中国(秦王朝)渡来系

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島津家久 島津豊久

 若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。永禄4年(1561年)7月、大隅国の肝付氏との廻坂の合戦で初陣し、まだ15歳ながら敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにて討ち取った。
 永禄12年(1569年)、大口城に籠る菱刈氏および相良氏からの援兵に対し家久は5月8日、戸神ケ尾と稲荷山にそれぞれ大野忠宗,宮原景種に率いらせた伏兵を潜ませ、自らは雨の降る中を荷駄隊を装った300を率いて大口城の麓の道を通行、誘い出されてきた大口城兵を伏兵の元へ誘い込んで首級136を討ち取った。
 天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。家久は、この上洛の旅の日々の様子を『中書家久公御上京日記』に詳細に書き留めている。家久は途中、現在の伊賀市上神戸の和歌山周辺を通り、阿保村で一泊している。4月、家久は連歌師・里村紹巴の弟子・心前の家に宿泊した。京では紹巴を介して公家衆や堺の商人たちと交流した。また心前の案内で大坂本願寺攻めから引き揚げてきた17ヶ国、数万騎にも及ぶ織田信長の大軍勢を見物した。信長は馬上で居眠りしていたという。5月には明智光秀の案内により近江国坂本城を見学し、籠城への備えの万全さに感銘を受けた。その後大和国多聞山城も見学し、楊貴妃の間や城からの大和の素晴らしい景観を楽しみ、その後城番の山岡景佐から山桃をすすめられ、酒を振舞われた。
 耳川の戦いで豊後国の大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭し、九州の覇権は島津氏,龍造寺氏の二者で争われるようになった。両者の戦いは、筑後・肥後方面では龍造寺軍が島津軍をしばしば圧倒していたが、肥前西部では、龍造寺氏からの離反を謀る有馬晴信が島津氏に援軍を要請するなど、島津氏に有利な状況も生まれていた。天正12年(1584年)3月、島津軍は肥前有馬氏を救援し龍造寺軍を迎え撃つべく、家久を総大将として島原に向かうことになった。島津軍は有馬晴信の軍と合わせても5千から8千であったのに対して、龍造寺軍は1万8千から6万(史書により諸説あり)という大軍である。しかし家久は、龍造寺軍を沖田畷と呼ばれる狭隘の湿地帯に誘い込み、釣り野伏せと呼ばれる島津得意の戦法で弓鉄砲を効果的に使用して混乱させ、総大将の龍造寺隆信をはじめ、一門,重臣を含む龍造寺勢を討ち取った(沖田畷の戦い)。この勝利によって、九州において島津氏に単独で対抗できる大名はいなくなった。この際、初めて知行地4千石を与えられ、部屋住みの身分を脱したとされている。九州佐土原城代になり、日向国方面の差配を任された。
 その後、主戦場は再び筑後国へ移り、肥後国にあった島津勢は北進を狙ったが、隆信の義弟である鍋島直茂らが徹底抗戦の意志を示した(島津が送った隆信の首を突き返した)ため、一旦は諦めて引き上げた。しかし、さらに島津氏の力が増大するに到り、龍造寺氏は自らの勢力圏の温存を図るべく降伏に近い形で島津氏と和議を結んだ。一方で、鍋島直茂は豊臣秀吉と密かに連絡を取っており、天正15年(1587年)には龍造寺・鍋島軍は島津征伐軍の先鋒を務めることとなる。
 九州制覇を目指す島津氏は、豊後国の大友氏を攻めようとしていたが、上洛して秀吉に謁見していた大友氏の援軍として天正14年(1586年)、仙石秀久を大将に長宗我部元親・信親父子,十河存保など、総勢6千余りの豊臣連合軍の先発隊が九州平定のために上陸した。家久はこれを迎え撃ち、敵味方4千余りが討死する乱戦となったが、長宗我部信親,十河存保らは討死し、豊臣連合軍は総崩れとなって島津軍が勝利を収めた(戸次川の戦い)。
 その後、上方での封土を条件に、島津義久・義弘が降伏する前に4兄弟の中では最も早く豊臣秀長軍と単独講和したが、天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死する。病死説や豊臣あるいは大友,伊東氏残党、乃至は島津本家による毒殺、栂牟礼城攻略中に負った傷が悪化したなど、様々な説があるが定かではない。ただ、秀長の側近である福地長通が義弘に宛てた書状に家久が病気であることが記されていることから、一般には病死したものとされている。享年41。
 家久は3人の兄と違って正室ではなく側室との間に生まれた子であり、またその母は高貴な身分ではなかった。兄弟4人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追を行った時のこと。馬追が終わり、当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久と義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と言った。義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。それからというもの家久は、昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、片時も無為に日々を過ごすことはなく、数年のうちに文武の芸は大いに優れ、知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟の能力の優劣もなくなった。

