中国(秦王朝)渡来系

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島津光久 島津綱貴

 元和2年(1616年)6月2日、初代藩主・島津家久の次男として鹿児島に生まれる。寛永元年(1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年)4月1日、将軍・徳川家光から、松平の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、初名の忠元から光久に改名。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだため、実際には島原の乱に参加することはなかった。
 内政では、財政の立て直しのため家老の島津久通に命じて、寛永17年(1640年)に長野(現・鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発のほか、新田開発,洪水対策など産業振興による収入源の確保が基本政策となった。
 また、光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。
 また父の代より始まった飫肥藩との牛の峠境界論争は延宝3年(1675年)に幕府の裁決により、飫肥藩側勝訴・薩摩藩側敗訴の決着の上で両藩の境界が確定、決着している。
 その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年)隠居して孫・綱貴に家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配した。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ、素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている。
 鹿児島県の名勝・仙巌園はこの光久の命によって築かれたものである。また鹿児島の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる。 

 慶安3年(1650年)10月、2代藩主・島津光久の嫡男である島津綱久の子として誕生。初名は延久。寛文7年(1667年)12月25日、父同様、4代将軍・徳川家綱より、「松平」の名字と偏諱を与えられ、綱貴に改名。延宝元年(1673年)、父・綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。貞享4年(1687年)7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。
 家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による寛永寺本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した。
 このように藩政は緊張をはらんだものであったが、諸大名に辛辣な評価をしたことで知られる史料『土芥寇讎記』では数少ない「今の泰平の世における善将」「領民や藩士から慕われる殿様」として紹介されている。
 宝永元年(1704年)9月、芝の江戸藩邸にて死去。享年55。 

島津吉貴 島津継豊

 延宝3年(1675年)9月に島津綱貴の子として鹿児島城で誕生。ただし、父・綱貴が再婚して間もない頃の誕生だったためか後室の鶴姫(吉良義央長女、上杉綱憲養女)や世間を憚り、曾祖父・島津光久の子供達と共に育てられる。
 元禄2年(1689年)、5代将軍・徳川綱吉から、「松平」の名字と偏諱(「吉」の一字)を与えられ、初名の忠竹から吉貴に改名。宝永元年(1704年)、父の死により家督を継ぐ。宝永7年(1710年)、6代将軍・徳川家宣に対して琉球慶賀使を聘礼させた。享保6年(1721年)、病気により痞が酷く、目まいもたびたび起こり、登城すら困難であるとして、長男の継豊に家督を譲って隠居する。後に継豊が8代将軍・徳川吉宗の養女・竹姫と再婚させられそうになったときには反対派の筆頭であったとも言われる。延享4年(1747年)10月、73歳で没した。
 吉貴はそれまであった加治木島津家,垂水島津家に加え自分の息子達に越前家(家祖は4男・忠紀)、今和泉島津家(家祖は7男・忠卿)と言う分家を作らせ、この4分家のみが本家に後継者がいない場合に藩主を出せる家系とした。徳川将軍家の御三家や他藩の「支藩」にも似た体制だが、他藩ではこのような有力分家は「支藩」にするのに対し、薩摩藩では「私領主」の扱いで対外的には家臣と変わらなかったのは大きな特徴である。

 

