中国(秦王朝)渡来系

SM04:島津立久  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津立久 ― 島津忠朗 SM07:島津忠朗

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島津忠朗 島津久門

 元和2年(1616年)11月7日、島津家久の3男として生まれる。元和5年(1619年)、家久に伴われて京に上り、二条城で将軍・徳川秀忠に拝謁する。江戸に下り幕府の証人を務める。寛永2年(1625年)、帰国。寛永8年(1631年)、祖父・義弘の隠居領の加治木1万石と、義弘付き家臣の加治木衆317家を拝領し、加治木島津家を興す。
 寛永13年(1636年)、7800石の加増を受ける。万治2年(1659年)、領内に能仁寺を創建する。延宝4年(1676年)2月16日没。享年61。家督は嫡男の久薫が相続した。 

 享保14年(1729年)2月、島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、同年11月25日に分家筆頭で島津綱久の次男でもある加治木島津家当主・島津久季の養子となった。幼名は善次郎。なお、母の登免(島津久房の娘)は天明年間まで生存していたが、継豊と登免との子は善次郎1人であった。
 享保17年(1732年)に加治木島津家4代当主となり、元文2年(1737年)に元服して、島津兵庫久門と称す。元文3年(1738年)に島津貴儔とともに、家格を一所持から、新設された一門家に改められる。その年のうちに、貴儔の異母弟の島津忠紀が重富島津家を興すと、この家も一門家に列せられ、一門家筆頭格となる。加治木島津家は一門家の席次は2番目であったが、3番目とされた垂水家が貴儔の代に限り一門家筆頭であったので、実質的には久門は3番目の席次であった。しかし、久門は一門家の中では血統上、継豊や宗信に最も近い存在であり、宗信の仮養子になっていた。
 寛延2年(1749年)7月10日、兄の宗信が死去したため、幕府の許可をもらって本家に復帰し、その跡を継いで藩主になった(重年と改名)。

【SM05】島津重年を参照 

島津久方 島津久徴

 延享2年(1745年)11月、分家の加治木島津家当主・島津久門(後の重年)の長男として生まれた。幼名は善次郎。母の都美は善次郎を出産したその日のうちに19歳で死去する。父が本家に復して薩摩藩主になると、加治木島津家を継ぎ、宝暦3年(1753年)12月、諱を久方とする。父の病弱に加え、翌年2月2日に父の継室・於村が死去し宗家で嗣子誕生が望めなくなったため、同8月に重年の嗣子として本家に迎えられ、忠洪(のちに重豪)に改名。宝暦5年(1755年)6月、父・重年が死去したため、11歳で家督を継いだ。

 薩摩藩家臣の加治木島津家第6代当主。
加治木島津家は、宝暦4年(1754年)に先代加治木島津家当主で、従兄弟の島津久方(重豪)が藩主・重年(久方の父)の世子となったため、19年間、当主不在となっていた。
 久徴は宝暦2年(1752年)、島津重年仮養子で知覧領主である島津久峰の長男として生まれる。重豪の従弟にあたる。
 明和9年(1772年)、重豪の義弟として加治木島津家を相続した。天明4年(1784年)、長崎より儒学者の伊藤世粛を招き、領内に郷校毓英館を設立する。また、寛政11年(1799年)には江戸より儒学者の秋岡冬日を招いた。寛政12年(1800年)、隠居して家督を嫡男の久照に譲る。文化5年(1808年)、領内の仕置が不届きであるとの理由で、久照共々処分を受ける。処分の真の理由は、藩校造士館に対抗して、毓英館を設立するなどの動きを藩内の改革派に対抗するものと見られたため。文化6年(1809年)9月11日死去。享年58。
 なお「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では島津忠厚は久徴の子とされている。

島津久賢

 旧人吉藩主・相良頼基の6男として生まれる。1896年(明治29年)、加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴6女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。
 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学,法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。1914年(大正3年)6月13日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)2月21日に辞職した。その他、護謨工業代表,東京セルロイド取締役,京浜大和運河取締役を務めた。
 1926年11月、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿の自宅で療養中に死去した。