 幼名は豊寿丸で、初めは島津忠豊と名乗っていた。天正12年3月(1584年4月)の沖田畷の戦いに初陣。まだ元服していなかったが、新納忠元の後見のもと、敵の首級一つを討ち取った。この戦いの直前の早朝、父・家久は、13歳の豊久に「あっぱれな武者ぶり、ただ上帯の結び方はこうするのだ」と結び直して脇差でその帯端を切り、「よく聞け。もし戦に勝って討死しなければ、この上帯は儂が解こう。だが今日の戦で屍を戦場に晒すときは、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、儂もその死を喜ぼう」と言ったという。沖田畷において家久・豊久父子は奮戦し、勝利して無事に帰還した後、家久は豊久の帯を解いたといわれる。
 天正15年6月5日(1587年7月10日)、父・家久が死去し、天正16年(1588年)、その跡を継いで日向国都於郡,佐土原等979町の朱印状・所領目録を拝領して、日向佐土原城の城主となった。この年、島津氏は豊臣秀吉に降伏し、家久は豊臣氏の陣中に赴いて帰った後に急死したため、暗殺や毒殺ともいわれるが、あらぬ疑いを避けるためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう島津義弘に命じたといわれる。また、父の死後は伯父の義弘が実子同様に養育し、豊久は義弘に戦の心を学んだといわれ、そのために義弘に恩義を感じていたという説がある。
 その後、豊臣氏による天正18年4月(1590年5月)の小田原征伐に従軍。文禄元年(1592年)、朝鮮へ出兵した文禄・慶長の役に従軍。3月に、騎兵30余騎,雑兵500余人を率いて釜山に着船し都門に侵攻するが、朝鮮王李昭は義州に出奔していた。同年5月上旬、江原道の春川城へ在城していた際、押し寄せた敵兵6万余騎に対し500人あまりで籠城し、100余艇の鉄砲を放ち、敵が浮足立った際、城門から500余人で撃退に成功したとされる。同年5月20日、晋州攻略を命じられ、手勢476人を率いて出陣。文禄2年(1593年)6月29日、諸将とともに晋州城を攻略。このとき、豊久の馬験が入場一番乗りを果たす。慶長2年(1597年)2月21日、諸将、加徳島に在番中、再度の出撃を命じられ、豊久は手勢800人で3番目。安骨浦に在陣。同年7月15日、漆川梁海戦に参戦。朝鮮水軍で3番目の大船に漕ぎつけた豊久は、「豊久跳んで敵船に移り,敵を斬ること麻の如し」と記録されるほど活躍をみせ、家臣とともに競いながら敵から奪取した船は、のちに豊臣政権に献上して感状を貰っている。同年8月15日、南原城の戦いに参戦して先駆けし、敵首13を討ち取り、翌日、敵首の鼻を添えて日本に注進。同年9月20日、泗川に帰陣して、泗川新城を普請。同年12月、蔚山城の戦いに後詰めとして出陣。慶長3年(1598年)1月、明の兵が守る彦陽城を攻撃する際、単騎にて先駆けを行い、敵首2級を討ち取るが、左耳下に傷を負う。同年8月、秋月種長,高橋元種,相良頼房とともに帰国を命じられ、同年11月21日、船20艘にて釜山前の椎木島に滞在し、義弘父子を救出して、その2日後に帰国。文禄元年から6年間の朝鮮滞在となった。慶長4年(1599年)2月、朝鮮国での功績により、中務大輔ならびに侍従となった。
 慶長4年(1599年)3月29日、徳川家康から領国に戻り島津義久と相談するよう命じられ、佐土原に到着。同年6月上旬、島津忠恒の出陣により庄内の乱に出陣。新納忠元,村尾重侯らと山田城攻めの大将となり、これを攻め落とし、慶長5年(1600年)3月15日、伊集院忠真の降伏により庄内の乱は終結。この功績により、島津忠恒より感状と太刀一腰を賜った。乱の終結後、島津義久は豊久の軍功に対し野々美谷を与えるとしたが、豊久はこれを辞退している。
 慶長5年(1600年)8月1日、義弘とともに西軍に属し、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いに参加。伏見城落城後の同年8月15日、伏見から石田三成の居城・佐和山に赴き、美濃に出陣。東軍が岐阜城を攻撃するとの情報により、石田三成は豊久に江渡ノ渡の防御を依頼。同年8月23日、岐阜城を陥落するが、敵が後ろを遮ろうとしているとの情報を耳にし、大垣城外楽田に撤退する。慶長5年(1600年)9月14日、義弘は豊久を石田三成本陣に派遣する。その夜、関ヶ原に陣替えし、9月15日の夜明け前に、雨天で濃霧のなか、石田陣から1町ほど隔てて布陣。それから1町ほど隔てた地に義弘も布陣している。豊久の備えには長寿院盛淳が来て、馬上で暇乞いをしたが、「今日は味方弱候得は、今日の鑓は突けましきぞ」と豊久は答え、互いに笑って別れている。石田三成の家臣である八十島助左衛門が使者として助勢を要請に来た際は、下馬せず馬上から申し出たことに家臣たちは「尾籠」だと悪口を言い、使者の態度に激怒した豊久も「今日の儀は面々手柄次第に可相働候、御方も共通に御心得候得」と怒鳴り返して追い返したと伝えられている。
 乱戦の最中、義弘を一度見失った豊久は、涙を流しながら義弘はどうしているかと心配し、義弘とその後合流できたと伝えられている。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立するかたちとなり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父・義弘が生きて帰ることが必要だと感じ、「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」、「天運はすでに窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣をかすめるように伊勢街道方面へ撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃が激しく島津隊は多数の犠牲を出した。井伊直政勢が迫り、鉄砲を一度放って、あとは乱戦。豊久は義弘の身代わり(捨て奸)となって、付き従う中村源助,上原貞右衛門,冨山庄太夫ら13騎と大軍の中へ駆け入って討死した。薩藩旧記雑録には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。島津豊久、大量に出血」という内容が記されている。一説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を9km近く追いかけ、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで死亡し、荼毘に付されて近くの瑠璃光寺に埋葬されたという伝承があり、同寺には墓が現存している。また、かなり早い段階で豊久の馬が、鞍に血溜まりがあり主を失った状態で見つかったとも伝えられている。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還することができたのであった。
 ただし、島津方では豊久討ち死にの確証を得ていなかったらしく、島津義弘は押川公近へ三虚空蔵参りと称させて豊久の安否を探らせ、公近は諸国を3ヶ年遍歴している。ちなみに、岐阜市歴史博物館蔵の『関ヶ原合戦図屏風』には馬上で采配をふる豊久の姿が描かれている。
 戦後、領地の佐土原は無嗣断絶の扱いでいったん徳川家に接収され山口直友の与力・庄田安信を在番させている、のちに一族の島津以久が入った。豊久には子供がなく、家は姪の婿である喜入忠栄が相続した。しかしその系統も寛永元年(1624年)に断絶。のちに18代当主・島津家久(忠恒)の子・久雄が継嗣に入り、永吉島津家として残る。また慶長7年(1602年)生まれの甥の島津久敏がおり、久敏の父で豊久の義弟にあたる島津久信が以久死後の佐土原藩主相続を辞退している。
 豊久の鎧は永吉島津家当主・島津久芳が安永6年(1777年)に入手し、永吉島津氏の菩提寺・天昌寺に納められたとされており、現在は尚古集成館に保管され、日置市中央公民館にはその写しが展示されている。

