戦国大名としての島津氏の中興の祖である島津忠良(日新斎)の嫡男で、「島津の英主」と称えられる。島津氏第9代当主・島津忠国の玄孫にあたり、第14代当主・島津勝久の養子に入って島津氏第15代当主となった。薩摩守護職,大隅守護職,日向守護職。官位は従五位下修理大夫・陸奥守。 永正11年5月5日(1514年5月28日)、薩摩島津氏の分家、伊作氏・相州家当主の島津忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれる。この頃、島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治,第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。そこで勝久は相州家の忠良を頼り、大永6年(1526年)11月、貴久は勝久の養子となって島津本宗家の家督の後継者となった。大永7年(1527年)4月、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は清水城に入って正式に家督を継承した。 加世田や出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、実久方で加治木の伊集院重貞,帖佐の島津昌久が叛旗を翻した。実父の島津忠良がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田・川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し、攻め落とした。さらに川上忠克を勝久のもとに送り、島津勝久の守護職復帰を説いた。貴久は鹿児島で攻撃され、夜に乗じて城を出て園田実明らと共に亀ヶ城に退いた。大永7年(1527年)5月に貴久は島津勝久との養子縁組を解消され、勝久は守護職の悔返(譲渡の無効)を宣言した。 これは実際には、守護である勝久と先代当主であった兄(忠治,忠隆)の時代からの老中(家老)との間で対立があり、勝久は自分に近い者を老中として登用していた。勝久と貴久の縁組を推進したのは忠良の支援で本宗家の立て直しを図ろうとした後者の働きかけによるところが大きく、勝久の積極的な意思ではなかった。これに対して勝久に罷免された古くからの老中は貴久との縁組に反対して実久と結んだのである。このため、実久の挙兵を見た勝久は一転して考えを変えて守護職の悔返を図って自らの政治的権力の回復に乗り出したのであった。 ところが、勝久と老中達の対立は解消されないどころか却って深刻化し、老中達は実久を新たな本宗家の当主に擁立する動きを見せ始め、その結果、天文4年(1535年)には老中達は実久を迎え入れてクーデターを起こし、勝久を追放して実久を新しい本宗家当主・薩摩守護職にして擁立したのである。大隅国・日向国の国人の中でも実久を支持する動きがあり、実久は一時的ではあるが名実ともに守護としての地位を確立したのである。 この間、島津忠良は薩摩半島南部の国人衆「南方衆」を味方に取り込んで薩摩半島の掌握に努めた。天文2年(1533年)、貴久は日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げている。そんな中で起きた島津本宗家のクーデターが発生し、守護を追われた勝久が再び忠良・貴久父子と結んだのである。一方、新しく守護になった実久から見ても守護所のある清水城は薩摩半島の付け根にあり、忠良・貴久父子の存在は脅威であった。忠良は、実久の本拠地であった出水と鹿児島の間の渋谷氏一族(祁答院,入来院,東郷の諸氏)と結んで実久を牽制した。 天文5年(1536年)、反攻を開始した忠良・貴久父子は伊集院城を奪還し、天文6年(1536年)に鹿児島に進撃して入城した。続いて、天文7年(1538年)から翌にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻略し攻め落とした。そして、天文8年(1539年)、紫原においる決戦で実久方を打ち破った。実久は再起を期すために出水に撤退するが、すでに守護としての実質を失い、混乱の発端であった勝久も敵方であることから、母方の大友氏を頼り豊後国へ亡命していった。ここに相州家出身の貴久は鹿児島及び薩摩半島を平定して薩摩守護としての地位を確立するとともに、戦国大名として国主の座についた。 ところが、忠良・貴久父子の急激な台頭は島津氏の一門や薩摩・大隅の国人衆に動揺を与えた。天文10年(1541年)になると、豊州家の島津忠広や肝付兼演,本田薫親(ともに勝久時代の老中)らが共謀し、豊州家以下13氏が勝久の子・益房を擁して貴久方である大隅・生別府の樺山善久を攻めた。13氏の中にはこれまで貴久方であった筈の渋谷氏一族も含まれており、忠良・貴久父子に味方するのは南方衆や肝付兼続など少数に過ぎなかったが、辛うじてこれを撃退した。忠良・貴久父子は本田薫親に樺山氏を生別府から薩摩谷山に移封させてその空地を与えると持ち掛けて和睦し、13氏の連合を崩すことに成功した。天文14年(1545年)に入ると朝廷の上使である町資将が薩摩を訪問して貴久が同国の国主として朝廷に公認される形になった。また、同じ天文14年(1545年)には伊東氏の侵攻と家督相続問題を抱えた豊州家が貴久の保護を求めて従属し、天文18年(1549年)には肝付兼演が降伏、本田薫親は一度は和睦して貴久の老中に取り立てられるも独自の行動が多く、朝廷に対して勝手に官位を申請したことが叛逆とみなされて討伐・追放された。そして、島津実久も天文22年(1553年)に病死し、後を継いだ義虎は貴久を守護として認めたのである。 天文19年(1550年)、貴久は伊集院城から鹿児島へと移るが、薩摩守護の島津氏の守護所であった清水城を避け新たに内城を築いて戦国大名島津氏の本城とした。天文21年(1552年)、貴久は歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられるとともに、自分の嫡男である忠良(貴久の実父と同名である)に将軍・足利義輝から偏諱を授けられて「義辰」(後に「義久」と再改名)と名乗らせることに成功した。また、同年には実久の薩州家以外の島津氏一門・庶家から守護である貴久を中心に「一味同心」することを盟約した起請文が作成された。貴久が勝久から守護職を譲られてわずか1ヶ月で悔返されてから25年、薩摩の国主としての地位を確立してから13年にして、ようやく朝廷・室町幕府および島津氏一門のほとんどから守護として名実ともに認められた。 大隅は古くからの国人衆が多く、守護の支配権が長い間及ばない地域であった。これらは島津氏の領土拡大において多大な障害となっていた。天文23年(1554年)、島津氏の軍門に降った加治木城主の肝付兼盛を蒲生範清,祁答院良重,入来院重朝,菱刈重豊らが攻めた。加治木を救援するために島津氏は貴久はじめ一族の多くが従軍した。貴久は祁答院氏のいる岩剣城を攻めることで、加治木城の包囲を解こうと考えた。島津軍は岩剣城を孤立化させた結果、蒲生範清,祁答院一族ら2000余人が押し寄せた。島津軍は蒲生軍を撃破し、祁答院重経,西俣盛家など50余人の首級を挙げた。 貴久は続いて、弘治元年(1555年)、帖佐平佐城を攻略し、弘治2年(1556年)、松坂城を攻略した。支城を3つ失った蒲生氏は本拠の蒲生龍ヶ城を火にかけて祁答院へと逃げ帰った。これにより貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにすることができた。 永禄9年(1566年)、剃髪して長子の義久に家督を譲り、自らは伯囿と号して隠居した。元亀2年(1571年)、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中に加世田にて死去。享年58。大正9年(1920年)11月18日、従三位が贈られている。
