SM02:島津忠宗 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 北郷資忠 | SM17:北郷資忠 |
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北郷資忠 | 北郷義久 |
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島津宗家4代当主・忠宗には7人の男子があり、「七人島津」と呼ばれた。当時の諸分家は、家の由緒を将軍家・幕府との直接的な関係に求めており、島津宗家との間に身分の上下はないとしていた。 |
島津誼久とも称す。天授元年/永和元年(1375年)、神代の時代の神武天皇の宮居の跡という伝説が残る南郷都島に都之城を築き北郷氏の本拠地とした。後世、この城の名が都城という一帯の地名となった。 |
北郷知久 | 北郷久秀 |
長兄と次兄は出家し、三兄で3代当主である久秀および四兄・忠通が三股梶山城の戦いで討死したため、幼時から仏門に入っていた知久は父の意向で還俗・元服、姪で忠通の娘を娶り4代当主となった。宗家の島津氏7代当主・島津元久が烏帽子親となった。 |
長兄及び次兄は出家したため、3男である久秀が家督を継いだ。永和元年/天授元年(1375年)、室町幕府九州探題・今川了俊が少弐冬資を謀殺した水島の変の後、了俊に反旗を翻した島津氏を討伐するため、了俊は子の満範や貞兼を日向に派遣し島津氏を攻撃した。島津方と今川方の戦いは応永2年(1395年)、了俊が上京し九州探題を罷免されるまで続いた。 |
北郷持久 | 北郷数久 |
正長元年(1428年)、室町幕府3代将軍・足利義満の子である大覚寺義昭は6代将軍の座を巡るくじ引きに敗れ、6代将軍には義昭の兄である義教が就任した。その後、義昭は京を出奔し各地を転々とした後、従僧源澄の出身地であり、その兄・鬼束久次の住む日向国島津荘内中郷に逃れた。義教は義昭を捕縛するよう全国に指令したが、鬼束久次の主で当地を領していた持久は義昭の滞在を黙認していた。しかし、幕府のお尋ね者である義昭をいつまでも置いておくわけにもいかず、同じ日向櫛間地頭・野辺氏のもとへ義昭を移らせたが、義昭が日向に潜伏していることを義教が知るところとなり、義教はその殺害を日向守護・島津忠国に指令した。忠国は幕府の命には逆らえず、持久,樺山孝久,新納忠続,本田重恒,肝付兼忠の五将と、忠国の重臣・山田忠尚などの軍勢を櫛間に派遣し義昭の居る永徳寺を包囲したので、嘉吉元年(1441年)に義昭は自害し、その首級は京へ送られた。義教はたいへん喜び、褒賞として五将に銘刀一腰を与え、忠国には銘刀一腰のほかに腹巻一領と青馬一頭を添えて与えた。 |
島津氏と伊東氏の抗争により日向飫肥で討死した伊東祐国の子・尹祐は、父の恨みを晴らし領土を拡大するため島津氏を攻めたてた。この状況をみた豊後の大友氏は島津氏と伊東氏の和睦を仲介し、明応4年(1495年)、島津忠昌は伊東氏へ三俣院1000町を割譲し両者の和睦が成立した。三俣院はかつては北郷領であり、その回復が北郷氏の宿願となった。 |
北郷忠相 | 北郷時久 |
大永3年(1523年)までは、伊東氏,北原氏,更には新納氏,本田氏らの四方に敵を抱えて長年戦い続け、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都之城と安永城の兵800名で領地を維持している状態だったが、尹祐の急死によって伊東氏と和議を結ぶ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻め、次第に領域を拡大していく。 |
北郷氏10代当主。日向の庄内一帯を領しており、都之城に居していた。 |
北郷相久 | 北郷三久 |
島津氏の有力支族である北郷氏の嫡男として、父に従い、天正元年(1573年)の肝付氏との戦いや、天正6年(1578年)の耳川の戦いに従軍し功績をあげた。また、島津義弘の娘である御屋地と結婚し、北郷氏の次期当主と目されていた。 |
北郷氏宗家10代の北郷時久の3男であり、11代の北郷忠虎の弟であったが、別家を興し、平佐北郷氏の初代となる。また、母である北郷忠孝の娘は、島津義弘の先妻であり、義弘の娘・御屋地を出産した後、時久の後妻となったので、三久と御屋地は異父姉弟となる。 |