村上源氏

G817:久我通言  源 師房 ― 源 顕房 ― 源 雅実 ― 久我通光 ― 久我通言 ― 久我通前 G818:久我通前

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久我通兄 久我信通

 江戸時代中期、おもに中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位・右大臣まで昇った。
 享保3年(1718年)叙爵して以降、清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従,左近衛中将を経て、享保9年(1724年)には従三位となり公卿に列する。権中納言を経て、享保16年(1731年)権大納言、享保17年(1732年)踏歌節会外弁となる。寛保元年(1741年)武家伝奏に就任。寛延3年(1750年)に武家伝奏を辞職し、右近衛大将・右馬寮御監に転じた。さらに同年のうちに内大臣に任じられている。宝暦4年(1754年)には従一位となり、さらに右大臣へと進む。しかし翌年には辞職した。子の久我敏通とともに徳大寺家お抱えの学者竹内式部に入門し垂加神道や尊王論を学んだ。

 江戸時代後期、主に桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の四帝にわたって仕え、官位は正二位・内大臣まで昇る。
 宝暦6年(1756年)に久我家の養子に入り、同年叙爵した。以降、清華家当主として早いスピードで累進し、侍従,左近衛権少将,左近衛権中将を経て、宝暦13年(1763年)に従三位となり、公卿に列する。踏歌節会外弁・権中納言を経て、明和5年(1768年)に従二位となり、英仁親王(後桃園天皇)の立太子にともない、その春宮権大夫となる。明和7年(1770年)親王の即位とともに辞す。明和8年(1771年)に権大納言となる。安永4年(1775年)には後桜町上皇の院執権となった。安永5年(1776年)に武家伝奏に就任し、寛政3年(1791年)までの長きにわたりつとめた。寛政3年(1791年)から内大臣に就任するも翌寛政4年(1792年)には辞した。この年に朝廷と幕府の間で典仁親王への尊号一件事件が発生したが、信通は朝廷側の代表にたてられ、中山愛親,正親町公明らを伴って江戸へ下向している。

久我建通 久我通久

 京都で誕生する。文政5年(1822年)叙爵、文政9年(1856年)従三位、天保5年(1834年)正二位、嘉永5年(1852年)大納言と昇進を重ねる。安政元年(1854年)議奏に就任し権力を握ったため、“権関白”と称された。以後は朝幕間の調停に努め、条約勅許問題,和宮降嫁問題などに関係した。
 なお明治時代になってから建通は、廷臣八十八卿列参事件は自分が中心的役割を果たしたと証言しているが(孝明天皇紀)、「岩倉公実記」は中心は岩倉具視としており、解決をみない。安政5年(1858年)右近衛大将、文久2年(1862年)内大臣、国事御用掛など要職を務めた。しかし攘夷派に恨まれ、間もなく弾劾を受けて失脚、蟄居落飾処分となった。
 明治元年(1868年)赦免され、宮内省麝香間祇候や加茂社司、大教正などをつとめた。明治22年(1889年)従一位勲一等に叙せられた。

 1868年1月、明治新政府参与。2月、権大納言。大和国鎮撫惣督となる。7月、東北遊撃軍将。8月、海路越後に赴き、奥羽鎮撫惣督を援け、転戦して鶴岡に至り東北平定。11月、東京に凱旋。三等陸軍将。1869年3月、箱館軍の内地侵入を防ぐため鎮撫惣督として仙台に至り騒擾を鎮定。7月、陸軍少将。11月、兵部少輔。その後、元老院議官などを歴任。
 1884年、侯爵。その後、宮中顧問官や東京府知事、宗秩寮総裁などを歴任。1903年6月、従一位。1925年1月10日歿。享年85。