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島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘,歳久,家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権,関ヶ原の戦い,徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。 幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。元服した直後は祖父と同じ忠良を諱とし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱を受け、義辰、後に義久と改名している。 天文23年(1554年)、島津氏と蒲生氏,祁答院氏,入来院氏,菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557年)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569年)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570年)には東郷氏,入来院氏が降伏、薩摩統一がなった。この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566年)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。 島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と対峙していた。元亀3年(1572年)5月、伊東義祐の重臣の伊東祐安を総大将に、伊東祐信,伊東又次郎,伊東祐青らを大将にした3,000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟の島津義弘が迎え撃った。義弘は300人を率いて出撃し、木崎原にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。義弘が先陣を切って戦い、伊東祐安,伊東祐信,伊東又次郎など大将格5人をはじめ、名のある武者だけで160余人、首級は500余もあったという。この合戦は寡勢が多勢を撃破したものである(木崎原の戦い)。また、これと並行して大隅国の統一も展開しており、天正元年(1573年)に禰寝氏を、翌年には肝付氏と伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たしている。最後に残った日向国に関しては天正4年(1576年)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退する。こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一が達成された。 伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578年)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周,佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟の島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠け、義久は無秩序に攻めてくる大友軍を相手に「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。 天正8年(1580年)、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾した。天正9年(1581年)には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。 耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘,家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年(1582年)、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯,川上忠堅ら1,000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。天正12年(1584年)、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後国の水俣まで出陣した。家久は3,000人を率いて島原湾を渡海し、安徳城に入った。有馬勢と合わせて5,000余りで、龍造寺軍2万5千(一説には6万)という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利した(沖田畷の戦い)。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。 天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子,筑前国の秋月種実らが次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年(1585年)、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(惣無事令)。島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年(1586年)7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長,伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方の筑紫広門の勝尾城を攻めた。島津軍の攻撃を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降り、義久は広門を大善寺に幽閉した。これを見て、筑後の原田信種,星野鎮種,草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊前の城井友綱と長野惟冬の3,000余騎など大名・国衆が参陣した。これにより筑前・筑後で残るは高橋紹運の守る岩屋城,立花宗茂の守る立花城,高橋統増の守る宝満山城のみとなる。7月、島津忠長,伊集院忠棟を大将とした3万余が岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)。