伏見宮

K802:伏見宮貞清親王  (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 K803:伏見宮邦家親王


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邦家親王 貞教親王

 文化14年(1817年)、光格天皇の猶子となり親王宣下を受ける。邦家と命名される。同月元服し、上野太守に補任され三品に叙せられる。天保6年(1835年)、鷹司政熙の女・景子と結婚する。天保12年(1841年)、父・貞敬親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。しかし、翌天保13年(1842年)、第6王子・睦宮(のちの貞教親王)に家督を譲り隠居する。親王は落飾し禅楽と号する。
 元治元年(1864年)2月7日、復飾を許され伏見宮を再継承し、邦家の名に復帰した。元治3年(2年説あり)3月二品に昇叙され、式部卿となる。
 大政奉還がなると、慶応3年(1867年)、国事御用掛に任じられる。慶応4年(1868年)3月2日、多年に渡り楽道に精進した功労などを賞され、一品に叙せされる。明治5年(1872年)3月、家族とともに京都を離れて東京に移住する。4月10日、家督を第14王子・貞愛親王に譲り隠居する。同年8月5日薨去。71歳。 

 晃親王ら兄がいたが、正室との子のため嫡子となる。天保13年(1842年)、父宮邦家親王の隠居に伴い、7歳で伏見宮家を継承する。
 弘化4年(1847年)仁孝天皇の猶子となり、翌嘉永元年(1848年)3月、親王宣下を蒙り、貞教と命名される。元服し兵部卿に任ぜられる。同年5月三品に叙せられる。
 文久2年(1862年)10月19日、二品に叙せられるが、同月25日(実際には14日)薨去。享年27。伏見宮は同母弟の貞愛親王が継承した。 

貞愛親王 博恭王

 親王は初め妙法院を相続したのち孝明天皇の養子となるが、伏見宮貞教親王薨去のため、1862年(文久2年)旧暦11月に還俗し家督を継ぐ。1864年(元治元年)、いったん伏見宮を離れ家督を父宮の邦家親王に渡す。そして、1872年(明治5年)再度伏見宮を継承し第24代となる。
 親王は皇族として唯一、大正初期に4代目の内大臣を務め、軍人として最高位の元帥陸軍大将に就任したほか、大日本農会,大日本蚕糸会,在郷軍人会,理化学研究所,恩賜財団済生会,大日本武徳会等の総裁を歴任する。なお、済生会の総裁職はのちに寬仁親王が就任する。
 親王は馬術・囲碁・音楽・弓術・撞球・書道・書画刀剣・木石花卉などを趣味とし、銚子犬吠埼の別邸・瑞鶴荘には矢場・撞球場が設けられた。親王は福岡県宗像市の宗像大社を厚く崇敬し、記紀にある神勅の言葉を揮毫している。

 貞愛親王と河野千代子との間に第一王子・愛賢として産まれた。当時、貞愛親王は満17歳であった。庶子であったことから、誕生当初は王も与えられなかった。当時の太政官布告によれば、将来的に臣籍降下し華族に列せられる予定であった。
 ところが、明治9年(1876年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、天皇特旨により博経親王の子・博厚親王が華頂宮家を継承したものの、その博厚親王も明治16年(1883年)にわずか8歳で薨去。明治天皇の特旨をもって華頂宮の存続を決定し、まず博厚親王を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては、本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることに、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承し、同時に名を博恭と改めた。
 華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し、海軍軍人としてのスタートを切る。3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、ドイツ海軍兵学校からドイツ海軍大学校で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。
 帰国後は巡洋艦や戦艦での艦隊勤務を重ね、このため皇族とはかけ離れた行動様式や生活が身につくことになる。1897年(明治30年)には徳川慶喜の九女・経子と結婚し、1903年(明治36年)に海軍少佐に任官されるが、翌1904年(明治37年)に華頂宮から急遽伏見宮に復籍し、第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった。伏見宮復籍後も艦隊勤務での実績を積み、日露戦争の黄海海戦において、連合艦隊の旗艦「三笠」の第三分隊長として、後部の30センチ砲塔を指揮、その際負傷した。1923年(大正12年)に貞愛親王の死去に伴い伏見宮家を継いだ。
 1931年(昭和6年)末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、1932年(昭和7年)2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任させた。
 軍令部が権限強化に動き出すと、博恭王自身も軍令部権限強化をはかり、軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟,太平洋戦争(大東亜戦争)と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治,真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。この時、昭和天皇の不興を買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている。
 1938年(昭和13年)10月、長男・博義王が急死。さらに1943年(昭和18年)8月、4男・伏見博英が戦死。しばらくして脳出血による右半身麻痺,心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る。
 1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議では、「特殊な兵器」の必要性を主張し、特攻兵器を指したものであるともいわれる。
 敗戦直後、上京。戦災で焼失した伏見宮邸近くの旅館で生活を送るも、1946年(昭和21年)8月16日、薨去した。 

