SM03:島津氏久 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津季久 | SM12:島津季久 | ● |
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島津季久 | 島津忠廉 |
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豊州家初代当主。父は島津宗家8代当主の島津久豊。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。享徳年間(1452~55)、兄で島津宗家9代当主の島津忠国の命で平山氏を攻め帖佐を領土とすると瓜生野城(後の建昌城)を築いた。 |
島津豊州家第2代当主。長禄3年(1453年)、父・季久とともに蒲生氏の居城・蒲生城を攻撃し、蒲生の地を支配下に置く。文明5年(1473年)、伊作家の島津久逸が反乱を起こすと、当初は中立を保っていたが、突如として島津宗家11代当主の島津忠昌に叛旗を翻す。しかし薩州家の島津国久や肥後国の相良為続の説得により兵を収め、久逸が鹿児島へ攻め寄せると忠昌に従い、久逸の軍勢を撃退した。 |
島津忠朝 | 島津忠広 |
延徳2年(1490年)、父・忠廉の死去により家督を継ぎ3代当主となる。明応5年(1495年)、島津宗家11代当主・島津忠昌の家老である平田兼宗が反乱を起こした際には鎮圧を命じられ、兼宗の居城である大隅岩弘城を攻略。この功績により大隅串良の領土を安堵される。天文元年(1532年)、北郷忠相,北原久兼と連合して伊東氏領の三俣院高城を大軍で攻め、伊東軍に深刻な被害を与えた。 |
薩摩島津氏の分家である豊州家4代当主。天文7年(1538年)、忠朝が志布志へ移ると飫肥城を任せられる。病身のため政務は談合衆の日置美作守に一任していたといい、同9年(1540年)、日向伊東氏への抵抗勢力(長倉祐省・長倉能登守の乱)から援軍を要請されると、美作守の独断で出兵し敗北している。 |
島津忠親 | 島津朝久 |
永正9年(1512年)、日向都城の領主・北郷忠相の長男として誕生。天文15年(1546年)、豊州家島津忠広の養子・島津賀久が夭逝したことから、忠親は北郷氏を長男・北郷時久に継がせ、自らは養子として豊州家に入った。同18年(1549年)、養父の隠居により家督を継ぐ。 |
天正年間に島津義久により大隅平房・市成を賜りその領主となる。天正6年(1578年)、島津家が伊東氏を討ち日向を手に入れると宮崎の300町を拝領する。その後、島津義弘に従い真幸院飯野、更に馬関田に移り、大友氏との耳川の戦いでも活躍した。 |
島津久賀 | 島津久宝 |
文禄2年(1593年)、文禄の役の際に父の朝久が朝鮮で病死すると、2年後の文禄4年(1595年)に14歳で朝鮮へ渡海した。慶長の役にも参加し泗川の戦い、更に露梁海戦でも活躍、慶長5年(1600年)に永野など1,000余石の加増を受けた。慶長12年(1607年)、島津義弘が帖佐から加治木へ居城を移すと、帖佐の地頭に就任する。 |
島津久風が隠居すると出水郷地頭を兼務する。天保5年(1834年)家督を継承。島津斉彬に仕え、天保10年(1840年)家老となり、勝手方と琉球方掛を任じられ、弘化2年(1845年)には城代家老となった。安政5年(1858年)斉彬が没すると、前藩主・島津斉興の指示で家老・島津久徴を罷免し、斉彬の近代化政策を逆行するように保守的な政策を実行した。また勤王家月照の保護を拒否したため、月照を匿っていた西郷隆盛は責任を感じ、共に入水自殺を図った。これらの政策により志士たちの反感を買ったという。 |