 元禄14年(1701年)12月、島津吉貴の長男として生まれた。正徳5年(1715年)4月5日、当時7歳の第7代将軍・徳川家継より、「松平」の名字と偏諱(「継」の一字)を与えられ、初名の忠休から継豊に改名した。享保6年(1721年)6月、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぐ。同年12月、左近衛少将に任官する。享保14年(1729年)には従四位下・左近衛中将に叙任した。
 当初、継豊は長州藩主・毛利吉元の娘を正室としていたが、この正室が早世した後に8代将軍・徳川吉宗の斡旋もあって、5代将軍・徳川綱吉の養女・竹姫と再婚した。竹姫は吉宗と恋愛関係があるのではないかという臆測があり、継豊の父・吉貴はじめ薩摩藩では好意的にはとっていなかったという。しかし、吉貴の友人である老中・松平乗邑の斡旋もあって、継豊には既に側室のお嘉久(渋谷氏)との間に嫡男が生まれていることから、竹姫との間に子が生まれても嫡子としないなど様々な条件をつけた上で受け入れたという。
 病気がちであり、強度の疝癪による目まいに悩まされ、享保21年(1736年)に江戸に参勤した後帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなった。
 元文2年(1737年)3月、四弟の忠紀に越前家を再興させた。延享元年(1744年)5月、同じく七弟の忠卿に断絶した支族・和泉家の門跡を継がせて再興させた。この家を「今代の和泉家」という意味で今和泉家という。
 元文3年(1738年)に藩主が嗣子なくして死去したときに藩主を輩出する家格として一門家を新設した。当時、家格一所持だった同母弟の垂水島津家当主・島津貴儔や、次男の加治木島津家当主・島津久門(後の重年)をこの家格とする。
 延享3年(1746年)11月、長男の宗信に家督を譲って隠居したが、その後、藩主となった宗信と次男の重年が継豊に先立って死に、孫(重年の子)である島津重豪(初名は忠洪)が11歳で8代藩主となったため、自身も病弱の身を押し、その後見を行った。
 寛延2年(1749年)に鹿児島に帰国した。宝暦10年(1760年)9月、60歳で死去した。 

島津重年 島津重豪

 島津氏24代当主。薩摩藩7代藩主。初名は久門。享保14年(1729年)2月、島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、同年11月25日に分家筆頭で島津綱久の次男でもある加治木島津家当主・島津久季の養子となった。幼名は善次郎。なお、母の登免(島津久房の娘)は天明年間まで生存していたが、継豊と登免との子は善次郎1人であった。
 享保17年(1732年)に加治木島津家4代当主となり、元文2年(1737年)に元服して、島津兵庫久門と称す。元文3年(1738年)に島津貴儔とともに、家格を一所持から、新設された一門家に改められる。久門は一門家の中では血統上、継豊や宗信に最も近い存在であり、宗信の仮養子になっていた。
 寛延2年(1749年)7月10日、兄の宗信が死去したため、幕府の許可をもらって本家に復帰し、その跡を継いで藩主になった。加治木家は長男の島津久方(のちの島津重豪)が継いだ。同年11月、従四位下、侍従に叙任され、薩摩守を称した。また、9代将軍・徳川家重より偏諱を授かり、久門から重年に改名している。
 寛延3年(1750年)に藩政批判や人物批判をしていた実学派に対して「実学崩れ」という薩摩藩最初の学派弾圧事件が起こり、用人の皆吉続安ら遠島者10人を出す。
 宝暦3年(1753年)に幕命により、木曾三川の治水工事(宝暦治水)を命じられ、家老の平田靱負を総責任者とし多数の藩士が工事に従事したが、莫大な費用と殉職者80数名を出した。平田も完成を見届け、宝暦5年(1755年)に責めを負い切腹、翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳で兄と同様に父に先立ち没した。
 この前の宝暦4年(1754年)8月に長男・久方が(島津宗家としての)父の跡を継ぐため本家に入り忠洪と改名し、重年の死後10歳で藩主に就任したが、元服時に同じく将軍家重より偏諱を授かって重豪と改名した。

