SM02:島津忠宗 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 川上頼久 | SM13:川上頼久 | ● |
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川上頼久 | 川上昌久 |
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島津氏5代当主・島津貞久の長男として誕生。庶長子であったため島津氏の家督を継ぐことはなかった。 |
島津氏14代当主・島津勝久の家老職にあった。天文4年(1535年)、他の重臣16名と共に連判状によって奸臣・末弘忠重を斥けるよう勝久に諫言するも聞き入れられなかったため、自ら忠重を殺害する。一旦は禰占へ身を隠した勝久が帰還すると、勝久の命で大興寺で自害に追い込まれる。 |
川上久隅 | 川上忠克 |
父・昌久は島津氏14代当主・島津勝久の家老職にあったが、勝久を諌めたために自害に追い込まれる。更に勝久は川上氏の居城を攻めたが、久隅の母と家臣は久隅を擁して勝久の攻撃を凌いだ。この功績によって後に島津忠良から本領を安堵され、藺牟田の地頭に任じられた。元亀年間には「吉野牧」と呼ばれる牧場を開き、天正2年(1574年)には川上村の地頭に任じられた。 |
永正4年(1507年)、川上栄久の子として誕生。兄・道堯が病身であったために家督を継ぎ、祖父以来の領地である串木野の30町を領した。
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川上久朗 | 川上忠智 |
島津氏の庶流の川上氏の一族であることに加え、若い頃から智勇兼備の誉れが高く、その才能は島津忠良や島津義久にも高く評価され、天文22年(1553年)に17歳にして当主の義久から島津氏の家老職、並びに谷山の地頭にまで任命されるという異例の抜擢を受けている。更に、義久の命で老中となり没年までその地位にあった。 |
島津義弘の家老を務め、日向国高鍋,大隅国栗野,薩摩国馬越,大隅国蒲生等の地頭職を務めた。元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いでは島津義弘の正室と嫡子の鶴寿丸の住まう加久藤城の城代を務めており、遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に伊東氏の軍勢を撃退せしめた。天正6年(1578年)、日向伊東氏の財部城主・落合兼朝が島津家に寝返ると、忠智は財部城主に任命される。 |
川上忠堅 | 川上久林 |
父と共に島津義久に仕え、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは島津家久に従って参加し、敵の総大将である龍造寺隆信の首級を挙げるという大功を挙げた。この時、隆信の脇差を戦利品として持ち帰っている。その後も島津軍の有力武将の一人として各地を歴戦した。 |
文禄元年(1592年)、島津忠恒の供をして文禄の役に従軍し朝鮮に渡海している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、島津義弘の陣に馳せ参じ、その退却戦で東軍の井伊直政軍が攻め掛かってくると、叔父・忠兄,久智、及び押川公近,久保之盛と共に下馬して踏み止まり奮戦、後に「小返しの五本鑓」の一人に数えられる。 |
川上久盛 | 川上久智 |
兄で踊地頭・久如が26歳で早世し、その子である千徳丸(後の川上久処)が幼少であったため家督を継ぎ、代理として踊の地頭となった。寛永9年(1632年)、熊本藩2代藩主・加藤忠広が改易となった際、万一の加藤氏側の反抗に備え、踊の人数を率いて島津久元らと共に肥後国へ出張している。寛永16年(1639年)、千徳丸が元服すると踊の地頭を辞職し、家督も譲渡した。
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川上忠智の3男として誕生。盲目の叔父・忠里の養子となった。天正14年(1586年)の戸次川の戦いで島津軍が勝利した後に島津家久の命を受け、干潮のために船が動かせずにいた長宗我部元親の許へ使者として赴き、元親の嫡子・信親を討ち取ったのは合戦のために致し方なかった旨と、満潮まで緩々と陣を解くよう伝えた。その後、豊臣秀吉による九州平定では諸所で軍功を上げている。 |
川上忠実 | |
永禄6年(1563年)、川上忠光の子として誕生。父・忠光は川上将久の次男(4男とも)で、島津忠良の次男・忠将の家老を務め、忠実は忠将の子である島津以久の臣下となった。 |