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島津氏久 | 島津元久 |
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嘉暦3年(1328年)、薩摩国山門院の木牟礼城にて誕生。足利尊氏より偏諱を賜い氏久と称す。父貞久,兄師久らと共に足利尊氏ら北朝に属し南朝と戦い、観応の擾乱の影響で起きた足利直冬と一色範氏の抗争では範氏に従軍、正平6年/観応2年(1351年)に直冬軍と戦ったが負傷している。正平11年/延文元年(1356年)に南朝に転向、三条泰季と共に直冬方の畠山直顕の岩屋城を攻撃、畠山直顕と大隅を巡って争った。その後北朝に帰順し、正平18年/貞治2年(1363年)に父から大隅守護職を譲られている。 |
至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主・島津伊久,守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡(硫黄島を含む)を譲られた。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題・今川了俊の4男・尾崎貞兼に北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。その後も両島津家は協力して了俊に協力していた国人の入来院氏ら渋谷五氏を平定し、応永4年(1397年)には伊久の次男・忠朝と元久の異母弟・久豊が総州家,奥州家の名代として肥前国で新しい九州探題・渋川満頼と会談して関係を改善するなど協調関係が続いた。 |
仲翁守邦 | 島津久豊 |
曹洞宗。薩摩妙円寺の石屋真梁のもとで出家。美濃補陀寺で学び、薩摩に帰り真梁の法をつぐ。島津久豊の帰依をうけ,薩摩常珠寺をひらく。のち能登総持寺住持となり,紫衣を許された。文安2年6月6日死去。67歳。
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応永8年(1401年)頃に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐城に派遣される。だが、伊東祐安の娘を娶って和睦しようとしたところを当主である兄・元久に反対されたことを機に不仲になった。その後、応永10年(1403年)に祐安の娘との間に嫡子の忠国を儲けている。両者の対立は一時は元久が伊東氏ともども久豊を討つ話まで出たものの、最終的には応永17年(1410年)に上洛する元久が日向に立ち寄って久豊と会見するまで続いた。 |
島津忠国 | 島津友久 |
応永10年(1403年)に日向国穆佐院高城(穆佐城)にて誕生、応永32年(1425年)、父が没したため家督を継ぐ。 |
薩摩国島津氏の分家・相州家初代当主。島津宗家9代当主・島津忠国の庶長子であったため本家を継ぐことができず、田布施を与えられて相模守を称した。「相州家」の名は友久の受領名に由来している。なお、忠国と弟の島津持久との内紛にて、友久の母方の伯父(もしくは叔父)伊作教久は持久方、宗家10代当主となった異母弟の立久の外祖父・新納忠臣は忠国方であった事実から、忠国陣営が自派の求心力を保つために対立する伊作氏の血を引く友久ではなく、支持者である新納氏の血を引く立久が後継に選んだとする見方もある。 |
島津忠良 | 島津尚久 |
島津氏の分家・伊作氏の出身(伊作忠良とも呼ばれる)。父・伊作善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・伊作久逸も明応9年(1500年)、薩州家の内紛に関与し加世田で戦死したため、母・梅窓夫人が一時的に伊作氏当主となる。この間、伊作氏は周辺の諸豪族の攻撃に晒されるが、田布施の相州家当主・島津運久に加勢を頼み、運久も承諾して都度兵を送り撃退していたという。 |
享禄4年(1531年)、島津忠良の子として誕生した。天文6年(1537年)、7歳にして長兄の貴久の軍勢の供をし、天文8年(1539年)の市来攻めにも同行した。天文23年(1554年)の岩剣城攻めの際は、加治木勢として出馬し活躍、翌天文24年(1555年)3月の帖佐での戦いでは、次兄の忠将と共に打ち掛かり、祁答院氏,菱刈氏を敗走させている。また、永禄2年(1559年)の松山城攻めなどでも活躍する。大隅国肝付氏との廻城奪回戦の後に病にかかり、翌年に死去した。この廻城攻めの際に戦死した兄の忠将を見殺しにしたと父に非難されての憤死とも言われる。享年32。なお、尾辻佐左衛門という者が殉死している。
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島津久元 | 島津久通 |
島津忠長の次男として誕生した。新納四郎忠真の養子となり新納近江守忠在と称する。慶長4年(1599年)の庄内の乱や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも新納氏として従軍した。しかし、慶長14年(1609年)に兄・忠倍が32歳で死去すると、父・忠長の願いにより新納氏を去って父の家督を相続、以後より島津下野守久元と称した。また、翌慶長15年(1610年)には地頭であった馬越(現・鹿児島県伊佐市)から宮之城(現・鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城)へと移り、同年11月の父の死去に伴い、その翌年には父の在所であった鹿児島へと移った。 |
慶長9年(1605年)島津家家臣・新納忠在(島津久元)の長男として生まれる。母は新納忠増の娘。当時、父・忠在は、新納家に養子入りしていた。元和元年(1615年)12月、元服。寛永4年(1627年)、藩主・島津家久の供をして江戸に出府した。江戸に滞在中に荒木元政に入門し、荒木流馬術の伝書を受ける。 |
島津久治 | 島津用久 |
天保12年、島津久光の次男として重富館(現・鹿児島県姶良市)に誕生する。母は正室の千百子。嘉永5年(1852年)閏4月に島津久宝の養嗣子となることが決定し、同年3月に家督を相続した。また、久宝の娘と結婚する。 |
薩摩国島津氏の分家・薩州家初代当主。出水亀ヶ城主。応永8年(1401年)、島津宗家8代当主・島津久豊の次男として誕生。用久が薩摩守を称したことから、彼の家は「薩州家」と呼ばれた。 |
島津実久 | 島津義虎 |
永正9年(1512年)、薩州家4代当主・島津忠興の子として誕生。薩摩出水を本拠とし、薩摩守護で本宗家の奥州家島津勝久と対立して、これを圧迫し家督を譲らせようとした。そのやり方があまりに過酷すぎたため、勝久は島津家分家・相州家の島津貴久に家督を譲ろうとするが、実久は勝久を豊後国へ追放した上で、貴久とその父・島津忠良を滅ぼして、家督を我が物にしようとした。 |
天文5年(1536年)、薩州家5代当主・島津実久の長男として誕生。室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を賜い、晴久と称す(義晴の死後であろうか、のちに陽久(読み同じ)に改名している)。 |
島津忠清 | 島津忠兼 |
義虎の3男として誕生する。しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎5男),忠豊(義虎6男)と共に小西行長に身柄を預けられる。そこで行長の家臣である皆吉続能の娘・立野殿(洗礼名カタリナ、堅野カタリナ、永俊尼)を娶り、長女と長男を授かった。この妻は再婚であり、連れ子の娘(妙)がいたが、のちに喜入忠政の後室となっている。 |
紫尾山近辺を支配していた渋谷氏・東郷氏に勝利するなどの活躍をし、兄・実久から野田に領地を与えられ、新城を築き居城とする。 |