 延享2年(1745年)11月、分家の加治木島津家当主・島津久門(後の重年)の長男として生まれた。幼名は善次郎。母の都美は善次郎を出産したその日のうちに19歳で死去する。父が本家に復して薩摩藩主になると、加治木島津家を継ぎ、宝暦3年(1753年)12月、諱を久方とする。父の病弱に加え、翌年2月2日に父の継室・於村が死去し宗家で嗣子誕生が望めなくなったため、同8月に重年の嗣子として本家に迎えられ、忠洪に改名。宝暦5年(1755年)6月、父・重年が死去したため、11歳で家督を継いだ。加治木島津家はこの後、知覧島津家(佐多氏嫡家)の島津久徴が名跡継承するまでの19年間、当主不在となる。
 宝暦8年(1758年)6月、元服し父と同じく9代将軍・徳川家重の偏諱を賜って重豪に改名、従四位下・左近衛権少将兼薩摩守に叙任される。年少のために祖父の島津継豊が藩政を担った。宝暦10年(1760年)に継豊が死去すると、継豊の弟で重豪の外祖父にあたる島津貴儔に3年間藩政の実権が委ねられた後、重豪が親政を開始し藩政改革に取り組んだ。重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。
 明和元年(1764年)11月、従四位上・左近衛権中将に叙任される。安永元年(1771年)には藩校・造士館を設立し、儒学者の山本正誼を教授とした。また、武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めた。安永2年(1773年)には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。同年、造士館,演武館以外の場における武術教授や、下級武士による郷中における集団的活動(兵児二才制度における行事など)は禁止された。医療技術の養成にも尽力し、安永3年(1774年)に医学院を設立する。そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えている。安永9年(1780年)、外城衆中を郷士に改め、より近世的な支配秩序の形成を図った。
 天明7年(1787年)1月、家督を長男の斉宣に譲って隠居し、上総介に遷任されたが、なおも実権は握り続けた。
 文化6年(1809年)、斉宣が樺山主税,秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行おうとしたが、華美な生活を好む重豪はその政策に反対して斉宣を隠居させ、樺山らには死を命じた(近思録崩れ)。そして重豪は孫の斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握った。しかし晩年に下級武士出身の調所広郷を重用し、薩摩藩の天保改革に取り組んだ。調所の財政再建は斉興の親政時に成果を見ている。さらに、新田開発も行なっている。
 精力的な重豪は、曾孫の斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど可愛がった。斉彬の才能を高く評価した重豪は、斉彬と共に蘭館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたと言われている重豪と会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。
 天保3年(1832年)夏から病に倒れ、天保4年(1833年)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた。
 10代で死去した母や20代で死去した父とは対照的に重豪は非常に頑健な人物であった。80歳を越えても鹿児島から江戸,長崎と各地を東奔西走し、当時の侍医は「80歳だが、なおも壮健。書を書くとき、読むときも眼鏡を必要とせず」とまで記している。
 また恐るべき酒豪であり、酒の相手をするのも一苦労であるため、諸家では重豪がやってくるのを嫌ったとされる。この重豪を唯一飲み負かすことができたのが牧野千佐であり、彼女は後に重豪の側室となって13男の黒田長溥を生んでいる。重豪69歳の時の話である。

島津寧姫 島津斉宣

 安永2年(1773年)6月18日に鹿児島城で誕生した。最初の名は篤姫・於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、安永5年(1776年)、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。
 10代将軍・徳川家治の嫡男・家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉,吉宗の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。
 茂姫は天明元年(1781年)10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の天明7年(1787年)11月15日に島津家と縁続きであった近衛家および近衛経熙の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子」として結婚することとなった。寛政元年(1789年)2月4日、婚姻、御台所となる。
 重豪の正室・保姫は家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった。

 

 安永2年(1774年)12月6日、8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。母は中納言・堤代長の娘である春光院。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで9代藩主となった。同時に11代将軍・徳川家斉(正室が姉の広大院であり義兄にあたる)より偏諱を賜り、初名の忠堯から斉宣に改名する)。しかし実権は父・重豪に掌握されていた。
 文化2年(1805年)12月には『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。これにより文化6年(1809年)6月、斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。
 天保12年(1841年)10月、江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。
 国学で有名な高山彦九郎と親交があった。江戸に重豪,斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国できなかった。却下理由については「御台所茂姫の命により、再び斉宣によって国元で近思録崩れのような騒動を起こさせないため」と明言した文書が残っており、姉・茂姫との仲は険悪だったようである。
 父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高に相談し、国元にいる時には島津忠厚に相談するように」(奥平昌高と島津忠厚は斉宣の弟であり、斉興の叔父にあたる)とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である。しかし、重豪が死ぬ直前には、在所の白金屋敷から重豪のいた高輪屋敷に移って看病しており、表面的には和解していたようである。今上天皇は斉宣の仍孫に当たる。 

