SM02:島津忠宗 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 新納時久 | SM15:新納時久 | ● |
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新納時久 | 新納忠続 |
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建武2年(1335年)、日向国児湯郡新納院の地頭に任じられ高城に入り新納氏を名乗る。後醍醐天皇と足利尊氏との間に争いが起こると、本家と共に尊氏方に属す。足利政権内で尊氏と直義兄弟の対立が生まれると、同様に尊氏方に属していた。
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長禄2年(1458年)、島津宗家の命で大隅国志布志から日向国飫肥へ移され、同じく日向櫛間を領する伊作家・島津久逸と共に日向伊東氏への抑えとなる。文明16年(1484年)、日向において伊作家の勢力拡大を恐れた忠続が宗家11代当主・島津忠昌に久逸を伊作へ戻すよう願い出ると忠昌はこれを承諾。久逸は反発し、日向伊東氏,豊後国の大友氏等と飫肥城を攻撃する。島津本家は北郷敏久を派遣し忠続を援護するも飫肥城は陥落する。翌文明17年(1485年)、忠昌によって飫肥城は奪還。久逸が降伏すると、文明18年(1486年)、豊州家・島津忠廉が飫肥の地頭に任命され、忠続は改めて末吉・志布志に移された。 |
新納忠勝 | 新納常盤 |
延徳3年(1491年)、7代当主・新納忠武の子として誕生。大隅国志布志領主で、父の代から周囲の豪族と対立しつつ領土を拡大し、最盛期には本領に加え財部,大崎,末吉等を領していた。 |
伊作氏第9代当主・伊作善久に嫁ぎ、一男二女(吉田以清室,島津昌久室,島津忠良(菊三郎))をもうける。しかし、父・新納是久が舅・伊作久逸方となり飫肥川原合戦で戦死し、夫・善久が家来に撲殺され、続いて舅の久逸も加世田の合戦で戦死、伊作氏は当主他有力者のほとんどを喪い、一時的に梅窓夫人が当主代行的な立場を担った。その後、梅窓夫人に惚れ込んだ田布施の領主島津運久(相州家)の求婚を受け、菊三郎を相州家と伊作氏との家督を継ぐ養嗣子として迎え入れることを条件に再婚する。運久との間に2女(島津忠将室,佐多忠成室)をもうける。
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新納忠元 | 新納忠増 |
天文7年(1538年)、13歳で父に連れられ島津忠良にお目見えして出仕。以降、島津貴久と島津義久の2代にわたって仕えた。天文14年(1545年)に入来院重朝を攻めた際には、入来院氏の家臣を一騎討ちで倒して勝利に貢献している。永禄5年(1562年)には横川城攻めに参加し、永禄12年(1569年)には赤池長任の後に入った菱刈隆秋の拠る大口城を攻め、負傷しているにもかかわらず戦場を駆けて「武勇は鬼神の如し」と評された。その後は薩摩国大口の地頭を務めた。 |
兄・忠堯が天正11年(1583年)に戦死したため嫡子となる。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いの際は、太刀始め(島津氏での一番太刀)を為した。天正14年(1586年)は父の名代として豊後国へ侵攻、平田宗祇と共に領地を拡げ大功を為した。更に肥後国内乱の平定に加わる。島津氏が豊臣秀吉に降伏すると、忠増はその人質として上洛し、また文禄・慶長の役にも従軍した。
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新納康久 | 新納久饒 |
幼年より島津忠良に奉公し、忠良の命でつけられた安楽雅楽介,伊駒筑前介、並びに大弐という女性の3人に養育された。成長すると忠良の家老となり、天文8年(1539年)に忠良と対立していた薩州家島津実久方の武将・大山内蔵介の拠る加世田城攻めに参加。天文11年(1542年)、種子島恵時と子・時尭の内訌が起きると、島津貴久の命で和解の使者として派遣された。天文17年(1548年)、伊集院忠朗に代わって薩摩国市来鶴丸城を預かっている。 |
龍造寺氏,阿蘇氏との戦いに参加。天正13年(1584年)には肥後国合志城を攻略する功績をあげている。島津義久が豊臣秀吉から琉球征伐の命を受けると、天正18年(1590年)に義久の命で琉球への使者となった。文禄3年(1594年)、文禄の役で島津忠恒の渡鮮の際に兵糧を調達、飢えに苦しんでいた軍勢を助ける等の功績があった。 |
新納長住 | 新納忠秀 |
天文22年(1553年)、新納氏庶流・新納康久の3男として誕生。幼少の頃より出家、遊行上人に従い諸国を巡歴、後に肥後国八代荘厳寺の住職となり、旅庵と号す。 |
『本藩人物誌』では忠秀を新納氏庶流・新納伊勢守康久の3男とし、同じ新納氏庶流である新納忠貞の養子となった。若年の頃より新納忠元に付き従い、諸所で軍功を上げた。 |
新納久仰 | 新納中三 |
文化4年(1807年)、畠山義矩の次男として誕生。文政8年(1825年)、当番頭,加久藤地頭職を務め、新納久命の跡を継ぐ。文政12年(1829年)琉球付役、天保5年(1834年)用人、天保8年(1837年)異国船掛,兵具方掛,数寄屋掛、天保12年(1841年)寺社奉行、弘化4年(1847年)大姶良地頭職、弘化5年(1848年)寺社方内掛、嘉永2年(1849年)大番頭、勘定奉行を歴任。嘉永4年(1851年)島津斉彬が藩主を襲封すると家老に取り立てられ、富国強兵,殖産興業政策を補佐した。安政3年(1856年)には勝手掛に就いている。 |
通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三。維新後、七等判事,奄美大島島司。 |