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島津家久 | 島津豊久 |
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若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。永禄4年(1561年)7月、大隅国の肝付氏との廻坂の合戦で初陣し、まだ15歳ながら敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにて討ち取った。 |
幼名は豊寿丸で、初めは島津忠豊と名乗っていた。天正12年3月(1584年4月)の沖田畷の戦いに初陣。まだ元服していなかったが、新納忠元の後見のもと、敵の首級一つを討ち取った。この戦いの直前の早朝、父・家久は、13歳の豊久に「あっぱれな武者ぶり、ただ上帯の結び方はこうするのだ」と結び直して脇差でその帯端を切り、「よく聞け。もし戦に勝って討死しなければ、この上帯は儂が解こう。だが今日の戦で屍を戦場に晒すときは、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、儂もその死を喜ぼう」と言ったという。沖田畷において家久・豊久父子は奮戦し、勝利して無事に帰還した後、家久は豊久の帯を解いたといわれる。 |
島津忠栄 | 島津忠仍 |
喜入忠続の嫡男として誕生した。しかし、関ヶ原の戦いにて島津豊久が嗣子の無いまま討ち死にし、慶長9年(1604年)にその跡目を継ぐように命じられた豊久・実弟の忠仍も病身を理由に相続を辞退したことから、忠栄が忠仍の娘婿、同時に島津豊久の養子扱いとして永吉島津家を相続することとなった。 |
薩摩国島津氏庶流。始め東郷氏、のちに島津氏に復姓した。島津貴久の4男・家久の次男として誕生したが、天正5年(1577年)2月3日に東郷重尚の養子となり東郷重虎と称した。 |