中国(秦王朝)渡来系

SM04:島津立久  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津立久 ― 島津歳久 SM08:島津歳久

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島津歳久 島津忠隣

 祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ、若年より父の貴久や兄の義久,義弘を助けて数々の合戦で活躍した。その初陣は、天文23年(1554年)、歳久が17歳の時の祁答院良重が拠る大隅岩剣城における合戦で、同母兄の義久,義弘もこの合戦で初陣を果たす。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院地方へ退くこととなる。
 しかし、その1年後の大隅蒲生北村城の合戦においては島津勢は敗北を喫し、義久・義弘兄弟は戦場より辛くも脱出し、歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。
 永禄5年(1562年)、島津氏,北郷氏,相良氏の三氏は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するが、歳久は北原氏への恭順に応じない北原旧臣・北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久は永禄6年(1563年)から吉田(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田,佐多浦,本城,本名,宮之浦の統治を任され、44歳になるまでの18年間を吉田城主として過ごした。
 この間にかつて姶良地方を追われ祁答院地方の虎居城に拠った祁答院良重は、永禄9年(1566年)正月に、妻(島津実久の娘)によって暗殺され、祁答院氏の勢力は急速に衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院氏,東郷氏などの渋谷一族が帰順し、渋谷一族の拠点である祁答院地方を平定した。この平定された祁答院領には後に歳久が入る。
 天正3年(1575年)には先行した弟の家久に引き続いて、歌道の伝習のために上洛。ただ歌道伝習は名目的なものであり、実際は情報収集と織田信長とのパイプを強化することが最大の目的であった。
 天正8年(1580年)、先に平定された祁答院十二郷1万8千石を加増され、虎居城に入った。歳久はこの地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果して行く。その後は56歳で死去する12年間をこの祁答院虎居城を本領として過ごしたため、歳久直属軍は祁答院衆(宮之城衆)と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの祁答院衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、君臣間の信頼が厚かったとされる。
 豊臣秀吉の九州征伐の際、家中が抗戦へ傾く中で秀吉を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して、四兄弟中ただ一人上方との和平を唱えたという。しかし評議の場で和睦案は一蹴され、島津氏は秀吉と戦うことになる。一方で家中が和睦に傾いた時に、歳久は、「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない」と兄弟で唯一抗戦を主張。義久,義弘の二兄が秀吉に降伏した後も最後まで徹底的に抵抗した。秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中に位置する歳久の祁答院領の西端の山崎にて、家臣を使いにやり、巧みに秀吉軍を険相な路に案内し、秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせた。予め襲撃に備えた秀吉の駕籠は空駕籠にしていたため、秀吉は難を逃れたが、矢を射かけたのは歳久の家臣の本田四郎左衛門であった。
 1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵も病気(中風)を理由に出陣しなかった。嘘ではなかったのだが、今回だけではなく普段から上記のように反抗的な態度を取り続けたことから、秀吉は朱印状を、義久,義弘,家久には与えたが、歳久には出していない。これは豊臣秀吉による島津氏を分断する意図であったと思われるが、これ以後も、島津氏は長兄・義久から本当に独立してしまった兄弟はいない。それに加えて、同年に島津氏の家臣が無断で秀吉の籠に矢をいかけ、自分の意に反し秀吉の怒りを一手に買うことになり、兄・義久は、やむを得ず、歳久のもとに追討軍を送ることを決断する。
 自分の兵を失うは薩摩島津の兵を失うことと、初陣ゆかりの岩剣神社に向け出港した。付き従うは27人。小舟船足は遅くやがて追討軍に捕捉される歳久は、現在の平松神社鳥居付近に上陸、その場を、最後の場と定め切腹を決意し、追跡してきた町田久倍率いる上意軍と戦うことになった。また追手も太守の実弟ということで手が出せず、歳久にはもはや刀を握る力はなく、傍らにあった石を懐刀と見立て、「早う近づきて首を取れ」と言ったのち、家臣の原田甚次が首を取った。享年56。歳久の自害のとき、従者27人が殉死、討手の者たちも皆槍や刀を投げ捨て、地に倒れ臥し声を上げて泣いたという。
 亡骸を調べると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではなく、また、付き従う兵には全く罪はないので残された家族に類が及ばぬように」という主旨の文がしたためられていたと伝わる。首級は京都一条戻橋に晒された後、島津忠長によって盗み出され京都浄福寺に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最期の地に心岳寺を建立し霊を祭った。
 歳久死後、娘婿・忠隣の嫡男・島津常久が跡を継いだ。その子孫は藩政時代を通して日置領9000石を領したために日置島津家と称され、維新に至り男爵に叙された。 

