心として仕えた。 |
神保慶宗 | 神保長職 |
畠山政長に臣従し、越中神保氏の最盛期を築いた神保長誠の子として誕生。初名は慶良、のち慶宗に改名。いずれも「慶」の一字は、主君にあたる越中守護・畠山尚慶(のち尚順、尚長)より偏諱を受けたものである。 |
長誠以後の神保氏嫡流が称する官途である宗右衛門尉を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、これが後の長職である可能性がある。慶宗が越中守護の畠山尚慶(尚順)より偏諱を賜ったのに倣い、長職も同じく、守護の畠山稙長より「長」の一字を受けた可能性がある。 |
神保長住 | 神保長城 |
永禄11年(1568年)頃、甲斐武田氏や加賀一向一揆との同盟を主張して、親上杉氏の政策を維持しようとした父・長職や重臣・小島職鎮らと対立。越後国の上杉謙信が介入し、長住ら反上杉派は鎮圧されたとされる。天正5年(1577年)11月16日、謙信により能登国珠洲郡細谷村、神保越中守分89貫457文が飯田与三左衛門に与えられている。このことから、内紛に敗れた後、長住は能登畠山氏に身を寄せ、所領を持っていたとみられる(ただし能登畠山家中にも神保家があるため、別人の可能性もある)。しかし、能登も謙信に征服されたため、長住は京都に上って織田信長に仕えたとみられる。 |
反上杉派の兄・長住が父・長職と対立して出奔し織田信長に仕えたとされ、そのため長城は長職から家督を譲られたとみられ、元亀2年(1571年)に出家して宗昌と名乗った父と共に、連署で八尾聞名寺に不入等を申し付けている。その後、間もなく父・長職は死去したと見られる。後を継いだ長城の動向は不明ながら、天正4年(1576年)に上杉謙信によって本拠増山城を攻め落とされている。長城はこの時討死したものか、その後の消息については不明である。または、長国と同一人物で、昌国と改めて謙信、および景勝,兼続等に従った者の可能性もある。 |
神保総誠 | 神保相茂 |
畠山義総,義続に仕えた。大永から天文10年(1541年)頃にかけて、主君・義総と三条西実隆の文芸交流の使者を勤め、大永4年(1524年)8月には自らも実隆に色紙の揮毫を求めた。また、天文9年から同17年には石山本願寺の交渉の際に奏者として活動しており、外交面で重要な役割を果たしていた。 |
春茂の系統は越中国神保氏とは同族にあたり、神保長誠から分かれたもので、代々紀伊国有田郡石垣鳥屋城に居住し畠山氏尾州家の家臣を務めていた。畠山氏没落後、父・春茂は豊臣秀長,豊臣秀吉に仕え、大和国に6,000石を与えられた。 |
神保茂明 | 神保氏張 |
元和元年(1615年)に大坂夏の陣で父・相茂が戦死した。茂明と外祖母(杉若無心の室)は共に、本多正信に連れられて父の戦死を言上した。その後駿府に呼び出され、日光東照宮の父の墓に参っている。次に江戸に移り住み、徳川秀忠に仕えた。寛永2年(1625年)には7000石を賜った。寛永11年(1634年)に徳川家光が上洛した際は、あらかじめ京都へ上洛した。寛永17年(1640年)には甲府城の守備を命じられ、しばらくこれに従った。慶安3年(1650年)に大安宅船の修理奉行に指名され、寛文2年(1662年)にはこの修理の褒美として羽織を賜った。天和2年(1682年)に致仕。 |
越中守護代神保氏の庶流・神保氏重の子。『寛政重修諸家譜』などには、能登畠山氏出身で神保氏の養子になったとしている。神保長職との系譜関係は明らかではないが、長職とは敵対関係にあり、氏張は能登畠山家臣の温井氏,越中一向一揆と連携し、越後上杉氏に敵対したため、長職に知行を没収されている。長職の死後、織田信長に接近して誼を通じるが、織田・上杉の手切れ後、上杉謙信に攻められて降伏し、一時上杉氏に従属した。しかし謙信の急死後、再び信長に接近し、神保長住や能登の長連龍らと共に織田氏の越中,能登平定に協力した。 |
神保景正 | 神保忠昭 |
景正の出自はよく分かっていないが、永禄4年(1561年)に生まれる。はじめ小早川隆景に仕え、足軽大将(物頭役)を務めた。諱の「景」の字は隆景からの偏諱と思われる。 |
父の作兵衛忠明は剣豪として知られ、桜田御屋敷将より五十騎組物頭200石に取り立てられるまでとなり、斎藤法信,真島清房,大峡助信,依田秀復、棒術では南斎市兵衛,中村当常らを育てたが、嫡男の綱忠が「忠昭門弟の第一人者」と呼ばれる程の力量であり、その将来を嘱望された。だが、鷹山の学友となり、後に儒学者として大成したため、その剣術が伝わらなかったという。 |