SM02:島津忠宗 | 島津忠久 ― 島津忠宗 ― 樺山資久 | SM16:樺山資久 | ● |
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樺山善久 | 樺山忠助 |
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樺山氏は島津宗家4代・忠宗の子である資久を祖とする家で、日向国樺山を領したことから樺山姓を名乗った一族である。善久は永正10年(1513年)、その7代目である樺山広久の子として誕生、島津宗家に仕えて、島津忠良の次女・御隅を正室とした。また和歌を好み、近衛稙家に拝褐して古今伝授を受け、飛鳥井雅綱から蹴鞠を習った。 |
天正元年(1573年)、島津氏に降伏した大隅国の禰寝重長が肝付氏に攻められた際、これを救うべく出陣、肝付氏を西俣に破り功を為した。同3年(1575年)に犬追物が行われた際、忠助は射手として11匹を射る程の活躍を見せ、その腕前から毎年の犬追物での射手となり、天正4年(1576年)に琉球の使者を饗応する犬追物での射手も務めた。同年、伊東氏の高原城攻めにも出陣、その後、日向国穆佐の地頭に任じられる。但し耳川の戦いの頃に穆左は嫡子の規久に任せ、自身は大隅の堅利に住んだ。 |
樺山久高 | 樺山久言 |
樺山氏は島津氏の一族で、久高はその13代目の当主である。当初、島津氏重臣・大野忠宗の婿養子となり大野七郎忠高と称した。天正4年(1576年)の高原城攻めや、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いに従軍、天正13年(1585年)の堅志田城攻めでは敵2人を討ち取り、天正14年(1586年)の勝尾城攻めでは敵と組打ちし、手負いとなりながらも討ち取っている。同年の岩屋城攻めでは一番首の功名をなした。また同年、島津義弘の陣に属して豊後国入りし、犬童頼安,犬童頼兄と共に坂無城の番を仰せつかった。 |
父は新納氏からの婿養子であったが、後に両親が離婚、樺山家の嗣子となった久言は祖父の手で育てられた。また、一門家島津忠貫の義兄にあたる。 |
樺山資紀 | 樺山愛輔 |
薩摩藩士・真木家の3男、政治的な問題により樺山家の養子になる。警視総監(第3代),海軍大臣(第2代),海軍軍令部長(第6代),台湾総督(初代),枢密顧問官,内務大臣(第15代),文部大臣(第14代)を歴任した。 |
1878年、米国に留学。1885年、コネチカット州ウェズリアン大学に入学。その後、1887年にアマースト大学に編入。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館ドツクや日本製鋼所,十五銀行などの役員を務める。1922年、父・資紀(海軍大将,伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年7月10日に貴族院議員に選任され、1946年6月13日まで務めた。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄,吉田茂,盟友の松平恒雄などと連携していわゆる「ヨハンセングループ」の終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止。公職追放となる。 |