 島津義虎と御平(島津義久の長女)の次男。天正12年(1584年)、男子のいなかった大叔父・島津歳久の養嗣子となり、歳久の長女を室とした。
 天正14年(1586年)、叛乱した筑紫広門征伐の副将に任じられる。しかし若年であり、また初陣であったことから島津義久より遠矢信濃守良時,木脇伊賀入道祐定を付けられた上で7月6日、鷹取城攻めを行った。同27日の岩屋城の戦いにも参加、取添口より攻撃し軍功を上げた。
 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂を宮部継潤に占拠されてしまう。忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、無謀な攻撃であり島津家久に反対されたという。しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が討死し完敗した(根白坂の戦い)。忠隣も鉄砲傷を被り、その出血はなはだしく家臣・鎌田囚獄左衛門政金に水を所望すると、囚獄左衛門が傍らにあった青梅を引き千切り差し出した。忠隣はそれを末期の水代わりと一口食べ絶命した。享年19。家臣らは遺体を盾板に載せて退却した。
 なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・常久は歳久によって養育され、日置島津家として系譜は続いた。

 

島津常久 島津久慶

 誕生してわずか3ヶ月後の同年4月17日(5月24日)の根白坂の戦いにて父・忠隣が戦死した。残された常久は祖父・歳久の手によって養育されたが、その歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれた。歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院宮之城の虎居城に籠城した。この事態を重く見た細川幽斎と主君・島津義久は新納忠元を使者として差遣し、歳久の遺族,遺臣を害さないことを約するなど説得を行い、1ヶ月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至った。
 成人後の文禄4年(1595年)に日置の山田・神ノ川3600石を賜って移住、さらに慶長6年(1601年)には藺牟田を、翌年には祁答院船木村を、慶長13年(1608年)には伊作の中ノ里などを賜った。主君・家久の信任厚い家臣として活躍、家久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めた。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である上之山城の城主に任命された。
 慶長19年(1614年)、疱瘡(天然痘)により急死。享年28。日置の大乗寺に葬られ、後に同じ日置の光禅寺へ改葬された。

 当初は弾正少弼を名乗っていたが、寛永9年(1632年)5月9日に主君・家久の命で弾正大弼と改め、さらに隈之城の地頭に任じられた。
 寛永11年(1634年)に家久の家老に任命され、同18年(1641年)まで務め上げた後、異国方(異国船を取り締まる役職)と宗門方(キリシタンおよび薩摩藩では禁止されている一向宗を取り締まる役職)に任じられ兼任した。
 寛永16年(1639年)に東郷3000石を加増され、計1万9千石となる。慶安4年に死去した。享年43。
 死後、養子となっていた自らの甥で喜入忠高の3男である久予(後に久憲)により、久慶が一向宗を信仰していたこと、自領の僧侶に2代藩主・光久を呪詛させていたことなどを光久へ讒言され、久慶は日置家の系図より削られた。また、久予は喜入家に戻り、日置家の名跡は初代藩主・家久の12男である忠朝(別名:忠心)が継いだ。

島津忠朝(忠心) 島津忠竹(久竹)

 寛永4年(1627年)5月25日、薩摩藩藩主島津家久の12男として生まれる。母は川村秀政の娘。寛永11年(1634年)桂忠能の養子となる。慶安2年(1649年)桂家を離れ実家に戻った。
 万治3年(1659年)12月22日、兄・光久の命で日置島津久慶の遺跡を相続した。久慶は島津家に功績のあった家老だったが、慶安4年(1651年)に死去した後に養子・久憲から禁制の一向宗信徒だったことや、主君の光久を呪詛していたことを告発され家の系図から除かれており、久慶の父・常久の養子としての相続だった。この際に、日置領と東郷領のうち日置領は没収された。
 寛文元年(1661年)12月13日、大隅国帖佐地地頭職に就任。寛文3年(1663年)霊元天皇即位式の祝賀使として嫡男忠興(忠竹)を上京させた。寛文3年(1663年)7月2日、薩摩国蒲生地頭職に就任。
 延宝3年(1675年)8月11日死去。家督は嫡男忠竹が相続した。

