中国(秦王朝)渡来系

SM03:島津氏久  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津立久 SM04:島津立久

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島津立久 島津忠昌

 父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治,樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。
 日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作氏を伊作城から櫛間城へ、新納氏を志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主・島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。
 文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。
 文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を法城山龍雲寺に入れて僧にする予定であったとする記録もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は東市来の法城山龍雲寺跡,福昌寺跡。 

 寛正4年(1463年)、薩摩国などを治めた守護大名で島津氏第10代当主・島津立久の子として誕生。 初めは出家して市来の竜雲寺に入り、源鑑と称した。
 文明6年(1474年)4月、父・立久の死去により還俗し、家督を継いで当主となる。しかし、幕末に伊地知季安が編纂した『御当家始書』には立久は薩州家の島津国久を養嗣子に迎えていたと記されており、その家督継承には複雑な事情があったとみられている。また、文明3年(1471年)からの桜島大噴火による家臣や農民の困窮が家臣間の所領争いや農民の逃散を激化させる一因にもなった。文明8年(1476年)1月頃より、薩州家の島津国久をはじめ、豊州家の島津季久らが忠昌に叛旗を翻し、相良為続や伊東祐堯,菱刈氏・渋谷氏一族もこれに呼応し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる。3月に一旦停戦したものの、相州家の島津友久も叛旗を翻したために戦いが再開され、文明9年(1477年)に反守護方による鹿児島侵攻が時間の問題になる中で和睦に至った。4月19日に一族9名との「一家中」一揆の契状を結ばされ、忠昌は守護の地位には留まり一族の協力を得られることになったものの、引換に守護及びその家中(老中などの守護側近の被官)の権力は抑制されることになった。更に文明12年(1480年)10月20日にも主だった6名と改めて同様の契状を交わしている。
 文明16年(1484年)、飫肥にあった新納忠続と隣の櫛間にあった伊作氏の伊作久逸が勢力争いを始めた。11月に伊作久逸が伊東祐国と結んで飫肥城を包囲した。忠昌は島津忠廉に新納忠続の救援を命じるが、島津忠廉は忠昌の命に従わず菱刈氏,東郷氏,入来院氏らと叛旗を翻した。文明17年(1485年)3月、島津忠廉らは相良氏を継いだ相良長毎の仲介で和睦に応じる。だが、飫肥城の戦況は救援にかけつけた島津豊久が戦死するなど、包囲が解ける気配はなかった。忠昌は病身を押して出陣し飫肥近郊で伊東祐国を戦死させ、伊作久逸を降伏せしめた。文明18年(1486年)10月、忠昌は伊作氏と新納氏を旧領である伊作城と志布志城に戻し、島津忠廉の豊州家を飫肥と櫛間の新領主にした。これは結果的には叛逆した島津忠廉が処罰されずに所領が広がったことで、忠昌および島津宗家の主体性の欠如と求心力の低下を示すものとなった。
 明応3年(1494年)、大隅の肝付兼氏が叛旗を翻して忠昌が討伐に向かうと、新納忠武,北郷数久らが一斉に叛旗を翻して兼氏を支援した。更に祐国の子・伊東尹祐までが侵攻を図った。忠昌は尹祐による報復を恐れて、明応4年(1495年)11月に相良長毎の仲介を得て日向国三俣の1000町の土地を割譲することで和睦している。
 忠昌は軍事よりも文学に優れ、文明10年(1478年)には桂庵玄樹を招聘して朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いた。また、琉球や李氏朝鮮とも積極的に通交し貿易を奨励。さらには雪舟に師事し、明にも留学した高城秋月を招き水墨画を普及させるなど薩摩国における文化を興隆させた。
 永正3年(1506年)8月、忠昌は再び大隅の肝付兼久討伐に向かうも再び新納忠武の援軍に敗れてしまう。
 そして、永正5年(1508年)、清水城において自殺した。享年46。理由は狂気や島津氏の内乱に苦しんだためともいわれている。墓所は初め興国寺、後に福昌寺へ改葬された。跡を長男の島津忠治が継いだ。 