島津斉興 島津斉彬

 寛政3年(1791年)11月6日、9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。生母の実家・鈴木家は浪人であったため、斉興の出生後に島津家と鈴木家との間で諍いが起きている。
 文化元年(1804年)10月に元服、11代将軍・徳川家斉より偏諱を賜って、初名の忠温から斉興に改名。従四位下・侍従兼豊後守に叙任。
 文化6年(1809年)6月、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって強制隠居させられたため、家督を継いで10代藩主となった。しかし藩主になったとはいえ、藩政改革などの実権は重豪に握られていた。
 天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした薩摩藩の天保改革に取り組んだ。藩政改革では調所主導の元、借金の250年分割支払いや清との密貿易,砂糖の専売,偽金作りなどが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復した。しかし嘉永元年(1848年)、幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。また対外危機の高まりに際しては、洋式砲術の採用を決め、藩士を長崎に派遣して学ばせたり、鋳製方を設置して大砲の製造などにも着手した。
 この頃になると、斉興の跡継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児に正室・弥姫(周子)(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には5男・久光がいた(次男・斉敏は備前池田家を継いでいた)。本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動(お由羅騒動)が勃発した。これは、斉彬の擁立を望む山田清安,高崎五郎右衛門,近藤隆左衛門ら50余名が対立する久光とその生母・お由羅の暗殺計画を謀ったものであるが、事前に計画が露見して自害させられた事件である。その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えなかったが、嘉永4年(1851年)2月、老中・阿部正弘の調停により、斉興は隠居し斉彬が家督を継ぐこととなったのである。
 安政5年(1858年)7月16日、斉彬が先立って50歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主を継いだ久光の長男・茂久が若年であることを理由に、再び藩政を掌握。斉彬が計画していた率兵上洛は取りやめ、安政の大獄で京都から薩摩へ逃れてきた月照の保護を拒んだものの、西郷隆盛の身柄については奄美大島に隠し、幕府には西郷の死を偽装した。また集成館事業の縮小を命じるなど復古的な政策を行ったが、安政6年(1859年)9月12日に病死。享年69(満67歳没)。
 斉興時代に行なわれた改革で薩摩藩は経済発展を果たし、幕末期の財産となったといえる。斉彬を嫌ったのは、正室の弥姫(周子)と仲が悪かったためとも言われている。反対に、弥姫との仲はよかったとも言われている。斉興は周子との間に4男1女を儲けており、うち3人目の諸之助は久光と同じ年の生まれである。文政2年(1819年)に諸之助は死去するが同年に4男の珍之助を生む。翌年珍之助は死去する。実は周子にはお由羅を含む側室たちよりも多くの子を産ませているが、これは薩摩藩では異例なことであった。
 斉興がなかなか隠居しなかったのは従三位への官位昇進を狙っていたためという。このため、隠居しても官位昇進が可能だと知るとあっさり隠居したという。隠居後も斉彬を後見すること宣言しており、これをやめさせるのに半年かかったという。
 薩摩切子の名で知られる薩摩藩のガラス製造は、斉興が製薬館を設置した際に、江戸からガラス職人を招いて薬瓶を製造させたことから始まった。
 斉興はもともと島津家に関して独自の歴史観を持っていた。瓊瓊杵尊から三種の神器とともに代々伝えられてきた歴代天皇の秘法が存在していたが、清和天皇が我が子・経基王が臣籍降下する際にこの秘法を授けて経基が「虎ノ巻」と呼び、「虎巻秘法」の名で代々嫡流に伝えられたとする。経基の子孫にあたる源頼朝が「虎巻秘法」を島津忠久に授け島津家歴代当主によって守られてきたが、島津光久の時代に江戸幕府にそのことを追及されたため「虎巻秘法」は失われたと偽って秘かに「直看秘法」と改めて歴代当主のみが知る「最極甚深秘事」とした。すなわち、斉興は「瓊瓊杵尊以来の歴代天皇の秘法が清和源氏の嫡流である島津家当主によって今日まで継承されている」という主張していたことになる。「直看秘法(虎巻秘法)」の実際の由来など不明な部分もあるが、少なくても斉興はこれを史実として信じて、その実践が島津家歴代当主の勤めと信じていた。
 『直看経作法伝書』は斉興が存在を主張する「直看秘法(虎巻秘法)」に関する集大成であり、その中にある『虎巻根本諸作法最口伝規則』という斉興自筆の文書には文政10年(1827年)に硫黄島で八咫鏡が発見され、斉興がこれを入手した時の感慨が記されている。斉興は当時京都御所にある八咫鏡は本物ではなく、本物は安徳天皇によって硫黄島に持ち出され、「直看秘法」の実践者である自分が得ることになったと確信し、上山城(現在の城山)に宮を造営して安置したという。安徳天皇の末裔を名乗っていた硫黄島の長浜家(いわゆる「長浜天皇」)には島津家によって中身を持ち出されたとする「開かずの箱」事件が伝えられており、この2つの出来事は対応しているとみられている。なお、斉興が入手して本物であると主張した八咫鏡とそれを収めた宮の所在は現在では不明となっている。

