中国(秦王朝)渡来系

SM02:島津忠宗  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 川上頼久 SM13:川上頼久


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川上頼久 川上昌久

 島津氏5代当主・島津貞久の長男として誕生。庶長子であったため島津氏の家督を継ぐことはなかった。
 建武2年(1335年)、父に従って足利尊氏に属し上京。翌年には貞久の名代として薩摩の軍勢を率い高師泰の陣に加わり、新田義貞の拠る越前国金ヶ崎城攻撃の指揮を執っている。建武4年/延元2年(1337年)、薩摩で南朝方勢力が挙兵すると、貞久の帰国が許されなかったため、一族の島津宗久(伊作家)と共に帰国し、南朝方と戦う。
 正平7年/文和元年(1352年)、薩摩加世田別府半分地頭職を与えられ川上氏と称した。 

 島津氏14代当主・島津勝久の家老職にあった。天文4年(1535年)、他の重臣16名と共に連判状によって奸臣・末弘忠重を斥けるよう勝久に諫言するも聞き入れられなかったため、自ら忠重を殺害する。一旦は禰占へ身を隠した勝久が帰還すると、勝久の命で大興寺で自害に追い込まれる。
 勝久は次いで川上氏の居城を攻めたが、昌久室は家臣と共に籠城。勝久の軍を撃退し、後に島津忠良に賞され旧領を安堵されたと言う。 

川上久隅 川上忠克

 父・昌久は島津氏14代当主・島津勝久の家老職にあったが、勝久を諌めたために自害に追い込まれる。更に勝久は川上氏の居城を攻めたが、久隅の母と家臣は久隅を擁して勝久の攻撃を凌いだ。この功績によって後に島津忠良から本領を安堵され、藺牟田の地頭に任じられた。元亀年間には「吉野牧」と呼ばれる牧場を開き、天正2年(1574年)には川上村の地頭に任じられた。
 その後、島津義弘の家老を務め、天正6年(1578年)の耳川の戦いに従軍、天正9年(1581年)の水俣城攻めでは大将を仰せ付かり、同年肥前有馬氏の加勢として従軍し、龍造寺氏の所有に帰していた千々石城を攻めた際には敵300余を討ち取っている。天正14年(1586年)の岩屋城攻めにも参加した。
 長男・久利が文禄の役の際、朝鮮より勝手に帰国したため、次男・久通が家督代となって朝鮮へ出兵していたのであるが、久通は慶長3年(1598年)に朝鮮で病死する。しかし、久利は以降も庄内の乱への出兵にも応じない等行状を改めなかったため、久隅は久利を庶流とし、久通の子・久貞に川上宗家を継がせ当主とした。

 永正4年(1507年)、川上栄久の子として誕生。兄・道堯が病身であったために家督を継ぎ、祖父以来の領地である串木野の30町を領した。
 天文年間頃、自らの次女が薩州島津氏の島津実久の継室であったため、実久に与していた。しかし、実久が島津貴久と争って没落すると天文8年(1539年)8月、貴久に降伏した。貴久にこのとき、甑島列島に流刑に処されたが、3年後に罪を許されて島津氏の家老となった。

 

川上久朗 川上忠智

 島津氏の庶流の川上氏の一族であることに加え、若い頃から智勇兼備の誉れが高く、その才能は島津忠良や島津義久にも高く評価され、天文22年(1553年)に17歳にして当主の義久から島津氏の家老職、並びに谷山の地頭にまで任命されるという異例の抜擢を受けている。更に、義久の命で老中となり没年までその地位にあった。
 先陣での功績も多く、弘治元年(1555年)の蒲生氏攻略、永禄4年(1561年)の肝付兼続との廻城合戦等、各地で奮戦している。その才能を遺憾なく発揮して武功を挙げたが、永禄11年(1568年)1月20日、相良・菱刈連合との戦いで、赤池長任と菱刈勢の籠る大口城攻めの際、島津義弘を守るために孤軍奮闘して13ヶ所もの深手を負い、鹿児島に帰還したが翌月3日に死去した。享年32。
 久朗は若くから才幹を見込まれ、忠良もその名を看経所に記して将来を頼むほどであった。

 島津義弘の家老を務め、日向国高鍋,大隅国栗野,薩摩国馬越,大隅国蒲生等の地頭職を務めた。元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いでは島津義弘の正室と嫡子の鶴寿丸の住まう加久藤城の城代を務めており、遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に伊東氏の軍勢を撃退せしめた。天正6年(1578年)、日向伊東氏の財部城主・落合兼朝が島津家に寝返ると、忠智は財部城主に任命される。
 天正8年(1580年)、新納忠元,鎌田政年らと共に肥後国の阿蘇氏領の矢崎城主・中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼす。天正12年(1584年)3月24日、沖田畷の戦いにおいて肥前国の龍造寺氏と戦い、その本隊を襲撃、嫡子・忠堅が大将の龍造寺隆信を討ち取る大功を挙げている。慶長12年(1607年)、病死した。