島津勝久 島津忠良

 文亀3年(1503年)、 島津氏第11代当主・島津忠昌の3男として誕生する。忠兼(勝久の初名)は最初、頴娃氏の名跡を継いでいた。しかし、室町時代末期の頃の薩摩守護・島津氏は、家中の内乱や当主の相次ぐ急死により弱体化しており、そのような中で忠兼は永正16年(1519年)に兄で13代当主の島津忠隆の死去によりその跡を継いだ。急遽家督を継いだこともあり政権基盤は弱く、なおかつ薩州家第5代当主・島津実久が自らの姉が忠兼の夫人であるのをよいことに次第に権勢を強める始末であった(その妻とは後に離縁)。そのため、大永6年(1526年)11月、島津忠良の長男・貴久を養子に迎えて家督を譲り、国政を委ねて伊作へ隠棲した。ところが、島津実久がこの決定に猛烈に反対し、大永7年(1527年)6月に清水城の貴久を急襲、これを追い落として忠兼を再び守護へと戻した。翌大永8年(1528年)に忠兼から勝久へと改名した。
 ところが、家督を継いだ直後の勝久は亡兄・忠隆時代からの老中(家老)を積極的に入れ替えたために、守護家の重臣の間に勝久への不満が高まっていた。勝久は実久に擁され鹿児島に戻ると、再び国政を執ろうと図る。享禄2年(1529年)、この事態を憂慮した豊州家の島津忠朝は、新納忠勝,禰寝清年,肝付兼演,本田薫親,樺山善久,島津運久ら島津一族と共に勝久を諌めたが、勝久は聞き入れず一同を憤激させた。また、天文3年(1534年)、国老である川上昌久が勝久を諌めようと寵臣・末弘忠季を殺害すると、勝久はこれを恐れて禰寝重就を頼って逃亡するも、翌年に戻って昌久を切腹に追いやった。これに憤激した実久も遂に勝久を除く意思を固め、同年8月に川上氏と共同して勝久を襲撃した。勝久は直臣にも見捨てられ、帖佐へ逃亡した。実久はこの時点で守護家の家臣団や国人領主に推される形で守護職に就く。勝久は翌月に日向国真幸院の北原氏と大隅国帖佐の祁答院氏の協力を得て反撃に及ぶが、初戦こそ勝利したものの再び敗れて逃亡、まず祁答院氏を頼り、次いで北原氏、更に日向国庄内の北郷氏を頼った。その後、忠良・貴久父子と再度連携して一時的に巻き返しが成功するも、北郷氏を含めて貴久の擁立へと傾き始め、結局勝久は母の実家である大友氏を頼って豊後国へ亡命した。
 天正元年(1573年)、同地の沖の浜という地で死去。享年71。墓所は鹿児島の隆盛院、後に福昌院。
 子に天文4年(1535年)生まれの島津忠良らがいる。長男・忠良は後に薩摩国へ戻り、忠良の3人の子は島津義久に仕えて次男は藤野姓、3男は亀山姓を名乗った。また、次男・久考以下は大友氏に仕え、大友氏の豊臣氏による改易後、子孫は関東の徳川氏に仕えた。また女子の一之台は大友氏の室となり、宗俊は兄の又四郎により殺害されている。 

 島津勝久の長男として鹿児島北城に生まれる。父の勝久はこの頃、既に守護職を養嗣子の島津貴久に譲っていたものの、薩州家の島津実久に焚き付けられ返り咲きを狙っていた。しかし、国老の川上昌久を殺害したことで実久の不興を買い、同年、その実久により攻撃されると、忠良は生後94日にして父母と共に大隅国帖佐の祁答院氏の元へと逃れた。その後、禰寝氏や豊州家の保護を経て、7歳の頃に日向国の伊東義祐を頼るも、後年は薩摩国へ戻った。元和4年(1618年)に死去、大隅国の高山昌林寺に葬られた。
 島津義久が日向国を掌握した前後に、守護奥州家が所持し父・勝久が豊後に落ち延びる際に持ち出していた島津宗家の文書や重物を献上している。
 なお、嫡子の良久は島津義久の命により曽於郡念仏寺の住持となり、次男も僧となり「正圓」と名乗っていたが、義久の命により還俗し藤野久秀と称した。ただし、この久秀も「恕世」と号し再び出家したため、忠康の事実上の後継は3男の亀山忠辰となった。 

