中国(秦王朝)渡来系

SM03:島津氏久  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津忠将 SM10:島津忠将

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島津忠将 島津以久

 垂水島津家の初代とされるが、垂水を領有したのは子の以久の代になってからである。
 永正17年(1520年)、伊作家10代および相州家3代当主・島津忠良の子として誕生した。兄の島津貴久が島津宗家を継いだため、薩摩島津氏の分家の相州家を継ぐ。武勇に長けた人物で、貴久をよく補佐して各地を転戦して領内統一戦のほとんどに参加し武功を挙げた。天文17年(1548年)、大隅肝付氏,日向伊東氏の備えとして要衝の大隅清水城の城主となる。
 永禄4年(1561年)、大隅廻城城主(廻久元)の目が不自由であることと久元の息子が幼いことにつけこみ、肝付兼続が廻城を奪った。これに対し、主君の貴久は忠将と長男の島津義久を向かわせた。忠将は竹原山に陣を構えていたが、突出した味方の町田久倍を救おうとしたところ、兼続の攻撃を受け戦死、清水の楞厳寺に葬られた。弟を討たれた貴久は自ら軍を率い出陣し兼続を撃退、廻城を奪還している。
 なお、忠将が討ち取られた場所(霧島市福山町福山)には供養塔が建立されている。

 父・忠将が永禄4年(1561年)に戦死した後は、島津家当主の伯父・島津貴久、従兄・義久に養育される。永禄8年(1565年)、大隅国帖佐郷を与えられ、長じて父の所領であった大隅の要衝清水城に襲封された。
 天正元年(1573年)、島津義弘に従って父を戦死させた肝属氏を攻め、翌年肝属氏が降伏した。天正6年(1578年)11月、日向国高城にて大友勢との戦いの時、以久は自ら敵陣に駆け入って奮戦し、これがきっかけになって島津勢が勝利したので、以久が第一の軍功として認められた。
 天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州の役に島津氏が敗北すると領地の再編があり、琉球貿易の独占を目指した義久は、種子島氏を薩摩の知覧に移した。これに伴って、天正19年(1591年)、以久は種子島,屋久島,口永良部島一万石を領することになる。
 文禄元年(1592年)、義弘に従って朝鮮へ渡るが、翌年帰国した。慶長2年(1597年)、清水から種子島へ移った。関ヶ原の戦い直前の慶長4年(1599年)3月5日に大隅・垂水11687石を義弘より賜り、種子島から垂水に移った。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島津氏は西軍に付いて島津豊久が戦死している。その後、家康と島津氏の関ヶ原の戦いの戦後交渉の中で、豊久の旧領である日向国那珂郡佐土原3万石が以久に与えられ、慶長8年(1603年)、日向佐土原藩の初代藩主となった。長男・彰久は文禄の役の際に朝鮮で病没していたため、垂水は彰久の子の島津久信(忠仍)に譲った。
 慶長13年(1608年)の駿府城普請を助けた功で、賞誉の御書を受ける。
 慶長15年(1610年)、丹波国篠山城の普請のために京都に赴き、上洛中に没した。享年61。京都四条寺町の大雲院に葬られたが、この時住職に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えする。
 長男・彰久は朝鮮の役の際に病没、次男・入来院重時は養子に出ており、跡を3男・忠興が継いだ。以後、長男・彰久の子孫は垂水島津家として、3男・忠興の子孫は佐土原藩主島津家として続いていくことになった。 

