中国(秦王朝)渡来系

SM02:島津忠宗  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 新納時久 SM15:新納時久


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新納時久 新納忠続

 建武2年(1335年)、日向国児湯郡新納院の地頭に任じられ高城に入り新納氏を名乗る。後醍醐天皇と足利尊氏との間に争いが起こると、本家と共に尊氏方に属す。足利政権内で尊氏と直義兄弟の対立が生まれると、同様に尊氏方に属していた。
 しかし領内の情勢から、正平4年/貞和5年(1349年)、時久は直義方に属しその功績により日向救仁院を賜る。翌正平5年/貞和6年(1350年)、直義方の日向守護・畠山直顕に攻められ高城が陥落。時久は本拠地を日向救仁院に移した。
 志布志城跡の矢倉場には新納時久の墓が現在も残る。

 

 長禄2年(1458年)、島津宗家の命で大隅国志布志から日向国飫肥へ移され、同じく日向櫛間を領する伊作家・島津久逸と共に日向伊東氏への抑えとなる。文明16年(1484年)、日向において伊作家の勢力拡大を恐れた忠続が宗家11代当主・島津忠昌に久逸を伊作へ戻すよう願い出ると忠昌はこれを承諾。久逸は反発し、日向伊東氏,豊後国の大友氏等と飫肥城を攻撃する。島津本家は北郷敏久を派遣し忠続を援護するも飫肥城は陥落する。翌文明17年(1485年)、忠昌によって飫肥城は奪還。久逸が降伏すると、文明18年(1486年)、豊州家・島津忠廉が飫肥の地頭に任命され、忠続は改めて末吉・志布志に移された。
 延徳元年(1489年)、死去。家督は弟・忠明が継いだ。 

新納忠勝 新納常盤

 延徳3年(1491年)、7代当主・新納忠武の子として誕生。大隅国志布志領主で、父の代から周囲の豪族と対立しつつ領土を拡大し、最盛期には本領に加え財部,大崎,末吉等を領していた。
 享禄元年(1528年)、日向国の日向伊東氏が南進してくると、冷水原で交戦した後に都城の北郷忠相に救援を求めるが、忠勝を快く思っていなかった忠相は伊東氏と手を組みを攻めてきたため敗走した。その後も伊東氏は日向南部への侵攻を繰り返したため、島津氏豊州家,北郷氏,北原氏等の諸豪族は連合を組んで対抗したが、忠勝はこれに組み入れずに自己の勢力拡大を図った。
 島津氏宗家で島津忠良・貴久親子と勝久・実久の対立が起きると、実久は日向南部の諸豪族を味方につけ忠良らに対抗しようとした。実久は忠勝の跡を継いだ忠茂も誘ったが、忠勝が実久側についた豊州家の島津忠朝や北郷忠相を嫌っていたためこれを拒否。そのため天文7年(1538年)、島津忠朝,北郷忠相,肝付兼続らに攻撃される。新納氏の諸城は次々と陥落したため、忠良らの援軍を得られぬままに降伏した。子・忠茂は伊東氏を頼って佐土原へ亡命し、忠勝は次男・忠常と共に島津忠朝の許に身を寄せた。こうして新納氏の所領は豊州家・北郷氏によって分割され、新納本家は没落した。天文18年(1549年)、死去。
 なお、島津氏の家臣として活躍する新納忠元等は新納氏の庶流にあたる。新納本家もその後島津氏に仕え、江戸時代までその血脈を伝えている。 

 伊作氏第9代当主・伊作善久に嫁ぎ、一男二女(吉田以清室,島津昌久室,島津忠良(菊三郎))をもうける。しかし、父・新納是久が舅・伊作久逸方となり飫肥川原合戦で戦死し、夫・善久が家来に撲殺され、続いて舅の久逸も加世田の合戦で戦死、伊作氏は当主他有力者のほとんどを喪い、一時的に梅窓夫人が当主代行的な立場を担った。その後、梅窓夫人に惚れ込んだ田布施の領主島津運久(相州家)の求婚を受け、菊三郎を相州家と伊作氏との家督を継ぐ養嗣子として迎え入れることを条件に再婚する。運久との間に2女(島津忠将室,佐多忠成室)をもうける。

 