島津貴久 島津義久

 戦国大名としての島津氏の中興の祖である島津忠良(日新斎)の嫡男で、「島津の英主」と称えられる。島津氏第9代当主・島津忠国の玄孫にあたり、第14代当主・島津勝久の養子に入って島津氏第15代当主となった。薩摩守護職,大隅守護職,日向守護職。官位は従五位下修理大夫・陸奥守。
 永正11年5月5日(1514年5月28日)、薩摩島津氏の分家、伊作氏・相州家当主の島津忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれる。この頃、島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治,第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。そこで勝久は相州家の忠良を頼り、大永6年(1526年)11月、貴久は勝久の養子となって島津本宗家の家督の後継者となった。大永7年(1527年)4月、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は清水城に入って正式に家督を継承した。
 加世田や出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、実久方で加治木の伊集院重貞,帖佐の島津昌久が叛旗を翻した。実父の島津忠良がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田・川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し、攻め落とした。さらに川上忠克を勝久のもとに送り、島津勝久の守護職復帰を説いた。貴久は鹿児島で攻撃され、夜に乗じて城を出て園田実明らと共に亀ヶ城に退いた。大永7年(1527年)5月に貴久は島津勝久との養子縁組を解消され、勝久は守護職の悔返(譲渡の無効)を宣言した。
 これは実際には、守護である勝久と先代当主であった兄(忠治,忠隆)の時代からの老中(家老)との間で対立があり、勝久は自分に近い者を老中として登用していた。勝久と貴久の縁組を推進したのは忠良の支援で本宗家の立て直しを図ろうとした後者の働きかけによるところが大きく、勝久の積極的な意思ではなかった。これに対して勝久に罷免された古くからの老中は貴久との縁組に反対して実久と結んだのである。このため、実久の挙兵を見た勝久は一転して考えを変えて守護職の悔返を図って自らの政治的権力の回復に乗り出したのであった。
 ところが、勝久と老中達の対立は解消されないどころか却って深刻化し、老中達は実久を新たな本宗家の当主に擁立する動きを見せ始め、その結果、天文4年(1535年)には老中達は実久を迎え入れてクーデターを起こし、勝久を追放して実久を新しい本宗家当主・薩摩守護職にして擁立したのである。大隅国・日向国の国人の中でも実久を支持する動きがあり、実久は一時的ではあるが名実ともに守護としての地位を確立したのである。
 この間、島津忠良は薩摩半島南部の国人衆「南方衆」を味方に取り込んで薩摩半島の掌握に努めた。天文2年(1533年)、貴久は日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げている。そんな中で起きた島津本宗家のクーデターが発生し、守護を追われた勝久が再び忠良・貴久父子と結んだのである。一方、新しく守護になった実久から見ても守護所のある清水城は薩摩半島の付け根にあり、忠良・貴久父子の存在は脅威であった。忠良は、実久の本拠地であった出水と鹿児島の間の渋谷氏一族(祁答院,入来院,東郷の諸氏)と結んで実久を牽制した。
