SM05:島津光久 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津立久 ― 島津光久 ― 島津忠紀 | SM06:島津忠紀 | ● |
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島津忠紀 | 島津忠救 |
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享保19年(1734年)9月3日、薩摩藩主島津吉貴の4男として父の隠居所の磯御殿で生まれ、9日に末川壮之助と名づけられる。母は郷田兼近の娘お幾。生後まもなく兄で藩主の島津継豊生母であるお須磨(名越恒渡の妹)の養子となる。 |
明和元年(1764年)9月19日、薩摩藩主一門の重富島津忠紀の長男として生まれる。母は樺山久初の娘お三。明和3年(1766年)6月、忠紀の死去により3歳で家督を相続する。安永2年(1773年)、藩主・島津重豪より鶴江崎下屋敷(別荘)を拝領する。天明元年(1781年)、垂水島津貴澄の娘・お道と結婚する。寛政11年(1799年)、下屋敷に藩主・島津斉宣が御成(訪問)し、「領海亭」と名づける。 |
島津忠貫 | 島津忠公 |
天明6年(1786年)11月8日、薩摩藩主一門の島津忠救の長男として生まれる。母は島津貴澄の娘お道。享和元年(1801年)11月28日、忠救の隠居により家督を相続する。 |
寛政11年(1799年)3月29日、薩摩藩主・島津斉宣の3男として江戸藩邸で生まれる。幼名は寛二郎。母は旗本・中根正房の娘・お蘭。寛政12年(1800年)、斉宣継室の丹羽氏が母親とされる。 |
島津千百子 | 島津久光 |
最後の薩摩藩主・島津忠義の生母。別名・お千百(おちも)。父は重富島津家4代当主・島津忠公。母は今和泉家島津忠厚の娘。忠教の従妹に当たる。また、香淳皇后の曾祖母、明仁上皇の高祖母にあたる。
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島津家第27代当主・島津斉興の5男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。香淳皇后の曾祖父、第125代天皇明仁の高祖父にあたる。 |
島津珍彦 | 島津富子 |
島津久光の4男として薩摩国に生まれる。母は正室の千百子。最後の薩摩藩主・島津茂久(忠義)の同母弟にあたる。諱は紀寛→忠鑑→珍彦、通称は敬四郎→又次郎→周防→常陸→備後と変遷した。名の珍彦は記紀神話に登場する神・椎根津彦の別名である。 |
宇和島藩最後の藩主だった伊達宗徳(のちに侯爵)の次女。後に旧薩摩藩国父の島津久光の養女となる。1886年(明治19年)7月10日に北白川宮能久親王と結婚。能久親王の信頼も厚く、日清戦争が始まった1894年(明治27年)には明治天皇のご機嫌伺いに広島の大本営へ遣わされた。翌1895年(明治28年)10月28日、台湾に出征(乙未戦争)した能久親王が台南で病没、富子妃は満33歳で未亡人となる。1901年(明治34年)10月を訪れ、台湾神社鎮座式に参列し、11月4日には台南の北白川宮御遺跡所(のちの台南神社)にも参拝している。 |