しかしこの戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す誤算となった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め、豊後侵攻へ方針を転換した。島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城,岩屋城,宝満山城を、また幽閉先を脱出した筑紫広門に勝尾城を奪還されている。 義久は肥後側から義弘を大将にした3万700余人、日向側から家久を大将にした1万余人に豊後攻略を命じた。しかし、義弘は志賀親次が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取ったため、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。家久は利光宗魚の守る鶴賀城を攻め、利光宗魚が戦死するも抵抗は続いた。 12月、大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親,長宗我部信親,十河存保ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。家久はこれを迎え撃つべく戸次川を挟んで対陣した。合戦は敵味方4,000余が討死した乱戦であったが、家久は釣り野伏せ戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。長宗我部信親,十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり勝利した(戸次川の戦い)。この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏した。大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とした。家久は大友宗麟の守る臼杵城を包囲した。 天正15年(1587年)、豊臣軍の先鋒の豊臣秀長率いる毛利,小早川,宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘,家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘,家久など2万余人が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けたが、継潤が抗戦している間に、藤堂高虎,黒田孝高が合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍は多くの犠牲を出し、本国薩摩国へと撤退・敗走した(根白坂の戦い)。 島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主の島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改めた。その後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。義久は降伏したものの、義弘,歳久,新納忠元,北郷時久らは抗戦を続けていた。高野山の木食応其から和議を促され、義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。 秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子の久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に3女の亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。 天正16年(1588年)、秀吉から義弘に柴の名字と豊臣の本姓が与えられた。また、天正18年(1590年)、義久に羽柴の名字のみ与えられた。豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることになる。 秀吉は朝鮮出兵を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。しかし、島津家は秀吉の決めた軍役を十分に達成することができなかった上、重臣の一人・梅北国兼は名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こした(梅北一揆)。秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。また文禄2年(1593年)、朝鮮で久保が病死したため、久保の弟・忠恒に娘の亀寿を再嫁させて後継者としている。 秀吉政権からは義弘が事実上の島津家当主として扱われていたが、当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移り、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた(両殿体制)。 秀吉の死後、家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、事前に義久の了解を得ていたという説もある。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。
戦後、島津義久は西軍への荷担は実弟の義弘が行ったもので、島津家の当主である自分(義久)はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始した。この講和交渉は、2年に渡って行われた。この交渉では、家康側から義久の上洛が条件として提示されていたが、義久はこれに家臣の鎌田政近や島津忠長,島津忠恒などを代わりに上洛させ、病気や金銭不足、道を修繕中、上洛を準備中などの様々な理由で固辞するなどして、最後まで家康の要求通りに上洛することはなかった。交渉は、義久が所領の安堵を求め、家康が保証するという段階を経たが、書状が家康直々の起請文でないことを義久が追求したため、家康が自身の名で起請文を再度発給し、所領安堵の更なる保証を与える。義久の上洛はついに満たされぬまま、慶長7年(1602年)12月に、義久の名代として島津忠恒を上洛させたことによって、島津領国の安堵が確定した。また、こうした島津の所領安堵は、立花宗茂,黒田如水,加藤清正らが家康に積極的に働きかけ、取り成したことにより、実現したことでもあった。
徳川家康による領土安堵後の慶長7年(1602年)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度、書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この体制は「三殿体制」と呼ばれる。 慶長9年(1604年)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ。慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死した。享年79。辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
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