SM17:北郷資忠 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 北郷資忠 ― 北郷忠虎 | SM18:北郷忠虎 | ● |
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北郷忠虎 | 北郷忠能 |
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忠虎には同母兄の相久がいたが、天正9年(1581年)、突如時久と相久は不和となり、相久が自害に追い込まれたことによって嫡子となった。 |
文禄4年(1595年)、父・忠虎が朝鮮出兵で客死したため5歳で家督を相続したが、幼児のため、政務は祖父の時久が、軍務は叔父の三久が後見した。翌文禄5年(1596年)には時久が死去し、三久も朝鮮に駐屯中のため、実務は家老の小杉重頼に委ねられていた。 |
北郷久直 | 北郷久定 |
元和3年(1617年)、島津家久の4男として鹿児島で生まれる。寛永元年(1624年)、兄・光久らと共に江戸に移り人質となる。 |
正保元年(1644年)、2代藩主・島津光久の次男として鹿児島で生まれる。寛永18年(1641年)、北郷家15代当主の北郷久直は25歳で死去し、男子がなかったため、北郷氏は一時期当主不在となった。 |
島津忠長 | 島津久理 |
正保2年(1645年)、江戸にて2代薩摩藩主・島津光久の3男として生まれる。寛文2年(1662年)、次兄の北郷家16代当主・久定が継嗣無く19歳で早世したため、弟で喜入家の養子となっていた忠長が、島津宗家の命により北郷家を相続することとなった。この時、宗家の命により、久定の室である北郷家15代当主・久直の娘・千代松を娶り、家名を北郷から島津へと改めたので、それ以降、都城島津家と称するようになった。ただし、島津を称したのは都城領主である本家だけであり、その他の庶流は以後も北郷を称し続けた。 |
明暦3年(1657年)、薩摩藩2代藩主・島津光久の8男として生まれる。寛文10年(1670年)、実兄の都城島津家17代当主・忠長が継嗣無く26歳で早世したため、島津宗家の命により都城島津家を相続することとなった。 |
島津久龍 | 島津久茂 |
延宝6年(1678年)、18代当主・島津久理の長男に生まれる。貞享5年(1688年)、鹿児島において祖父であり2代藩主・島津光久の加冠により元服し、忠置と名乗る。 |
宝永8年(1711年)、19代当主・島津久龍の次男に生まれる。兄が早世したため嫡男となる。享保8年(1723年)、鹿児島城において元服し久珍と名乗る。 |
島津久倫 | 島津久統 |
宝暦9年(1759年)、20代当主・島津久茂の次男に生まれる。同11年(1761年)、兄の21代当主・久般が早世し、男子がなかったため家督を相続する。明和6年(1769年)、鹿児島城において元服し久倫と名乗る。 |
安永10年(1781年)、22代当主・島津久倫の嫡男に生まれる。寛政元年(1789年)、鹿児島城において元服し、久統と名乗る。 |
島津久寛 | |
安政6年(1859年)、25代当主・島津久静の嫡男に生まれる。文久2年(1862年)、島津久光の命により禁裏警護のため上洛中だった父・久静が伏見にて病死したため、4歳で家督を相続する。すでに隠居していた祖父の久本が後見役となった。島津宗家からは従来どおり鹿児島藩の東境の藩屏および東目海岸防禦総頭取を命じられるが、久寛は年少であり久本は高齢であるので、久本の3男(久寛の父方の叔父)北郷資恭を陣代として総轄させた。 |