島津久信 島津貴儔

 天正13年4月4日(1585年5月3日)、大隅国の清水城で生まれた。文禄4年12月27日(1596年1月26日)、鹿屋,大姶良所々8千石余を賜わり、慶長2年(1597年)に鹿屋の一ノ谷城に移った。
 慶長8年(1603年)、祖父で垂水城主の島津以久が徳川家康より佐土原を与えられた。この時、以久は本領の垂水の地を久信に譲った。慶長9年12月15日(1605年2月2日)に久信は垂水城に移った。鹿屋は兼領した。
 慶長15年(1610年)に以久が没すると、家康は佐土原を久信に与えようとしたが、久信がこれを断ったたため、以久の3男である島津忠興が佐土原藩主を継いだ。慶長16年(1611年)、居城を垂水城から林之城に移した。
 島津宗家16代当主・島津義久には跡継ぎとなる男子がなく、また義久の3女・亀寿と島津忠恒(家久)との間にも子はなかったため、義久は外孫である久信も後継者の一人と考えたが、家臣の反対に遭い頓挫した。嫡子で島津豊久の甥でもある久敏の廃嫡を画策した挙句に、それを諫めた重臣を手討ちにしたことで元和2年(1616年)、隠居を命じられ、久敏に家督を譲る。
 寛永14年5月11日(1637年7月3日)、鹿屋にて死去した。享年53。鹿屋の安善寺に葬られたが、昭和46年(1971年)に垂水心翁寺跡の垂水島津家墓所に改葬された。 

 享保21年(1736年)に兄の島津継豊が強度の疝癪による目まいに悩まされ、江戸に参勤した後帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなり、島津宗信も幼少であった。
 これを受けて元文元年(1736年)に父の吉貴より、家老座に出席して国政に参与するように命じられる。席次は家老の上とされた。翌2年(1737年)7月18日に父・吉貴より、薩摩藩では珍しい一字拝領を受け、「貴儔」と改める。貴儔以降、垂水島津家は代々「貴」の字を通字とした。同3年(1738年)5月、娘婿で加治木島津家の島津久門(後の島津重年、継豊の子で甥にあたる)とともに家格一所持から新設された家格の一門家の初めとなる。この年のうちに、異母弟の島津忠紀が再興させた重富家も一門家となり、一門家筆頭となる。垂水家は当時最下位の席次であったが、藩政にも参与していた貴儔1代に限り、垂水家が一門家筆頭とされた。
 島津宗信の親政開始とともに一時、政務から退くが、宝暦6年(1756年)の『嶋津家分限帳』では一門筆頭として重富家の島津忠紀(周防)上座に記載されている。
 年少の藩主・重豪に代わり藩政を担っていた兄・継豊が宝暦10年(1760年)に死去すると、重豪の命で再び政務に参加し、3年間藩政を後見した。安永4年(1775年)、隠居して公式上「直子」である貴澄に家督を譲る。
 孫の島津重豪や島津忠持の藩主就任はもとより、茂姫の徳川家斉との結婚、曾孫の島津斉宣の藩主就任まで見届け、寛政3年(1791年)3月10日に死去した。なお、同年11月6日には玄孫の島津斉興が誕生している。享年82と、孫の重豪に劣らずの長命であった。
 島津忠広の孫の郷原転より砲術を皆伝しており、外孫の重豪などに砲術を教授したという。砲術は次男の末川久救が継承した。 

島津貴澄 島津久寿

 大隅郡垂水領主。藩主一門垂水島津家10代当主。元文3年(1738年)11月1日、薩摩藩第4代藩主・島津吉貴の6男として父の隠居後に生まれる。母は側室のお幾(郷田兼近の娘)。異母兄に5代藩主・継豊、垂水家先代当主の貴儔、同母兄に重富島津家を創設した忠紀、宮之城島津家を相続した久亮、異母弟に今和泉島津家を創設した忠卿がいる。極秘のうちに養子となり、貴儔の直子とされる。
 安永4年(1775年)、貴儔が隠居して一門垂水家の家督を相続した。家中の家格は重富家,加治木家に次ぐ3番目の席次となり、これまで前当主貴儔一代限り一門家筆頭であった垂水家当主の席次は原則通りとなる。
 安永5年(1776年)に垂水領内に郷校「文行館」を設立し、高崎から市川鶴鳴、讃岐から乾徽猷、本藩からも向井友章、黒田為国等儒学者を招聘して教育に当たらせた。
 安永8年(1779年)10月、桜島の安永大噴火の際に、被災者の救助や復旧に尽力した。安永10年(1781年)5月、噴火による死者を供養するために、松岳寺境内に桜島焼亡塔を建てた。
 享和3年(1803年)12月1日、隠居し家督を婿養子の貴品に譲る。文化4年(1807年)3月5日死去。享年70。

 