新納忠元 新納忠増

 天文7年(1538年)、13歳で父に連れられ島津忠良にお目見えして出仕。以降、島津貴久と島津義久の2代にわたって仕えた。天文14年(1545年)に入来院重朝を攻めた際には、入来院氏の家臣を一騎討ちで倒して勝利に貢献している。永禄5年(1562年)には横川城攻めに参加し、永禄12年(1569年)には赤池長任の後に入った菱刈隆秋の拠る大口城を攻め、負傷しているにもかかわらず戦場を駆けて「武勇は鬼神の如し」と評された。その後は薩摩国大口の地頭を務めた。
 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでも活躍し、天正2年(1574年)には牛根城にて1年以上も籠城を続ける敵将を降伏させるために、自らの身柄を人質として差し出したりもしている。天正9年(1581年)の水俣城攻め、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いなどでも活躍し、豊臣秀吉の九州征伐時も徹底抗戦を主張し、主人である島津義久の弟・義弘が降伏するに及んでようやく秀吉に降伏した。
 朝鮮出兵のときは、薩摩の留守居を任された。関ヶ原の戦いの際は、島津義弘の帰国後に加藤清正が葦北に侵入してきたと聞き及び、当時詰めていた鹿児島から大口城へと急遽帰城して、敵の来攻に備え国境を固めた。慶長15年(1610年)の冬頃に危篤状態となり、義久,義弘,家久(忠恒)の平癒の願いも虚しく大口城にて死去した。享年85。
 肥前攻めの際に嫡男・忠堯が戦死し、なおかつ忠堯の嫡子・忠光も慶長8年(1603年)に早世したため、死後の家督は2男・忠増の子・忠清が忠光の婿養子となり継いだ。なお現在、鹿児島県伊佐市には「忠元公園」がある。
 忠元の死去に際し、殉死禁止令下ながら殉死者が2名出ている。また、殉死許可のなかった者は代わりに自らの指を切ったのだが、その人数は50余人にも及んだという。
 戸次川の戦い後、討死にした長宗我部信親の遺骸を引き取りに谷忠澄が継戦中にもかかわらず来訪した際には、敵将である信親の戦死に涙を流して陳謝し、土佐岡豊城まで丁重に僧まで同行させている。

 兄・忠堯が天正11年(1583年)に戦死したため嫡子となる。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いの際は、太刀始め(島津氏での一番太刀)を為した。天正14年(1586年)は父の名代として豊後国へ侵攻、平田宗祇と共に領地を拡げ大功を為した。更に肥後国内乱の平定に加わる。島津氏が豊臣秀吉に降伏すると、忠増はその人質として上洛し、また文禄・慶長の役にも従軍した。
 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵すると島津義弘と共に西軍に参加する。同年8月22日、河田木曽川渡河の戦いでの敗戦により三成が大垣城への撤退を決断するが、その際、島津豊久ら島津勢の一部は墨俣に陣を布いたままであり孤立する可能性があった。義弘は豊久らを退却させてから退却すべきと主張したが容れられず、忠増は川上久智と共に三成の馬の轡を取ってその所行を咎めたが、それでも意見は容れられなかった。忠増はその後の関ヶ原の戦いでの退却戦でも活躍し、後に大隅国山田の地頭に任命される。
 慶長13年(1608年)、山田にて死去。家督は、嫡男・忠清が兄・忠堯の嫡子である忠光の婿養子となったため、次男・久連が継いだ。

 

新納康久 新納久饒

 幼年より島津忠良に奉公し、忠良の命でつけられた安楽雅楽介,伊駒筑前介、並びに大弐という女性の3人に養育された。成長すると忠良の家老となり、天文8年(1539年)に忠良と対立していた薩州家島津実久方の武将・大山内蔵介の拠る加世田城攻めに参加。天文11年(1542年)、種子島恵時と子・時尭の内訌が起きると、島津貴久の命で和解の使者として派遣された。天文17年(1548年)、伊集院忠朗に代わって薩摩国市来鶴丸城を預かっている。
 天文18年(1549年)、鹿児島を訪れていたフランシスコ・ザビエルが布教の途中鶴丸城に立ち寄ると、康久は手厚くもてなし自由に布教することを許している。この時に康久夫人と子・久饒、旅庵を始め家臣17人が洗礼を受けている。永禄4年(1561年)にルイス・デ・アルメイダが島津貴久の招きで鹿児島を訪ねる途中鶴丸城も立ち寄った際には、更に70名が洗礼を受けたと伝えられている。没年は不明ながら、8月2日に病死した。 

 龍造寺氏,阿蘇氏との戦いに参加。天正13年(1584年)には肥後国合志城を攻略する功績をあげている。島津義久が豊臣秀吉から琉球征伐の命を受けると、天正18年(1590年)に義久の命で琉球への使者となった。文禄3年(1594年)、文禄の役で島津忠恒の渡鮮の際に兵糧を調達、飢えに苦しんでいた軍勢を助ける等の功績があった。
 乱世の中長寿を全うし、寛永元年(1624年)、死去。享年78。
 フランシスコ・ザビエルが布教のために薩摩へ訪れた際に、久饒の父・康久の居城である市来鶴丸城に立ち寄ったことがあった。久饒は母や弟・旅庵と共にザビエルから洗礼を受けたといわれている。