島津忠栄 島津忠仍

 喜入忠続の嫡男として誕生した。しかし、関ヶ原の戦いにて島津豊久が嗣子の無いまま討ち死にし、慶長9年(1604年)にその跡目を継ぐように命じられた豊久・実弟の忠仍も病身を理由に相続を辞退したことから、忠栄が忠仍の娘婿、同時に島津豊久の養子扱いとして永吉島津家を相続することとなった。
 寛永元年(1624年)に早世した。享年28。跡目は当主・家久の9男である久雄が養子として継いだ。また、忠栄の妻も忠栄の死から9日後の2月26日に早世している(享年28)。 

 薩摩国島津氏庶流。始め東郷氏、のちに島津氏に復姓した。島津貴久の4男・家久の次男として誕生したが、天正5年(1577年)2月3日に東郷重尚の養子となり東郷重虎と称した。
 天正8年(1580年)の水俣出陣の際、僅か7歳で実父・家久に付いて出陣している。天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、高城が落城すると忠仍は島津領に退去する。ただしこの時、義父・重尚がこの前後に病没しており、忠仍もまだ少年であったため、忠仍は父の領地である日向国佐土原に戻り、自領には家臣らのみで籠城している。
 文禄元年(1592年)、実兄の島津豊久に従い文禄・慶長の役に従軍し朝鮮に渡海、その際に島津義弘の命により東郷から島津に復姓、名を島津忠直と改めた(忠仍表記とした年代は不明)。しかし陣中で発病したために佐土原に戻った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄の豊久が戦死すると、豊久に嫡子が無かったため慶長9年(1604年)忠仍にその遺領を継ぐよう命が下るが、病身を理由に自身の娘婿に喜入忠続の子・忠栄を迎えてこれを継がせ、自らは知行1,000石で大隅国三躰堂村に隠棲した。
 元和7年(1621年)に病死した。自らの跡目は嫡男の忠昌が継いだが、寛永9年(1632年)に島津姓を辞退する旨を上申し、翌年に受理されたため東郷に復姓した(東郷昌重と称する)。更に忠昌は樺山久尚の養子となったため(樺山久広と称する)、次男の重経が跡目を継いだ。重経と忠仍の3男の重頼兄弟も東郷姓に復し、重頼の子である源四郎忠辰は本城氏を名乗った。