 天文5年(1536年)、反攻を開始した忠良・貴久父子は伊集院城を奪還し、天文6年(1536年)に鹿児島に進撃して入城した。続いて、天文7年(1538年)から翌にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻略し攻め落とした。そして、天文8年(1539年)、紫原においる決戦で実久方を打ち破った。実久は再起を期すために出水に撤退するが、すでに守護としての実質を失い、混乱の発端であった勝久も敵方であることから、母方の大友氏を頼り豊後国へ亡命していった。ここに相州家出身の貴久は鹿児島及び薩摩半島を平定して薩摩守護としての地位を確立するとともに、戦国大名として国主の座についた。
 ところが、忠良・貴久父子の急激な台頭は島津氏の一門や薩摩・大隅の国人衆に動揺を与えた。天文10年(1541年)になると、豊州家の島津忠広や肝付兼演,本田薫親(ともに勝久時代の老中)らが共謀し、豊州家以下13氏が勝久の子・益房を擁して貴久方である大隅・生別府の樺山善久を攻めた。13氏の中にはこれまで貴久方であった筈の渋谷氏一族も含まれており、忠良・貴久父子に味方するのは南方衆や肝付兼続など少数に過ぎなかったが、辛うじてこれを撃退した。忠良・貴久父子は本田薫親に樺山氏を生別府から薩摩谷山に移封させてその空地を与えると持ち掛けて和睦し、13氏の連合を崩すことに成功した。天文14年(1545年)に入ると朝廷の上使である町資将が薩摩を訪問して貴久が同国の国主として朝廷に公認される形になった。また、同じ天文14年(1545年)には伊東氏の侵攻と家督相続問題を抱えた豊州家が貴久の保護を求めて従属し、天文18年(1549年)には肝付兼演が降伏、本田薫親は一度は和睦して貴久の老中に取り立てられるも独自の行動が多く、朝廷に対して勝手に官位を申請したことが叛逆とみなされて討伐・追放された。そして、島津実久も天文22年(1553年)に病死し、後を継いだ義虎は貴久を守護として認めたのである。
 天文19年(1550年)、貴久は伊集院城から鹿児島へと移るが、薩摩守護の島津氏の守護所であった清水城を避け新たに内城を築いて戦国大名島津氏の本城とした。天文21年(1552年)、貴久は歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられるとともに、自分の嫡男である忠良(貴久の実父と同名である)に将軍・足利義輝から偏諱を授けられて「義辰」(後に「義久」と再改名)と名乗らせることに成功した。また、同年には実久の薩州家以外の島津氏一門・庶家から守護である貴久を中心に「一味同心」することを盟約した起請文が作成された。貴久が勝久から守護職を譲られてわずか1ヶ月で悔返されてから25年、薩摩の国主としての地位を確立してから13年にして、ようやく朝廷・室町幕府および島津氏一門のほとんどから守護として名実ともに認められた。
 大隅は古くからの国人衆が多く、守護の支配権が長い間及ばない地域であった。これらは島津氏の領土拡大において多大な障害となっていた。天文23年(1554年)、島津氏の軍門に降った加治木城主の肝付兼盛を蒲生範清,祁答院良重,入来院重朝,菱刈重豊らが攻めた。加治木を救援するために島津氏は貴久はじめ一族の多くが従軍した。貴久は祁答院氏のいる岩剣城を攻めることで、加治木城の包囲を解こうと考えた。島津軍は岩剣城を孤立化させた結果、蒲生範清,祁答院一族ら2000余人が押し寄せた。島津軍は蒲生軍を撃破し、祁答院重経,西俣盛家など50余人の首級を挙げた。
 貴久は続いて、弘治元年(1555年)、帖佐平佐城を攻略し、弘治2年(1556年)、松坂城を攻略した。支城を3つ失った蒲生氏は本拠の蒲生龍ヶ城を火にかけて祁答院へと逃げ帰った。これにより貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにすることができた。
 永禄9年(1566年)、剃髪して長子の義久に家督を譲り、自らは伯囿と号して隠居した。元亀2年(1571年)、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中に加世田にて死去。享年58。大正9年(1920年)11月18日、従三位が贈られている。 