博忠王 博信王

 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第二男子。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり僅か2歳で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(昭和天皇)と同級だった。 中等学科四年より海軍兵学校予科に進む。海軍兵学校を卒業し、1922年(大正11年)5月に海軍少尉任官。1923年(大正12年)12月1日、長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」乗組を命じられる。
 1924年(大正13年)3月3日、五十鈴乗艦中に発病し、3月6日より佐世保海軍病院に入院する。当時皇太子/摂政宮(のち昭和天皇)は博恭王,博忠王に対し、東宮侍従・土屋正直を見舞のため派遣した。 3月19日、博忠王は流行性脳脊髄炎のため、危篤状態となる。午後6時35分、薨去。遺体は3月24日午後4時に帰京し、公式に薨去が発表された。喪主は弟宮の博信王。3月31日、豊島岡墓地にて斂葬の儀が執行された。
 博忠王には妃・王子ともに居なかったため、華頂宮家は断絶する。この2年後の1926年(大正15年)12月7日に博信王が臣籍降下するにあたり、華頂の姓を下賜され華頂宮の祭祀を継承した。
 身長が六尺一寸(185㎝)という、当時としては異例の長身だったという。

 1925年(大正14年)7月14日に海軍兵学校を卒業した博信は、同日、海軍少尉候補生・「磐手」乗組を命ぜられ、翌年の1926年(大正15年)12月1日に海軍少尉・山城乗組に任命される。また、同年12月7日に臣籍降下し、華頂の家号を賜り侯爵として華族に列せられた。この際、実兄である華頂宮博忠王の死により断絶していた華頂宮家の祭祀を継承した。
 1932年(昭和7年)12月に「愛宕」分隊長に就任。以後「曙」水雷長,「漣」水雷長,軍令部員等を歴任した。1935年(昭和10年)には侯爵として貴族院議員に就任する。
 1939年(昭和14年)10月に海軍大学校教官となってからは、各種学校の教官を経験する。1945年(昭和20年)7月15日に海軍水雷学校教官に補され、翌月8月15日の終戦を迎える。階級は海軍中佐であった。同年9月5日には海軍大佐に進級し11月、予備役編入となる。
 1929年(昭和4年)に博信が造らせ、1931年(昭和6年)に完成した邸宅は所在地である神奈川県鎌倉市によって保存されている。
兄弟たちが病死や戦死で早世する中、父王と共に太平洋戦争終結まで存命であった。1946年(昭和21年)4月12日、貴族院議員を辞任、同年公職追放となる。1951年(昭和26年)に妻・華子と離婚。旧皇族の離婚第一号となる。その原因は、華子と戸田豊太郎(徳川慶喜の孫・徳川喜和子の元夫)との不義密通が発覚したことであった。華子は結局戸田のもとに走り、博信は再婚して渡米、心理学の研究生活に入った。

伏見博英 伏見博明

 1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。
 最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て!貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。
 1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任。1936年(昭和11年)4月1日に臣籍降下して貴族院議員の資格が消滅し、昭和天皇から伏見の家名を賜り、伯爵に叙せられる。第3連合通信隊司令部に属していたが、 1943年8月21日、アンボンより任地であるスラバヤへの帰途。セレベス島南部ボネ湾上空で乗機が撃墜され戦死し海軍少佐に特進する。 弔問には勅使が派遣され、幣帛及び榊を賜わる。また、葬送にも勅使が派遣され、玉串を賜った。さらに天皇・皇后・皇太后から賜金あり。
 墓は青山霊園の警視庁墓地。伏見伯爵家の家督は、兄・華頂博信の子で博英の養子となっていた伏見博孝が継いだ。

 伏見宮博恭王の第一王子博義王の第一王子として生まれる。母は博義王妃朝子。
 1938年(昭和13年)10月19日に、父宮の博義王が薨去し、さらに第二次世界大戦後間もない1946年(昭和21年)8月16日に博恭王が薨去したことに伴い、14歳で伏見宮家を継承する。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱し伏見博明と名乗る。
 アメリカ合衆国のマサチューセッツ工科大学に留学後、帰国しモービル石油に勤務。現在同社顧問。2001年(平成13年)に日本文化振興会第5代総裁就任。

彰仁親王 博厚親王

 安政5年(1858年)、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。慶応3年(1867年)、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王と名乗る。明治維新にあっては、議定,軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。
 明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める。明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、同10年(1877年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。明治14年(1881年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌明治15年(1882年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。
 親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。明治23年(1890年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長,参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。明治31年(1898年)に元帥府に列せられる。
 国際親善にも力を入れ、明治19年(1886年)にイギリス,フランス,ドイツ,ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、明治35年(1902年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。
 社会事業では、日本赤十字社,大日本水産会,大日本山林会,大日本武徳会,高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。
 明治14年(1881年)、彰仁親王は永世皇族となる。もともとは一代限りの皇族であった。明治18年12月、子どものいなかった彰仁親王は、伏見宮邦家親王の17男・依仁親王(当時は定麿王)を養子に迎えた。しかし、しだいに依仁親王を排除し、北白川宮能久親王の4男・輝久王を後継者にしようと考えるようになった。明治35年4月、宮内大臣の田中光顕に臣籍降下し、輝久王を養子に迎えることを願う。
 田中が難色を示すと、彰仁親王本人が臣籍降下を断念する代わりに輝久王を臣籍降下させて侯爵として、財産を相続させて、依仁親王を別家させることを願った。その結果、明治36年1月、依仁親王との養子縁組は解消されて、依仁親王は東伏見宮家を創設した。ただし、輝久王の臣籍降下は認められなかった。
 明治36年2月、彰仁親王は亡くなり、頼子妃らは輝久王の小松宮家相続を願ったものの、認められなかった。そのため、小松宮は一代で断絶することになった。しかし、明治43年(1910年)7月20日、輝久王は臣籍降下し、小松輝久侯爵と名乗り、小松宮の祭祀を継承した。