川上忠堅 川上久林

 父と共に島津義久に仕え、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは島津家久に従って参加し、敵の総大将である龍造寺隆信の首級を挙げるという大功を挙げた。この時、隆信の脇差を戦利品として持ち帰っている。その後も島津軍の有力武将の一人として各地を歴戦した。
 天正14年(1586年)、島津義弘に従って筑紫広門と戦っている際、広門の弟である晴門に一騎討ちを申し込まれて応じ、苦戦の末に晴門を討ち取ったが、自身もこのときに腕に受けた戦傷がもとで間もなく死去したと言われ、一騎討ちからの相討ちとされることが多い。享年29。大将同士の一騎討ちであり、結果相討ちという目を惹く出来事から、後に和歌を読み合い華麗に戦った等という逸話が創られた。
 隆信の脇差は、忠堅の子孫に受け継がれ、「神霊」と墨書した箱に収めて大切に扱った。また隆信の霊を弔い氏神とした。平成20年(2008年)、子孫によって脇差は佐賀県に寄贈されている。 

 文禄元年(1592年)、島津忠恒の供をして文禄の役に従軍し朝鮮に渡海している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、島津義弘の陣に馳せ参じ、その退却戦で東軍の井伊直政軍が攻め掛かってくると、叔父・忠兄,久智、及び押川公近,久保之盛と共に下馬して踏み止まり奮戦、後に「小返しの五本鑓」の一人に数えられる。
 久林は薩摩国高城の地頭を務め、慶長19年(1614年)の大坂の陣にも人数賦御使番衆33人のうちの一人として出陣している。寛永2年(1625年)、死去。 

川上久盛 川上久智

 兄で踊地頭・久如が26歳で早世し、その子である千徳丸(後の川上久処)が幼少であったため家督を継ぎ、代理として踊の地頭となった。寛永9年(1632年)、熊本藩2代藩主・加藤忠広が改易となった際、万一の加藤氏側の反抗に備え、踊の人数を率いて島津久元らと共に肥後国へ出張している。寛永16年(1639年)、千徳丸が元服すると踊の地頭を辞職し、家督も譲渡した。

 

 川上忠智の3男として誕生。盲目の叔父・忠里の養子となった。天正14年(1586年)の戸次川の戦いで島津軍が勝利した後に島津家久の命を受け、干潮のために船が動かせずにいた長宗我部元親の許へ使者として赴き、元親の嫡子・信親を討ち取ったのは合戦のために致し方なかった旨と、満潮まで緩々と陣を解くよう伝えた。その後、豊臣秀吉による九州平定では諸所で軍功を上げている。
 島津忠恒に従い文禄・慶長の役に従軍。慶長3年(1598年)、泗川城より5里離れた猿羽見(永春県)の番を任されていた所に明軍の大軍が押し寄せたために泗川城に引き上げたが、この泗川の戦いで実兄・忠兄らと奮戦し大功を上げた。
 慶長4年(1599年)より京都伏見住まいを命じられていたが、その翌年に関ヶ原の戦いが起こり島津義弘の陣に馳せ参じた。また、その退却戦で兄・忠兄、甥・久林らと奮戦、後に「小返しの五本鑓」の一人に数えられる。
 薩摩国帰国後に病死。没年は不詳であるが、慶長13年(1608年)に人吉藩主・相良頼房への使者を務めており、江戸時代の初期までは存命していたようである。 

川上忠実

 永禄6年(1563年)、川上忠光の子として誕生。父・忠光は川上将久の次男(4男とも)で、島津忠良の次男・忠将の家老を務め、忠実は忠将の子である島津以久の臣下となった。
 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで奮戦し、龍造寺右衛門大夫(龍造寺家就か?)を討ち取る大功を上げる。文禄・慶長の役の際は以久の嫡子・彰久の供をして朝鮮に渡海したが、彰久が唐島で病死したため忠実がその軍代として彰久勢を指揮した。
 慶長3年(1598年)9月27日、泗川古城に300余で在番していた所へ明軍が大挙して襲撃してきたため、翌未明に泗川新城への退去を決行する。忠実らは鉄砲を放ちながら退去するも、畦道であったため敵の追い討ちに遭い150余人が討ち死に、忠実も36ヶ所の矢傷を被り乗馬も射抜かれるが、海老原越後の家臣・市助が敵の馬を奪って忠実に与え、更に伊勢貞昌が出迎えの兵を出した御蔭で、無事に泗川新城への入城が叶った。この功により、島津義弘より景光作の脇差を賜っている。また、直後の泗川の戦いでも大功を上げ、帰国後に義弘・忠恒父子より馬2頭を、以久より500石を賜った。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参加し、義弘の供をして無事に薩摩へ戻った。慶長15年(1610年)、佐土原藩主となっていた以久が死去した際は、以久の孫・久信が藩を相続できるよう山口直友の元へ請願に出向いている。