SM03:島津氏久 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津忠将 | SM10:島津忠将 | ● |
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島津忠将 | 島津以久 |
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垂水島津家の初代とされるが、垂水を領有したのは子の以久の代になってからである。 |
父・忠将が永禄4年(1561年)に戦死した後は、島津家当主の伯父・島津貴久、従兄・義久に養育される。永禄8年(1565年)、大隅国帖佐郷を与えられ、長じて父の所領であった大隅の要衝清水城に襲封された。 |
島津久信 | 島津貴儔 |
天正13年4月4日(1585年5月3日)、大隅国の清水城で生まれた。文禄4年12月27日(1596年1月26日)、鹿屋,大姶良所々8千石余を賜わり、慶長2年(1597年)に鹿屋の一ノ谷城に移った。 |
享保21年(1736年)に兄の島津継豊が強度の疝癪による目まいに悩まされ、江戸に参勤した後帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなり、島津宗信も幼少であった。 |
島津貴澄 | 島津久寿 |
大隅郡垂水領主。藩主一門垂水島津家10代当主。元文3年(1738年)11月1日、薩摩藩第4代藩主・島津吉貴の6男として父の隠居後に生まれる。母は側室のお幾(郷田兼近の娘)。異母兄に5代藩主・継豊、垂水家先代当主の貴儔、同母兄に重富島津家を創設した忠紀、宮之城島津家を相続した久亮、異母弟に今和泉島津家を創設した忠卿がいる。極秘のうちに養子となり、貴儔の直子とされる。
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島津久富(2代藩主・島津忠興の次男)の長男として誕生。母は薩摩藩家老・鎌田正統の娘。従兄にあたる先代藩主の島津忠高が延宝4年(1676年)に早世し、その息子である万吉丸(のちの惟久)が幼少であったため、その代つなぎ(番代)として家督を継ぐことを許された。しかしこのような経緯から藩主としての統制力がなく、藩内では父と家老の松木氏(2代藩主・忠興の母の実家の子孫)の対立が発生し、さらに本家の薩摩藩も藩政に介入するようになるなど、藩は大混乱に陥った。 |
島津久柄 | 島津忠徹 |
宝暦3年(1753年)12月11日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし明和6年(1769年)に佐土原大地震や城下町の大火事、安永7年(1778年)にも大地震が起こって大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も悪化した。このため、製紙業を専売化している。また、久柄には主君としての統率力がなく、そのために家臣団の間で天明騒動と呼ばれる権力闘争が起こった。このような中で天明5年(1785年)5月23日、家督を3男・忠持に譲って隠居し、文化2年(1805年)8月13日に死去した。享年72。
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文化13年(1816年)、父の隠居により家督を継いだ。藩政においては文治を奨励した。ところがそのために、家臣団の間で武断派と文治派による派閥抗争が起こり、それにより本家薩摩藩も介入しての大規模な粛清が行なわれている。結局は文治派が勝利し、文政8年(1825年)には藩校・学習館が創設された。藩財政においても、苦しくなった台所を再建するために藩札発行や製紙業の専売化などを行なって、天保8年(1837年)までに藩財政を再建している。 |
島津忠寛 | |
文政11年(1828年)2月9日、第10代藩主・島津忠徹の3男として江戸三田邸にて生まれる。天保10年(1839年)、父の死去により跡を継いだ。藩政においては文武の発展、さらには藩財政再建のために藩内における産物の統制や専売制の導入、新田開発や造林、税制改革などを行なって一時は財政を好転させたが、藩札発行に失敗し、財政は悪化した。 |