 島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。
 義久は優秀な3人の弟(島津義弘,歳久,家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権,関ヶ原の戦い,徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。
 幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。元服した直後は祖父と同じ忠良を諱とし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱を受け、義辰、後に義久と改名している。
 天文23年(1554年)、島津氏と蒲生氏,祁答院氏,入来院氏,菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557年)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569年)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570年)には東郷氏,入来院氏が降伏、薩摩統一がなった。この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566年)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。
 島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と対峙していた。元亀3年(1572年)5月、伊東義祐の重臣の伊東祐安を総大将に、伊東祐信,伊東又次郎,伊東祐青らを大将にした3,000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟の島津義弘が迎え撃った。義弘は300人を率いて出撃し、木崎原にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。義弘が先陣を切って戦い、伊東祐安,伊東祐信,伊東又次郎など大将格5人をはじめ、名のある武者だけで160余人、首級は500余もあったという。この合戦は寡勢が多勢を撃破したものである(木崎原の戦い)。また、これと並行して大隅国の統一も展開しており、天正元年(1573年)に禰寝氏を、翌年には肝付氏と伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たしている。最後に残った日向国に関しては天正4年(1576年)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退する。こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一が達成された。
 伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578年)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周,佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟の島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠け、義久は無秩序に攻めてくる大友軍を相手に「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。
 天正8年(1580年)、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾した。天正9年(1581年)には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。
 耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘,家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年(1582年)、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯,川上忠堅ら1,000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。天正12年(1584年)、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後国の水俣まで出陣した。家久は3,000人を率いて島原湾を渡海し、安徳城に入った。有馬勢と合わせて5,000余りで、龍造寺軍2万5千(一説には6万)という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利した(沖田畷の戦い)。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。
 天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子,筑前国の秋月種実らが次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年(1585年)、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(惣無事令)。島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年(1586年)7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長,伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方の筑紫広門の勝尾城を攻めた。島津軍の攻撃を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降り、義久は広門を大善寺に幽閉した。これを見て、筑後の原田信種,星野鎮種,草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊前の城井友綱と長野惟冬の3,000余騎など大名・国衆が参陣した。これにより筑前・筑後で残るは高橋紹運の守る岩屋城,立花宗茂の守る立花城,高橋統増の守る宝満山城のみとなる。7月、島津忠長,伊集院忠棟を大将とした3万余が岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)。しかしこの戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す誤算となった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め、豊後侵攻へ方針を転換した。島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城,岩屋城,宝満山城を、また幽閉先を脱出した筑紫広門に勝尾城を奪還されている。
 義久は肥後側から義弘を大将にした3万700余人、日向側から家久を大将にした1万余人に豊後攻略を命じた。しかし、義弘は志賀親次が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取ったため、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。家久は利光宗魚の守る鶴賀城を攻め、利光宗魚が戦死するも抵抗は続いた。
 12月、大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親,長宗我部信親,十河存保ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。家久はこれを迎え撃つべく戸次川を挟んで対陣した。合戦は敵味方4,000余が討死した乱戦であったが、家久は釣り野伏せ戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。長宗我部信親,十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり勝利した(戸次川の戦い)。この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏した。大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とした。家久は大友宗麟の守る臼杵城を包囲した。
 天正15年(1587年)、豊臣軍の先鋒の豊臣秀長率いる毛利,小早川,宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘,家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘,家久など2万余人が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けたが、継潤が抗戦している間に、藤堂高虎,黒田孝高が合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍は多くの犠牲を出し、本国薩摩国へと撤退・敗走した(根白坂の戦い)。
 島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主の島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改めた。その後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。義久は降伏したものの、義弘,歳久,新納忠元,北郷時久らは抗戦を続けていた。高野山の木食応其から和議を促され、義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。
 秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子の久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に3女の亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。
 天正16年(1588年)、秀吉から義弘に柴の名字と豊臣の本姓が与えられた。また、天正18年(1590年)、義久に羽柴の名字のみ与えられた。豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることになる。
 秀吉は朝鮮出兵を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。しかし、島津家は秀吉の決めた軍役を十分に達成することができなかった上、重臣の一人・梅北国兼は名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こした(梅北一揆)。秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。また文禄2年(1593年)、朝鮮で久保が病死したため、久保の弟・忠恒に娘の亀寿を再嫁させて後継者としている。
 秀吉政権からは義弘が事実上の島津家当主として扱われていた、当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移り、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた(両殿体制)。
 秀吉の死後、家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、事前に義久の了解を得ていたという説もある。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。