 万治3年(1659年)12月22日、父・忠朝(忠知)が兄・光久の命で日置島津久慶の遺跡を相続したため日置島津家の嫡男となる。寛文3年(1663年)霊元天皇即位式の祝賀使として上京した。
 延宝3年(1675年)8月、父・忠朝の死去により日置島津家の家督を相続した。延宝8年(1680年)知行地の東郷と旧領日置の知行替を藩に願い出て許された。延宝8年(1680年)藩主・光久の命で、徳川綱吉将軍就任の祝賀使として江戸に下る。
 正徳2年(1712年)6月9日、隠居して家督を嫡男・久健に譲る。
 正徳3年(1713年)弟・久近に分家板鼻家を、次男・久辰に赤山家を創設させた。この赤山家から江戸時代後期に赤山靭負が出る。正徳4年(1714年)3男・久英が分家山岡家を創設。
 享保元年(1716年)9月21日死去。

島津久健 赤山靭負久普

 寛文12年(1672年)10月2日、薩摩藩日置領主島津忠興(忠竹)の長男として生まれる。母は藩主島津光久の娘於虎。延宝8年(1680年)2月1日、鹿児島城に登城して元服。藩主・光久に代わって世子・綱貴が烏帽子親となり、理髪役は国老・島津久輝が務めた。
 宝永元年(1704年)2月、参勤交代で江戸に出府する藩主・吉貴に大身分格として随行し、藩主襲封の御礼のために江戸城に登城する吉貴の供をして、将軍徳川綱吉に拝謁した。
 正徳元年(1711年)10月、宮之城島津久方,都城島津久龍と共に「大身分」と呼称され特に年頭八朔の式礼で独礼を許された。正徳2年(1712年)3月、将軍家より薩摩国の印章を賜ったことへの謝使を命じられて江戸に出府した。同年6月9日、父・忠竹の隠居により家督を相続した。正徳3年(1713年)藩より日置家の次男には諱に「久」の字の使用を許され、3男以下は「忠」や「久」の字を避け「歳」の字を使用するよう命じられた。
 享保9年(1724年)8月5日、知行地の知覧郷西別府村は遠いため、伊集院郷飯牟礼村の公田との領地替を藩に願い出て許された。
 享保12年(1727年)6月23日、死去。家督は嫡男久林が相続した。

 諱は久普。父は島津氏分家・日置島津家当主の島津久風。長兄は、第29代藩主・島津忠義の首席家老を務める島津久徴、弟に西郷隆盛と親交を結び、西南戦争で戦死した桂久武がいる。
 生家の日置島津家は薩摩藩内では一門家に次ぐ名門であり、一所持の中でも特別な存在である大身分に属し、代々家老をはじめとする重役についていた。また元服時に次男家まで藩主直々に加冠されるという特権をもっており、これは一門家以外では日置島津家だけに与えられていた。このため久普も天保4年(1834年)12月19日に藩主・島津斉興手ずからの加冠を受け、元服している。
 天保12年(1841年)4月8日に小納戸見習行奥小姓となり、同15年(1844年)7月22日に江戸滞在中に供目付を兼務する。弘化3年(1846年)5月6日に鑓奉行の職に就任し、翌年には名越左源太や郷田仲兵衛とともに軍役方掛となる。
 藩主・斉興は嫡子の斉彬を嫌って側室のお由羅が産んだ久光に家督を譲りたいと考えるようになり、父・久風も久光を支持していたが、長兄・久徴は父の考えに従わず斉彬を支持し、靱負自身も兄と同じように斉彬を支持した。靱負は兄の久徴、弟の田尻務、桂久武とともに日置派を作って斉彬を藩主にしようと活動を始めると斉彬を慕う若い藩士たちも同調し過激な一派が斉興を隠居させ、斉彬を藩主にしようと動き出し、斉興の腹心・調所広郷を切腹に追い込んでしまう。この動きに斉興は激怒し、主要人物だった高崎五郎右衛門と近藤隆左衛門ら13名とともに赤山靱負も切腹に命じられた。他にも大久保利通の父・利世らが島流しになっている。靱負は享年27。介錯は高名な剣術家の加藤新平に頼んだという。このとき靱負と親交のあった西郷隆盛の父・西郷吉兵衛(諱は隆盛)は靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の隆盛に与え、その最期を伝えた。隆盛は靭負の生き方に大きく共感したという。
 赤山氏の名跡は兄・久徴の次男である歳寛が継いだが、歳寛は後に赤山姓から島津姓へ戻している。