新納長住 新納忠秀

 天文22年(1553年)、新納氏庶流・新納康久の3男として誕生。幼少の頃より出家、遊行上人に従い諸国を巡歴、後に肥後国八代荘厳寺の住職となり、旅庵と号す。
 天正15年(1587年)、島津義久の命で兄·新納久饒が幾度となく説得しに来たため還俗、島津義弘の家老となる。文禄・慶長の役,関ヶ原の戦いでは義弘に従い出陣。関ヶ原の戦いの際には、伏見城に篭る鳥居元忠の許に向かい入城を申し込むが、拒絶されている。関ヶ原からの退却途中で義弘一行とはぐれ、鞍馬に潜伏、そこで家康の落人詮議役であった山口直友に見つかり東軍の捕虜となった。旅庵は徳川家康の尋問を受け、島津義久,忠恒に上洛を促すよう命じられ解放される。
 関ヶ原以降は家康との交渉にあたり島津家の本領安堵のため奔走した。講和が成立してしばらく後、忠恒に従い上洛していた旅庵は、慶長7年(1602年)大坂の地で病死している。島津家本領安堵の知らせの直後のことであった。
 なお、フランシスコ・ザビエルにより幼少時に洗礼を受けていたことがあるという。

 『本藩人物誌』では忠秀を新納氏庶流・新納伊勢守康久の3男とし、同じ新納氏庶流である新納忠貞の養子となった。若年の頃より新納忠元に付き従い、諸所で軍功を上げた。
 天正5年(1577年)、日向伊東氏家臣で野尻城主・福永祐友が島津氏に寝返ると、忠秀は在番していた高原城より野尻城へ入って在番の一人となった。天正8年(1580年)に忠元が相良氏の朴河内城を攻める際は、坂元源二郎と共に城内へ入り込んで物見し、城を攻めた際は合志玄宅という者を討ち取った。天正14年(1586年)、川内勘右衛門が鎌田長継の下僕を殺害し肥後国へ逃亡する事件が起こると、忠秀が追いこれを討ち果たした。
 天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われ豊後国より逃亡する際は、忠元の帰路を塞ぐ敵を、忠秀が先陣を切って討ち払った。更に途中の八代より逃亡する際には、伊集院肥後守・桂山城守と殿を争い、忠秀が任じられると、争った両人の旗を預って殿に及んでいる。文禄・慶長の役にも参加し、朝鮮より帰国後は納殿役となった。
 寛永17年(1640年)、死去。嫡男・甚右衛門兼康は肝付氏の養子としてその21代当主となったため、忠秀の名跡は二右衛門久親が継いだ。

新納久仰 新納中三

文化4年(1807年)、畠山義矩の次男として誕生。文政8年(1825年)、当番頭,加久藤地頭職を務め、新納久命の跡を継ぐ。文政12年(1829年)琉球付役、天保5年(1834年)用人、天保8年(1837年)異国船掛,兵具方掛,数寄屋掛、天保12年(1841年)寺社奉行、弘化4年(1847年)大姶良地頭職、弘化5年(1848年)寺社方内掛、嘉永2年(1849年)大番頭、勘定奉行を歴任。嘉永4年(1851年)島津斉彬が藩主を襲封すると家老に取り立てられ、富国強兵,殖産興業政策を補佐した。安政3年(1856年)には勝手掛に就いている。
 斉彬の没後は復権した前藩主・島津斉興に島津久宝と共に重用され、10年間の非常緊縮を発表して財政整備に当たり、斉彬の創設した集成館,鋳製所,開物館等の製造所を縮小廃止し、水軍を解散するなど、前事業を中絶させた。安政6年(1859年)には軍役総奉行となる。しかし斉興が没すると久宝に続いて罷免されることとなった。文久3年(1863年)隠居、子・久脩が跡を継いだ。
 家格は寄合の新納二男家。また彼が残した『新納久仰雑譜』は、当時の高級役人の生活が詳細に記されている貴重な史料である。 

 通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三。維新後、七等判事,奄美大島島司。
 新納氏は島津氏の庶流であり、薩摩藩内にあって一所持と呼ばれる家格の譜代重臣で家禄850石の家柄であった。家祖である戦国時代の武将・新納忠元からは13代目となる。
 島津斉彬,茂久の2代に仕え、始め軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し賞賛された。慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。薩摩藩が派遣した薩摩藩遣英使節団の団長として五代友厚や松木弘安(寺島宗則)などと共にイギリスに渡航。変名を石垣鋭之助と称した。その後、五代,寺島,堀孝之(通訳)とともにヨーロッパ各地を歴訪し、新納は視察の傍ら紡績機械等の買い付けなども行った。訪問先はフランス,プロイセン,オランダ,ベルギーである。
 ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して慶応2年(1866年)に帰国した。
 帰国した年、勝手方家老に昇進して開成所を所管。また同年、子・竹之助をフランスへ留学させている。藩政においては、先述のパリ万博準備等外交事務を担当した。戊辰戦争時には京都にあり、明治維新後の新藩政において再び大目付となって藩政改革に尽力した。
 明治4年(1871年)の廃藩置県で薩摩藩消滅後に退職するが、明治9年(1876年)に七等判事として新政府に出仕。その後また一時期退職したが、明治18年(1885年)奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したが、翌年に突然免官、位記返上を命じられる。これは黒糖流通を独占していた鹿児島県商人による画策といわれる。しかしその後も中三は島民から救世の恩人と敬慕された。明治22年(1889年)12月10日、没。58歳。