 華頂宮博経親王第一王子で伏見宮邦家親王の孫。母は伯爵・南部利剛の長女郁子。
 明治9年(1876年)5月24日の父王・博経親王の薨去を受けて華頂宮の家督を継承する。明治初年に皇族の範囲・賜姓皇族の方針を定めたが、それによると博厚親王は臣籍降下することとなっていたが、明治天皇の思召しによって皇族の身分を保ち、明治16年(1883年)2月15日に明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去する。僅か8歳であった。
 親王は幼少であったため継嗣はなく、伏見宮家から博恭王が入り華頂宮を相続する。博恭王はその後、本流である伏見宮を継承するはずであった邦芳王が病弱であったため、伏見宮に復籍し家督を相続、華頂宮は博恭王の第二王子・博忠王が継承することとなる。 

清棲家教 渋谷隆教

 文久2年(1862年)、伏見宮邦家親王の第15王子として江戸で生まれる。幼称は六十宮。慶応2年(1866年)に臣籍降下して真宗仏光寺第25代管長教応(鷹司政通3男)の養子となる。明治元年(1868年)、仏光寺を相続、仏光寺第26代管長となった。明治5年(1872年)には華族に列し、寺の所在地から取った渋谷を家号として、渋谷家教と称した。明治13年(1880年)、大教正。
 明治21年(1888年)6月28日に渋谷家を離籍、いったん伏見宮家に復帰したのち、再度臣籍降下して新たに清棲の姓を賜り、伯爵・清棲家教となった。貴族院伯爵議員,宮中顧問官のほか、山梨,茨城,和歌山,新潟の各県知事を務めた。
 妻は倉橋泰顕の長女・満子。子の隆教は渋谷家を継いだため(明治29年に男爵となる)、清棲伯爵家は真田伯爵家から養子に入った幸保が相続した。なお、幸保は後に、家教の甥に当たる伏見宮博恭王の第2王女・敦子女王と結婚している。

 明治18年(1885年)、佛光寺第26代管長渋谷家教(清棲家教)の子として生まれる。明治21年(1888年)に家教は渋谷家を離籍して清棲伯爵家を創設し、隆教が渋谷家の家督を相続することとなったが、幼少であったことから、第25代管長真達の未亡人である真意尼が第27代管長となる。明治29年(1896年)6月9日、男爵に叙される。なお、このとき同時に東西の大谷家(東本願寺,西本願寺)が伯爵に、木辺家(真宗木辺派),常磐井家(真宗高田派),華園家(真宗興正派)が男爵にそれぞれ叙されている(僧侶華族)。
 明治38年(1905年)、真意尼の管長退職に伴い、第28代管長に就任。戦後に管長の呼称を廃止し門主と改称される。昭和23年(1948年)に子の真照(渋谷有教)が継承するまで佛光寺法主の地位にあった。

 

清棲幸保

 1901年(明治34年)2月28日、信濃国松代藩第11代藩主・真田幸民の3男として東京府東京市麻布区材木町に生まれる。学習院初等科の頃から、昆虫採集や鳥の標本作成に興じる。学習院では成績優秀かつ容姿端麗で知られた。学習院高等科から東京帝国大学理学部動物学科に進む。在学中、伏見宮家出身で臣籍降下していた清棲家教の養子となり、1923年(大正12年)に養父の死に伴って家督を相続し、同年8月10日に伯爵を襲爵した。1925年(大正14年)には伏見宮博恭王の第二王女・敦子女王と結婚。
 大学卒業後、1927年(昭和2年)まで徳川義親が設立した徳川生物学研究所に勤務。1932年(昭和7年)、農林省畜産局鳥獣調査室に農林省嘱託として奉職。併せて、京都帝国大学大学院で川村多実二に師事し、鳥の生理学的研究を行う。1936年(昭和11年)に妻・敦子と死別。1942年(昭和17年)からは文部省資源科学研究所で極東地域の鳥の生態を研究。
 1954年(昭和29年)、宇都宮大学講師。のち助教授,教授、1964年(昭和39年)に退官。1956年(昭和31年)には、博士論文「日本鳥類の生態に関する研究」により理学博士(京都大学)を取得。1975年(昭和50年)11月2日、老衰のため東京都目黒区の自宅で死去。74歳没。
 代表的な著作に『日本鳥類大図鑑』全3巻。後妻との間の子である保之も鳥類学者であり、1974年(昭和49年)には共著として『渡り鳥』を出版している。