 島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・徳川家定の御台所。
 薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。西郷隆盛ら人材も育てた。
 文化6年3月14日(1809年4月28日)、10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれる。母・弥姫(周子)は「賢夫人」として知られた人物で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。また、青年期まで存命であった曾祖父の8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖と映ったことが、皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。
 斉彬が次の藩主となれば、重豪のように公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと、特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らなかった。また家老・調所広郷や斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟に当たる島津久光の擁立を画策した。斉彬派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。斉彬派の葛城彦一などの4人が必死で脱藩し、斉興の叔父にあたる福岡藩主・黒田斉溥に援助を求めた。斉溥の仲介で、斉彬と近しい老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努めた。こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が11代藩主に就任した(お由羅騒動)。
 藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船,反射炉・溶鉱炉の建設,地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永4年7月(新暦:1851年8月頃)には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。
 斉彬は松平慶永,伊達宗城,山内豊信,徳川斉昭,徳川慶恕らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。阿部の内諾を受け、薩摩藩の支配下にある琉球王国を介したフランスとの交易を画策し、市来四郎を派遣したが、後の斉彬の急死で頓挫している。
 阿部の死後、安政5年(1858年)に大老に就いた彦根藩主・井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、慶永,宗城ほか四賢侯、斉昭らと共に次期将軍として斉昭の子の徳川慶喜を推した。斉彬は、篤姫を家定の正室として嫁がせ、さらに公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を朝廷に請願した。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは敗れた。
 斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、その年(安政5年)の7月8日(1858年8月16日)、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日(新暦:8月24日)に死去した。享年50(満49歳没)。死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。
 墓所は鹿児島県鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡。斉彬の死後、その遺言により、久光の長男・茂久が後を継いだ。なお、遺言では茂久に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子とし、6男・哲丸を後継者に指名しており、哲丸と茂久との相続争いを未然に防止する内容になっていたが、哲丸は安政6年(1859年)に3歳で夭折した。