 戦後、島津義久は西軍への荷担は実弟の義弘が行ったもので、島津家の当主である自分(義久)はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始した。この講和交渉は、2年に渡って行われた。この交渉では、家康側から義久の上洛が条件として提示されていたが、義久はこれに家臣の鎌田政近や島津忠長,島津忠恒などを代わりに上洛させ、病気や金銭不足、道を修繕中、上洛を準備中などの様々な理由で固辞するなどして、最後まで家康の要求通りに上洛することはなかった。交渉は、義久が所領の安堵を求め、家康が保証するという段階を経たが、書状が家康直々の起請文でないことを義久が追求したため、家康が自身の名で起請文を再度発給し、所領安堵の更なる保証を与える。義久の上洛はついに満たされぬまま、慶長7年(1602年)12月に、義久の名代として島津忠恒を上洛させたことによって、島津領国の安堵が確定した。また、こうした島津の所領安堵は、立花宗茂,黒田如水,加藤清正らが家康に積極的に働きかけ、取り成したことにより、実現したことでもあった。

 徳川家康による領土安堵後の慶長7年(1602年)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度、書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この体制は「三殿体制」と呼ばれる。
 慶長9年(1604年)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ。慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死した。享年79。辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」 

島津義弘 島津忠恒(家久)

 島津氏の第17代当主。後に剃髪して惟新斎と号したため、惟新公との敬称でも呼ばれた。天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれる。室町幕府15代将軍・足利義昭から偏諱を賜って義珍、さらに義弘と改めた。
 天文23年(1554年)、父と共に大隅国西部の祁答院良重,入来院重嗣,蒲生範清,菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る。弘治3年(1557年)、大隅国の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。だがこの時、義弘も5本の矢を受け重傷を負った。
 永禄3年3月19日(1560年4月24日)、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救うため、その養子となって飫肥城に入ったが、永禄5年(1562年)、薩摩国の本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となった。北原氏の領地が伊東義祐に奪われたため、島津氏はそれを取り返すために助力したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降は飯野城を居城とすることになる。
 義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。
 天正5年(1577年)には伊東義祐を日向から追放、天正6年(1578年)の耳川の戦いにも参加して豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げている。天正9年(1581年)に帰順した相良氏に代わり、天正13年(1585年)には肥後国の守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げることも多かった。天正14年(1586年)には豊後の大友領に侵攻したが、志賀親次など大友方の城主の抵抗に合い、思うように進まなかった。
 天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦う(根白坂の戦い)。このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したというが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。その後の5月8日(6月13日)に義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、5月22日(6月27日)に兄の懸命な説得により、子の久保を人質として差し出すことを決めて高野山の木食応其の仲介のもと降伏した。このとき秀吉から大隅国を所領安堵されている。
 なお、この際に義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているため、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されている。また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある。
 天正16年(1588年)に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され、従五位下侍従に叙任された。以降、羽柴兵庫頭豊臣義弘(後に出家し羽柴兵庫入道)となる。一方、義久には羽柴の名字のみが下賜された。
 その後は豊臣政権に対して協力的で、天正20年(1592年)からの文禄の役、慶長2年(1597年)からの慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦している。ただ、文禄の役では四番隊に所属し1万人の軍役を命ぜられたが、国元の体制や梅北一揆により軍役動員が捗らなかった。その後、島津の軍勢は四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道に展開した。また、和平交渉中の文禄2年(1593年)9月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失っている。
 慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載がある。これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。
 朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂らともに順天城に孤立した小西行長軍救出のために出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退した。しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作戦目的は達成されている。これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子」と朝鮮・明軍から恐れられていたとされている。
 慶長3年(1598年)の秀吉死後、慶長4年(1599年)には義弘の子・忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動が起こる。この頃の島津氏内部では、薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられる。義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵だけであった。 そのため、義弘はこの時、参勤で上京していた甥の島津豊久らと合流し、豊久が国許に要請した軍勢などを指揮下に組み入れた。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の前哨戦である伏見城攻撃に参戦している。伏見城攻めで奮戦し、討死・負傷者を出した後、濃州垂井の陣所まで進出した義弘が率いていた兵数は、1000人ほどであった。そして、この時に、義弘が国許の家老の本田正親に宛てた書状で援軍を求めた結果、新納旅庵,伊勢貞成,相良長泰,大田忠綱,後醍院宗重,長寿院盛淳らを始めとした譜代衆と有志・志願者の390人ほどの兵が国許から上京し合流した。しかし、石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視していたようである。
 9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」ため、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや戦う気を失ったともされている。
 関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、西軍の石田三成隊や小西行長隊,宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物,合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と戦闘を繰り広げた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道を南下した。この撤退劇に対して井伊直政,本多忠勝,松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。 しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は追撃し続けた。
 このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身は敵中突破に成功した。義弘主従は、大和三輪山平等寺に逃げ込んで11月28日まで70日間滞在し無事帰国した。無一文であった義弘主従は平等寺社侶たちからの援助によって難波の港より薩摩へと帰還する。その際に義弘は摂津国住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に帰還したという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうち80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれている。
 薩摩に戻った義弘は、徳川に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で徳川との和平交渉にあたった。ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼した。直政は徳川・島津の講和のために奔走している。また福島正則の尽力もあったとも言われる。また一方で近衛前久が家康と親しい間柄ということもあり、両者の仲介に当たったといわれる。
 慶長5年9月30日(1600年11月5日)、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令した。黒田,加藤,鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令できず膠着した状態が続いた。関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、もしここで長期戦になって苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。そのため、徳川家は交渉で決着をつけようと島津家に圧力をかけていた最中、薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた明との貿易船2隻が襲われ沈められるという事件が起きてしまう。この事件の黒幕は島津家とされており、もし武力で島津家を潰せば旧臣や敗残兵が海賊集団を結成し、貿易による経済的基盤の脅威になるという、いわば徳川家に対する脅しをかけたとされる。こうした事態から家康は態度を軟化せざるを得ず11月12日(12月17日)、島津討伐軍に撤退を命令した。そして、慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」また、義弘の処遇も「わし(家康)と義久は仲がいいので義弘の咎めは無しとする」と嘯いた。こうして島津氏に対する本領の安堵、忠恒への家督譲渡が無事承認された(異説あり)。
 その後、大隅の加治木に隠居した。隠居後は若者たちの教育に力を注ぎ、元和5年7月21日(1619年8月30日)に同地で死去。享年85(満83歳没)。このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死している。

