中国(秦王朝)渡来系

SM02:島津忠宗  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 北郷資忠 SM17:北郷資忠


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北郷資忠 北郷義久

 島津宗家4代当主・忠宗には7人の男子があり、「七人島津」と呼ばれた。当時の諸分家は、家の由緒を将軍家・幕府との直接的な関係に求めており、島津宗家との間に身分の上下はないとしていた。
 資忠の生年は不詳であるが、建武3年(1336年)、島津氏の大隅国加瀬田城攻めの際に搦手大将として従軍している。その後も島津氏の一員として各地を転戦した。観応2年(1351年)、足利氏に従い北朝方の武将として南朝方と戦い、その功績が認められ、足利尊氏又は義詮の下文をもって薩摩迫一帯の庄内北郷の地300町を与えられた。文和元年(1352年)、その地に館を構え、郷名を取って北郷氏を称した。
 また、在地土豪の宮丸氏と姻戚関係を結び、その所領を継承し北郷氏の礎を築いた。なお一時期、南九州では南朝方が優勢になり、島津宗家は南朝方に転じ北郷氏も南朝方となった。これに怒った足利氏は北郷を肥後球磨の相良氏に与えたが、ほどなく宗家ともども北朝方に復している。

 島津誼久とも称す。天授元年/永和元年(1375年)、神代の時代の神武天皇の宮居の跡という伝説が残る南郷都島に都之城を築き北郷氏の本拠地とした。後世、この城の名が都城という一帯の地名となった。
 同年、北朝方の室町幕府の九州探題今川了俊は、九州三人衆とよばれていた豊後守護・大友親世,筑前守護・少弐冬資,大隅守護・島津氏久を召喚した際、冬資を暗殺した(水島の変)。これに憤った氏久は了俊の下を去って本国へ戻り、南朝に与した。了俊は島津氏の薩摩及び大隅守護職を罷免し、自らが2国の守護職を兼任した。
 天授3年/永和3年(1377年)、了俊は島津氏を討伐するため5男・満範を日向に派遣し島津氏の支族である北郷氏の都之城を攻めた。南九州の国人である市来氏,渋谷氏,牛屎氏,菱刈氏,禰寝氏,肝付氏,伊東氏,土持氏,北原氏,野辺氏,相良氏などの諸氏は満範に従った(南九州国人一揆)。義久は弟の樺山音久らと共に都之城を固守、天授5年/永和5年(1379年)に再度満範に攻め込まれ、氏久は北郷氏を救援するため出陣し今川軍と激しく闘った。義久の弟・基忠と忠宣は討死し義久自身も重傷を負った。島津方の損害も大きかったが今川方の損害も大きく、満範は都之城を落とすことは出来ず敗退した(蓑原の合戦)。
 明徳3年/元中9年(1392年)の南北朝合一後も島津方と今川方の争いは続き、応永元年(1394年)の梶山城の戦いでは、義久の3男で北郷氏3代当主である久秀及び4男の忠通が討死している。両者の争いは、応永2年(1395年)、了俊が上京し九州探題を罷免されたことによりようやく終結した。応永8年(1401年)には島津元久と共に島津荘神柱神社の社殿を修復した。
 年代は不明だが、6月2日に都城で67歳で没したとされる。 

北郷知久 北郷久秀

 長兄と次兄は出家し、三兄で3代当主である久秀および四兄・忠通が三股梶山城の戦いで討死したため、幼時から仏門に入っていた知久は父の意向で還俗・元服、姪で忠通の娘を娶り4代当主となった。宗家の島津氏7代当主・島津元久が烏帽子親となった。
 応永16年(1409年)、島津氏宿願の薩摩,大隅,日向3国の守護となった元久は翌年、4代将軍・足利義持に御礼言上のため上洛し、緞子,毛氈、虎皮,麝香,南洋産砂糖,南蛮酒,銭3000貫,染付けの皿,青磁の壺などを献上した。島津氏一族の知久や樺山教宗および野辺氏,北原氏,肝付氏などの国人が随従し、知久は中務少輔、教宗は安芸守の官名を受けた。元久の京都滞在は約1年に及んだ。
 応永18年(1411年)、元久の死後に元久の甥である伊集院煕久と元久の弟である久豊の間で島津氏の家督を巡る争いが生じた。知久は久豊方として久豊の島津氏宗家相続に尽力した。
 応永20年(1413年)、島津氏と伊東氏が日向曽井城で戦った際、島津方として樺山教宗と共に出陣したが、伊東祐安・祐立父子に敗れ高城へ引き上げた。