島津忠義 島津晴姫

 幼名は壮之助。元服後の初名は忠徳だったが、藩主在任中は茂久を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。第125代・天皇明仁(上皇)の曾祖父、第126代・天皇徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。
 天保10年4月21日(1840年5月22日)、島津家分家の重富家当主・島津忠教(久光)の長男として生まれる。伯父である11代藩主・斉彬の養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして安政6年(1859年)1月2日に哲丸は死去した。しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父・久光(忠教)や西郷隆盛,大久保利通らに掌握され、忠徳自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった(ただし、忠徳が実権を取り戻そうとしなかったことが薩摩藩が一致して倒幕運動を行うのに寄与した面もある)。
 安政5年(1858年)12月28日に襲封し、修理大夫に任じられる。また、14代将軍・徳川家茂から偏諱(「茂」の字)を授かって茂久と改名した。安政6年(1859年)2月、従四位下・左近衛少将に叙任される。
 15代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷,大久保,小松帯刀らの進言を容れ、藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表において厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍務総督に任命されるが、西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は毛利敬親(長州藩主),山内豊範(土佐藩主),鍋島直大(肥前藩主)と協力して版籍奉還を進んで行う。その後、諱を「忠義」と改め鹿児島藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。明治4年(1871年)の廃藩置県後は公爵となった。同年5月17日には麝香間祗候に任じられた。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。
 明治17年(1884年)に鹿児島県令・渡辺千秋に「造士館再建の願」を提出する。同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足(委員長は弟の島津珍彦だが、自身は委員に名を連ねていない)、自らは基金4万4621円と年々9400円ずつの定額寄金を県庁に委託、同年12月に鹿児島県立中学造士館が設立された。
 明治21年(1888年)に政府の許可を受け鹿児島に帰郷した。明治23年(1890年)2月、帝国議会開設に伴い貴族院公爵議員となる。
 明治30年(1897年)12月26日、鹿児島市にて58歳で薨去。国葬が執り行われることとなり、葬儀掛長には枢密顧問官の川村純義伯爵が任命された。没後、勲一等旭日桐花大綬章を授与された。翌年1月9日に国葬が行われた。勅使として侍従・東園基愛子爵が派遣され、明治天皇の勅語を伝達した。
 墓所は、先代・斉彬までの当主や父・久光は菩提寺だった旧福昌寺跡だが、忠義以降は寺跡の西側の裏山「常安峰」にあり、双方とも尚古集成館(島津興業)が管理している。
 照国神社探勝園には忠義の銅像が建っている。第二次世界大戦中に金属供出されたが戦後再建された。 

 薩摩藩主島津斉宣の12女として江戸高輪の島津邸で生まれる。母親は島津久尹の養女某。天保8年(1837年)に兄である島津斉興の養女になり、18歳で久留米藩の世子だった頼永に嫁いだ。藩主となった頼永は藩政改革の手始めとして、同年に江戸の3藩邸に大検令を発布した。それに伴い晴姫は着用していた絹服から綿服をまとい、金銀の装身具をやめて真鍮や竹木製のものを身に付けるなど、質素倹約の範を垂れた。
 頼永は弘化2年(1845年)に晴姫を江戸に残し、藩主として初めて入封して藩政改革に尽くすが、再び晴姫と会うことはなく、翌弘化3年7月3日(1846年1846年8月24日)に26歳で死去した。頼永の訃報に接した晴姫は、晴雲院と号して法華経を一字一石に写し、さらに仏像数体を彫刻して、これらの全てを江戸祥雲寺の頼永の遺髪塔側に埋め、ひたすら冥福を祈った。晴姫は頼永が亡くなって18年後の文久3年(1863年)2月に、44歳で初めて久留米に入った。それから9年間、市の上別邸で暮らし、梅林寺の頼永の墓前で心ゆくまで冥福を祈るのを喜びとした。
 その後、東京の赤羽邸、1871年(明治4年)に赤坂牛鳴坂(弾正屋敷)、1872年(明治5年)に日本橋蛎殻町、1876年(明治9年)に浅草区橋場町と本邸の移転に伴い転居を重ねた。
 和歌,琴,茶道,生花,押絵,絵画など諸芸に秀で、絵画は特に花卉類を得意として描いた。 また和歌は本所区林町に住む鶴久子に学んで、詠草が秀逸なものが120余首あり、晴姫没後の1904年(明治37年)10月に御歌所寄人の小出粲が歌を撰んだ「雲のゆくへ」と題した冊子が同年11月30日に有馬家にて発行された。 久留米に初めて入るとき、和歌を交えた旅日記の紀行文を書いている。
 1897年(明治30年)10月頃より病気を患い、初めは浅田宗伯、次に高松凌雲が拝診したが、1903年(明治36年)12月7日に没した。享年84。墓は祥雲寺にある。夫の頼永の隣に葬られた。