 島津久富(2代藩主・島津忠興の次男)の長男として誕生。母は薩摩藩家老・鎌田正統の娘。従兄にあたる先代藩主の島津忠高が延宝4年(1676年)に早世し、その息子である万吉丸(のちの惟久)が幼少であったため、その代つなぎ(番代)として家督を継ぐことを許された。しかしこのような経緯から藩主としての統制力がなく、藩内では父と家老の松木氏(2代藩主・忠興の母の実家の子孫)の対立が発生し、さらに本家の薩摩藩も藩政に介入するようになるなど、藩は大混乱に陥った。
 元禄3年(1690年)5月29日、16歳に成長した惟久に家督を譲った。同時に幕府の意向により惟久より北那珂郡4ヶ村(芳士村,山崎村,塩路村,島ノ内村)3000石を分与されて旗本寄合となった。元大名ということもあってか元禄4年(1691年)には大番頭に列する。後に大坂城番を務めている。
 元禄6年(1693年)8月3日、江戸で死去した。享年30。墓所は東京都小金井市前原町の幡随院。
 久寿から始まる系統が、島之内島津家である。また薩摩藩の島津義弘のように、久寿はあくまで番代として扱われ、歴代藩主として数えない史料も多い。

島津久柄 島津忠徹

 宝暦3年(1753年)12月11日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし明和6年(1769年)に佐土原大地震や城下町の大火事、安永7年(1778年)にも大地震が起こって大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も悪化した。このため、製紙業を専売化している。また、久柄には主君としての統率力がなく、そのために家臣団の間で天明騒動と呼ばれる権力闘争が起こった。このような中で天明5年(1785年)5月23日、家督を3男・忠持に譲って隠居し、文化2年(1805年)8月13日に死去した。享年72。
 久柄が家督相続した2年後の宝暦5年(1755年)、薩摩藩主・島津重年が死去し、世子忠洪が薩摩藩主を相続したが、幼少であったため、久柄が忠洪の代理人として江戸城に登り、襲封の許可を得ている。忠洪は宝暦8年(1758年)6月13日に重豪に改名する。後に垂水島津家当主で重豪の外祖父でもある島津貴儔の娘を重豪養妹として迎える。

 

 文化13年(1816年)、父の隠居により家督を継いだ。藩政においては文治を奨励した。ところがそのために、家臣団の間で武断派と文治派による派閥抗争が起こり、それにより本家薩摩藩も介入しての大規模な粛清が行なわれている。結局は文治派が勝利し、文政8年(1825年)には藩校・学習館が創設された。藩財政においても、苦しくなった台所を再建するために藩札発行や製紙業の専売化などを行なって、天保8年(1837年)までに藩財政を再建している。                                                   
 天保10年(1839年)4月26日、参勤交代中に病に倒れ、近江草津の草津宿本陣において死去した。享年43。死去時には、幕府に後継者の届け出をしておらず、宿泊予定を1泊2日から77日間とし、その間に3男で嫡男の忠寛を後継者とすべく宿主の田中七左衛門や親戚である膳所藩主本多康禎(忠徹と康禎の妻はともに島津斉宣の娘)の助力を得て届け出を進めた。跡目相続の書類が揃った翌日の同年5月26日に忠徹死去が発表され、無事に忠寛が後継者として認められた。

島津忠寛

 文政11年(1828年)2月9日、第10代藩主・島津忠徹の3男として江戸三田邸にて生まれる。天保10年(1839年)、父の死去により跡を継いだ。藩政においては文武の発展、さらには藩財政再建のために藩内における産物の統制や専売制の導入、新田開発や造林、税制改革などを行なって一時は財政を好転させたが、藩札発行に失敗し、財政は悪化した。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では本家の薩摩藩に従って新政府側として参戦した。明治元年(1868年)6月、明治天皇より錦の御旗を賜る。その後の佐土原藩兵の上野戦争、さらに会津藩や米沢藩などとの戦いでの功績により、明治2年(1869年)に賞典禄として3万石を与えられた。同年の版籍奉還で知藩事となり、また、広瀬城の築城を開始し、佐土原城を破却した。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。嫡男の忠亮は、子爵、次いで伯爵に叙され、麝香間祗候に列した。
 明治29年(1896年)6月20日に死去した。享年69。