 長兄及び次兄は出家したため、3男である久秀が家督を継いだ。永和元年/天授元年(1375年)、室町幕府九州探題・今川了俊が少弐冬資を謀殺した水島の変の後、了俊に反旗を翻した島津氏を討伐するため、了俊は子の満範や貞兼を日向に派遣し島津氏を攻撃した。島津方と今川方の戦いは応永2年(1395年)、了俊が上京し九州探題を罷免されるまで続いた。
 明徳5年(1394年)、久秀の外祖父である和田正覚と高木氏が守る島津方の三股梶山城を今川氏と今川方の国人相良氏,伊東氏,土持氏,北原氏が攻めた。島津氏及び北郷氏は梶山城の救援に駆けつけたが、久秀及び弟の忠道は討死し、梶山城は落城した。義久は都城に薦福寺を建立し2人の菩提を弔った。家督はもう1人の弟の知久が継いだ。
 2人の墓は三股町の大昌寺跡に現存しており、町の文化財に指定されている。また、墓の傍には久秀が死ぬ間際に座ったと伝えられる腰掛石が保存されている。

北郷持久 北郷数久

 正長元年(1428年)、室町幕府3代将軍・足利義満の子である大覚寺義昭は6代将軍の座を巡るくじ引きに敗れ、6代将軍には義昭の兄である義教が就任した。その後、義昭は京を出奔し各地を転々とした後、従僧源澄の出身地であり、その兄・鬼束久次の住む日向国島津荘内中郷に逃れた。義教は義昭を捕縛するよう全国に指令したが、鬼束久次の主で当地を領していた持久は義昭の滞在を黙認していた。しかし、幕府のお尋ね者である義昭をいつまでも置いておくわけにもいかず、同じ日向櫛間地頭・野辺氏のもとへ義昭を移らせたが、義昭が日向に潜伏していることを義教が知るところとなり、義教はその殺害を日向守護・島津忠国に指令した。忠国は幕府の命には逆らえず、持久,樺山孝久,新納忠続,本田重恒,肝付兼忠の五将と、忠国の重臣・山田忠尚などの軍勢を櫛間に派遣し義昭の居る永徳寺を包囲したので、嘉吉元年(1441年)に義昭は自害し、その首級は京へ送られた。義教はたいへん喜び、褒賞として五将に銘刀一腰を与え、忠国には銘刀一腰のほかに腹巻一領と青馬一頭を添えて与えた。
 ところが、8代将軍・足利義政の代になると、義昭を匿っていたという過去の責任が問われることになり、持久に逃亡幇助の責任が負わされることになった。持久の申し開きは認められず、幕府は禰寝氏などに持久追討の指令を下した。享徳2年(1453年)、事態を憂慮した忠国は持久から都之城を没収し、三俣院高城に閉居を命じた。高城は和田氏の居城であり持久の室は和田氏の出身である。持久は和田氏の食客のような身分で高城で謹慎した。
 寛正6年(1465年)、閉居を許された持久は荘内古江村の薩摩迫に移り、応仁2年(1468年)に安永城を築き居城とした。持久の在命中は北郷氏の本拠地である都城に復帰することはかなわず、文明8年(1476年)、子の6代当主・敏久の代になってようやく旧領都城を回復することができた。 

 島津氏と伊東氏の抗争により日向飫肥で討死した伊東祐国の子・尹祐は、父の恨みを晴らし領土を拡大するため島津氏を攻めたてた。この状況をみた豊後の大友氏は島津氏と伊東氏の和睦を仲介し、明応4年(1495年)、島津忠昌は伊東氏へ三俣院1000町を割譲し両者の和睦が成立した。三俣院はかつては北郷領であり、その回復が北郷氏の宿願となった。
 この時代、島津宗家の弱体化が続き、覇権を求めて島津氏一族や国人領主は宗家を無視して互いに抗争し、家臣の中にも離反するものが現れた。数久も志布志の新納忠武とともに梅北城の島津忠明を攻め、梅北は忠武の領地となった。このときの戦闘により多くの神社仏閣が灰燼に帰した。また、伊東氏と対抗するため、飫肥領主である豊州家と連携を強めた。その後、数久は都城を嫡男の忠相に委ね、自身は安永城に引退した。北郷氏は忠相の代に都城盆地を統一し最大の版図を誇ることになる。 

北郷忠相 北郷時久

 大永3年(1523年)までは、伊東氏,北原氏,更には新納氏,本田氏らの四方に敵を抱えて長年戦い続け、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都之城と安永城の兵800名で領地を維持している状態だったが、尹祐の急死によって伊東氏と和議を結ぶ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻め、次第に領域を拡大していく。
 天文元年(1532年)、島津忠朝,北原久兼と密約を交わし、三軍で伊東氏領の三俣院高城を襲撃。伊東軍に壊滅的打撃を与えた(不動寺馬場の戦い)。 伊東氏はこの敗戦に加え、家中に内紛が発生したことで三俣院の維持が困難となり、軍勢を引き上げた。こうして伊東尹祐に奪われた領域の回復を果たし、勢いに乗じて新納氏の梅北城,松山城,末吉城などの諸城を攻略すると、都城から三俣院高城に本拠を移した。
 天文11年(1542年)には伊東・北原連合軍が再び侵攻してきたが、大楽で撃退した(大楽合戦)。この合戦以降、伊東氏は三俣方面から完全に撤退し、北原氏も野々美谷城を失って引き上げた。 この後さらに北原氏から山田城,志和池城を奪取した北郷氏は庄内(現在の都城市)一円を知行する最盛期を迎えることになる。
 永禄2年(1559年)、73歳で没。