 薩摩藩初代藩主。通称は又八郎。島津氏を戦国大名へと成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子。正室である亀寿は伯父・島津義久の娘で、初め忠恒の兄である島津久保と結婚したが、久保の死後に忠恒と結婚した。後に家久と改名するが、同名の叔父が存在するため、初名の忠恒で呼ばれることが多い。
 伯父・義久に男児がなかったために島津氏は父・義弘が名代となっていたが、長兄が夭折、文禄2年(1593年)に次兄・久保が朝鮮で病により陣没したため、又八郎が豊臣秀吉の指名により島津氏の後継者と定められた。
 後継者となる前は、蹴鞠と酒色に溺れる日々を送っており、朝鮮出兵中の義弘から書状で注意を受けていた。しかし、後継者になると父や伯父たち同様に本来備わった優れた武勇を発揮した。慶長の役では慶長3年(1598年)、父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。『絵本太閤記』によると、城に攻め寄せてきた董一元率いる明の大軍4万余りに対して、兵1千を率い、城外に討って出て、縦横無尽に槍を突き立てたり、多くの明の兵士を切り捨てたりしたという。城を守っていた大将の義弘と兵5千も機を見て城外に討って出て、遮二無二突き破り、明人の首3万を討ち取ったという。ただ、態度や性格が直ったわけではなく、朝鮮の役でも忠恒の横暴に苦しんだ雑兵が朝鮮側に逃亡したという記録がある。
 慶長4年(1599年)1月9日、朝鮮より帰国した忠恒は五大老より泗川の戦いでの軍功を賞して、5万石の加増と左近衛少将に任じられた。これまで「島津又八郎殿」と仮名で呼ばれていたが、これ以降「羽柴薩摩少将殿」と呼ばれる。また2月20日には義久より島津家相伝の重宝類である「御重物」のうち「時雨軍旗」が送られ、正式に島津本宗家の家督を継いだ。
 慶長4年(1599年)3月9日、家老・伊集院忠棟を京都伏見の島津邸で自らの手で斬殺した。朝鮮在陣中に石田三成と忠棟が主導した島津家支配体制への介入、あるいは当主権の侵害を忠恒は家督相続と同時に排除する決断をしたのだろう。しかし忠棟は家臣であると同時に秀吉から直接知行を宛行われた御朱印衆である。そんな忠棟を殺害することは彼と昵懇だった三成を敵に回すことを意味し、ひいては豊臣政権への反逆ともとられかねない。そのためなぜこのタイミングで忠恒がみずから忠棟を殺害するという選択をしたのかは謎が残る。忠棟殺害後、忠恒は高雄山に蟄居・謹慎している。これは三成の意向とも義弘が三成に忖度して蟄居させたともいう。閏3月4日、三成に不満を持った七将が石田邸を襲撃し、最終的に徳川家康の仲裁で三成は隠居することとなった。石田邸襲撃の翌閏3月5日には忠恒は高雄山から伏見の自邸へと戻る。家譜ではこれは家康の計らいとしている。三成の失脚により、忠恒の罪は無かったことにされた。三成の失脚を知った忠棟の子・伊集院忠真は閏3月中に国許の庄内で反乱を起こした(庄内の乱)。忠恒は家康の承諾を得て、国許へ帰国し、義久と共に反乱鎮圧の指揮を取る。慶長5年(1600年)、家康の仲裁もあり、忠真は島津家に降伏し、乱は終結した。その後、忠真は慶長7年(1602年)に日向国の野尻で催した狩りの最中に忠恒によって射殺され、供の者も誅殺された。庄内の乱の折、肥後の加藤清正や飫肥の伊東佑兵は伊集院方を支援していた。関ヶ原の戦いの折、加藤軍は当主の清正が在国しており、伊東軍は当主の佑兵は大坂にいたが軍が領国にいた。島津家は内には忠真、外には清正や伊東氏という敵に囲まれていた。また関ヶ原の戦い後の混乱期に清正から忠真経由で有力な一族である島津以久への密書が発見される。
 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで父の義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、家康に謝罪のため上洛し本領を安堵された。慶長11年(1606年)、家康から偏諱を受け、家久と名乗った。
 慶長14年(1609年)、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し、占領して付庸国とした(琉球との融和政策を図る義久とは対立していたとされている)。また、明とも貿易を執り行い、鹿児島城(鶴丸城)を築いて城下町を整備したり、外城制や門割制を確立するなど薩摩藩の基礎を固める一方で、幕府に対しては妻子をいちはやく江戸に送って参勤交代の先駆けとした。
 慶長18年(1613年)、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直轄地とした。
 慶長19年(1614年)、9月7日付起請文を将軍・徳川秀忠に向けて提出するように求められており、島津家が豊臣家に加担することがないような手段が講じられていた。元和3年(1617年)には、秀忠から松平の名字を与えられ、薩摩守に任官される。
 寛永4年(1627年)より藩主・伊東祐慶の次男・伊東祐豊が将軍・徳川家光の小姓となっていた飫肥藩との間で牛の峠境界論争が発生し、寛永10年(1633年)、現地を視察した幕府の巡検使が飫肥藩の主張を支持した。薩摩藩は領域南西部の牛の峠付近について飫肥藩の主張を認めたものの北東部の北河内付近については納得せず、引き続き延宝3年(1675年)に幕府の裁定で飫肥藩側勝訴・薩摩藩側敗訴となるまで境界論争が継続されることになった。
 寛永15年(1638年)、死去。享年62。殉死者が9名出ている。家督は次男の光久が相続した。