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島津光久 | 島津綱貴 |
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元和2年(1616年)6月2日、初代藩主・島津家久の次男として鹿児島に生まれる。寛永元年(1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年)4月1日、将軍・徳川家光から、松平の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、初名の忠元から光久に改名。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだため、実際には島原の乱に参加することはなかった。 |
慶安3年(1650年)10月、2代藩主・島津光久の嫡男である島津綱久の子として誕生。初名は延久。寛文7年(1667年)12月25日、父同様、4代将軍・徳川家綱より、「松平」の名字と偏諱を与えられ、綱貴に改名。延宝元年(1673年)、父・綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。貞享4年(1687年)7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。 |
島津吉貴 | 島津継豊 |
延宝3年(1675年)9月に島津綱貴の子として鹿児島城で誕生。ただし、父・綱貴が再婚して間もない頃の誕生だったためか後室の鶴姫(吉良義央長女、上杉綱憲養女)や世間を憚り、曾祖父・島津光久の子供達と共に育てられる。
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元禄14年(1701年)12月、島津吉貴の長男として生まれた。正徳5年(1715年)4月5日、当時7歳の第7代将軍・徳川家継より、「松平」の名字と偏諱(「継」の一字)を与えられ、初名の忠休から継豊に改名した。享保6年(1721年)6月、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぐ。同年12月、左近衛少将に任官する。享保14年(1729年)には従四位下・左近衛中将に叙任した。 |
島津重年 | 島津重豪 |
島津氏24代当主。薩摩藩7代藩主。初名は久門。享保14年(1729年)2月、島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、同年11月25日に分家筆頭で島津綱久の次男でもある加治木島津家当主・島津久季の養子となった。幼名は善次郎。なお、母の登免(島津久房の娘)は天明年間まで生存していたが、継豊と登免との子は善次郎1人であった。 |
延享2年(1745年)11月、分家の加治木島津家当主・島津久門(後の重年)の長男として生まれた。幼名は善次郎。母の都美は善次郎を出産したその日のうちに19歳で死去する。父が本家に復して薩摩藩主になると、加治木島津家を継ぎ、宝暦3年(1753年)12月、諱を久方とする。父の病弱に加え、翌年2月2日に父の継室・於村が死去し宗家で嗣子誕生が望めなくなったため、同8月に重年の嗣子として本家に迎えられ、忠洪に改名。宝暦5年(1755年)6月、父・重年が死去したため、11歳で家督を継いだ。加治木島津家はこの後、知覧島津家(佐多氏嫡家)の島津久徴が名跡継承するまでの19年間、当主不在となる。 |
島津寧姫 | 島津斉宣 |
安永2年(1773年)6月18日に鹿児島城で誕生した。最初の名は篤姫・於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、安永5年(1776年)、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。
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安永2年(1774年)12月6日、8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。母は中納言・堤代長の娘である春光院。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで9代藩主となった。同時に11代将軍・徳川家斉(正室が姉の広大院であり義兄にあたる)より偏諱を賜り、初名の忠堯から斉宣に改名する)。しかし実権は父・重豪に掌握されていた。 |
島津斉興 | 島津斉彬 |
寛政3年(1791年)11月6日、9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。生母の実家・鈴木家は浪人であったため、斉興の出生後に島津家と鈴木家との間で諍いが起きている。 |
島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・徳川家定の御台所。 |
島津忠義 | 島津晴姫 |
幼名は壮之助。元服後の初名は忠徳だったが、藩主在任中は茂久を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。第125代・天皇明仁(上皇)の曾祖父、第126代・天皇徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。 |
薩摩藩主島津斉宣の12女として江戸高輪の島津邸で生まれる。母親は島津久尹の養女某。天保8年(1837年)に兄である島津斉興の養女になり、18歳で久留米藩の世子だった頼永に嫁いだ。藩主となった頼永は藩政改革の手始めとして、同年に江戸の3藩邸に大検令を発布した。それに伴い晴姫は着用していた絹服から綿服をまとい、金銀の装身具をやめて真鍮や竹木製のものを身に付けるなど、質素倹約の範を垂れた。 |