 北郷氏10代当主。日向の庄内一帯を領しており、都之城に居していた。
 島津宗家と手を結び、肝付氏や伊東氏と争う。それらの功績から、永禄5年(1562年)には島津貴久から所領を与えられた。また同年、貴久および肥後国の相良義陽と共に、伊東氏により家督と領地を簒奪されていた北原氏の再興に助勢している。天正6年(1578年)、大友氏の日向国進出に際して先陣を仰せ付かり宮崎城に在った際、この前年に没落した伊東氏の残党1,000が三納平野にて反乱を起こすが、時久は300余人を討ち取って追い散らした。翌天正7年(1579年)には不和となった嫡男の相久を廃して切腹に追い込み、次男の忠虎を跡取りとする。原因は不明である。
 豊臣秀吉の九州征伐には島津方に与して抗戦したが、元より敵うはずもなく、時久は石田三成と伊集院忠棟を通じて秀吉に謝罪し、人質を差し出したため、所領は安堵された。しかし後に薩摩祁答院に移封され(時久が故地を懐かしみ居館を宮之城と名付け、後にそれが地名となった)、都之城には忠棟が入った。文禄・慶長の役で忠虎が早世、孫の長千代丸(後の忠能)の後見人となったが、慶長元年(1596年)に66歳で死去。長千代丸が当主になり、三男の三久が後見人の役目を引き継いだ。 

北郷相久 北郷三久

 島津氏の有力支族である北郷氏の嫡男として、父に従い、天正元年(1573年)の肝付氏との戦いや、天正6年(1578年)の耳川の戦いに従軍し功績をあげた。また、島津義弘の娘である御屋地と結婚し、北郷氏の次期当主と目されていた。
 しかし、天正9年(1581年)父と不和になり廃嫡され、安永金石城において切腹した。なお、天正7年(1579年)という説も有力である。
 不和となった原因ははっきりしないが、都城島津氏の記録である『庄内地理誌』は、相久が戦場において卑怯な振る舞いをとった家臣を諌めたところ逆恨みされ、相久が当主になると自分の立場が悪くなると考えたこの家臣が、相久に叛意があると時久に讒言し、これを信じた時久が、相久の居城である安永金石城を兵で包囲したので、相久は自分は無実であるが父に弓を引くことはできないとして自刃したと伝えている。また、葬儀の際、相久の乳母・乙守氏は自分の両乳房を切り取り、相久に捧げて殉死した。墓は都城市の竜泉寺跡に現存している。なお、妻の御屋地は、安永金石城が包囲される前に脱出し、島津義弘の元へ帰され、後に豊州島津家の島津朝久と再婚した。

 北郷氏宗家10代の北郷時久の3男であり、11代の北郷忠虎の弟であったが、別家を興し、平佐北郷氏の初代となる。また、母である北郷忠孝の娘は、島津義弘の先妻であり、義弘の娘・御屋地を出産した後、時久の後妻となったので、三久と御屋地は異父姉弟となる。
 天正元年(1573年)日向国都城生まれ。島津氏の有力支族である北郷氏の一員として島津氏の下で、小田原征伐や文禄・慶長の役に従軍した。文禄3年(1594年)、忠虎の命により三股を領する。同年10月、忠虎が朝鮮巨済島において病死したが、前当主である時久は高齢であり、次期当主・長千代丸は幼少であったため、島津氏は、島津義久と島津義弘の連署により、長千代丸が17歳になるまで、三久が北郷氏の家督代を務めるよう命じた。
 文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の命により、島津氏家中の所領替えが行われ、北郷氏宗家は都城から祁答院へ、三久も三俣から平佐へと移転させられ、都城は伊集院忠棟の領地となった。北郷氏にとって都城地方は、足利尊氏から与えられて以来継続して領してきた地であり、以後、都城復帰が北郷氏の悲願となった。
 慶長元年(1596年)、三久は、島津義弘に従い朝鮮へ渡海し各地を転戦した。特に、泗川の戦いでは、三久勢は敵の首を4,146討ち取ったと伝えられている。
 朝鮮から帰国後、島津氏と伊集院氏の戦いである庄内の乱が勃発した。これは、北郷氏都城復帰の好機であり、三久は、島津忠恒に従い、長千代丸を補佐し一族を挙げて伊集院忠真と戦った。北郷氏の活躍に対し忠恒は感状を送っている。徳川家康の仲介により乱が終結した後、伊集院氏は頴娃へ移され、北郷氏は念願の都城復帰を果たした。なお、三久は庄内の乱終結後も都城へ戻ることなく平佐を領し、元和6年(1620年)に48歳で死去した。墓は薩摩川内市の梁月寺跡に現存している。
 後に、都城の北郷氏宗家は島津氏の命により島津姓に復したが、平佐北郷氏は北郷の家名を保ち、島津氏の重臣として存続した。
 三久の家臣であった税所敦朝は、キリスト教禁止後に洗礼を受けたので、三久は棄教を命じたが、敦朝はこれに従わず処刑され、薩摩国初の殉教者となった。