<伏見宮 ― 梨本宮>

K803:邦家親王  (栄仁親王) ― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 ― 晃親王 K804:晃親王

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晃親王 菊麿王

文化13年(1816年)に誕生、幼名は静宮。初名は清保。文化14年(1817年)、京都山科の門跡寺院・勧修寺を相続した。文政7年(1824年)に出家し、済範入道親王と称した。天保12年(1841年)10月8日、二歳年下の叔母・幾佐宮隆子女王と共に出奔するという不祥事を起こした結果、天保13年(1842年)7月22日に光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡の地位が停止され、伏見宮より除籍されてしまう。
元治元年(1864年)、徳川慶喜らが済範入道親王の還俗を孝明天皇に願い、同年(元号は文久)正月9日、済範入道親王は伏見宮に復し同18日、勅許をもって復飾し改めて親王宣下と共に、山階宮の宮号を賜った。その後は国事御用掛として幕末の政界で活躍し、明治維新後は、議定・外国事務総督などの要職を占めた。皇族がヨーロッパの王室に倣って軍人になる中、親王は固辞し文官であることを通した。一旦は上京したものの、明治天皇に願い出て帰洛。1886年(明治19年)に大勲位菊花大綬章を受けている。1898年(明治31年)2月17日、83歳で薨去した。

1874年(明治7年)一歳を目前に梨本宮守脩親王養子となり、1881年(明治14年)後を継ぎ梨本宮第二代となる。当初実家である山階宮は叔父にあたる定麿王(父の末弟)が継承することになっていたが、王が父と定麿王の間の兄弟の一人である小松宮彰仁親王の養子に転じ依仁を名乗ったことから、1885年(明治18年)には山階宮に復籍し晃親王の継嗣となる。梨本宮は従兄弟にあたる守正王が継承した。
王は海軍に入り「磐手」、「八雲」の分隊長を務めた。1908年(明治41年)5月2日薨去する。階級は中佐であったが、同日進級し大佐となった。また、気象学を研究し、自弁で観測所を建設するほどであった。王が建設した観測所は、気象庁を経て筑波大学と筑波山神社が共同管理する筑波山神社・筑波大学計算科学研究センター共同気象観測所となっている。

山階武彦 山階芳麿

 1898年(明治31年)2月13日、山階宮菊麿王と同妃範子の第1男子として誕生したが、2月17日に祖父・山階宮晃親王が薨去しており、御七夜を待たず2月16日に「武彦」と命名された。
 1908年(明治41年)5月、父・菊麿王の薨去を受け、葬儀では喪主を務めた。10歳という若さで山階宮を継承。1918年(大正7年)4月13日、成年式が執り行われた。同年11月には海軍兵学校(46期)を卒業。同年2月13日、貴族院議員となり、1946年(昭和21年)5月23日まで議員であった。
 1920年(大正9年)12月、海軍砲術学校を卒業後、追浜海軍航空隊附となり12月12日に第6期生として入学。皇族として初めて海軍航空隊に所属し、「空の宮様」と呼ばれた。
 1921年(大正10年)2月、賀陽宮邦憲王の第二女子である佐紀子女王と婚約が内定。同年3月に勅許が降りたが、様々な事情で延期が繰り返され、最終的に1922年(大正11年)7月19日に結婚した。しかし翌1923年(大正12年)9月1日、関東大震災のため山階宮家の鎌倉別邸は倒壊し、初子懐妊中の佐紀子妃が薨去した。
 1924年(大正13年)には民間航空振興のため、練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関として東京府下の立川陸軍飛行場の一部に「御国航空練習所」を創設した。
 佐紀子妃との死別当時、武彦王はまだ25歳であり、1925年(大正14年)7月に梨本宮家の規子女王と同年秋にも再婚すると発表された。婚約中は、規子女王を伴って立川の航空練習所を訪問したこともあったが、約1年後には、武彦王の「神経衰弱」が「回復捗々しからぬ」ため、皇族会議を始め宮中行事にも出席できない状態であり、婚約を辞退すると発表があった。翌1926年(大正15年)7月5日には、御国航空練習所は閉鎖された。
 当時の皇室典範では、皇族は養子を取ることができず、1929年(昭和4年)に末弟の茂麿王が臣籍降下したことにより、山階宮家の後継者はいなくなった。
 1929年(昭和4年)11月、少佐に進級するも待命(休職に相当)となり、1932年(昭和7年)には予備役に編入。当時、東京九段にあった山階宮邸には開かずの間ができたと噂された。甥の筑波常治の自著には、「邸の離れには、恐ろしい猛獣でもいるかのような気持であった」と回想している。
 1947年(昭和22年)、他の宮家とともに皇籍を離脱して山階武彦となり、公職追放となる。追放は、1951年(昭和26年)に解除された。その後も入退院を繰り返し、晩年は東京都世田谷区奥沢に移住した。1983年(昭和58年)8月17日、山階野生鳥獣保護研究振興財団を設立した。1987年(昭和62年)8月10日、老衰のため神奈川県藤沢市の医療法人社団清心会藤沢病院で逝去。 

 1900年(明治33年)7月5日、山階宮菊麿王の第2子として東京市麹町区に誕生した。昭和天皇とは実母(範子妃)を、香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたる。幼い頃から鳥に興味を持ち、6歳の誕生日に一つがいのオシドリの剥製を贈られる。
 1907年(明治40年)学習院初等科入学。学習院中等科のとき、陸軍中央幼年学校予科に入る。これは「皇族男子は軍人の道を歩まねばならない」とする明治天皇からの沙汰によるものであり、後に陸軍中央幼年学校本科、陸軍士官学校(33期)を経て陸軍少尉に任官。砲兵将校となる。
 1920年(大正9年)7月5日、貴族院皇族議員に就任したが、皇室の内規に従って臣籍降下を願い出て、7月20日の皇族会議で認められる。7月24日、大正天皇から山階の家名と侯爵の爵位を与えられ、従四位に叙せられ、貴族院議員を退任。陸軍砲兵中尉となるが、動物学研究の望みを断ち難く、軍を退役する。
 1925年(大正14年)4月21日、伯爵酒井忠道(旧小浜藩)次女の寿賀子と結婚。同年7月4日、貴族院侯爵議員に就任。1929年(昭和4年)4月、東京帝国大学理学部動物学科選科(のちの東京大学大学院)に入学し、2年にわたって動物学の基礎を学ぶ。
 1932年(昭和7年)、豊多摩郡渋谷町南平台町の山階侯爵邸内に山階鳥類研究所の前身である山階家鳥類標本館を設立した。1939年(昭和14年)、北海道帝国大学(のちの北海道大学)の小熊捍教授の指導を受け、鳥類の雑種における不妊性の研究に取り組む。1942年(昭和17年)、「鳥類雑種の不妊性に関する論文」によって北海道大学から理学博士号を授与された。
 その後、鳥類の染色体の研究に取り組み、1947年(昭和22年)に鳥類の分類に染色体による分類法を導入して、国内外から高い評価を得た。1949年(昭和24年)、関連論文の集大成『細胞学に基づく動物の分類』を上梓し、1950年(昭和25年)に日本遺伝学会賞を受賞した。戦後のタンパク質不足から、文部省から「ニワトリの増殖」について研究委託を受け、多産で肉質がよいニワトリの品種改良にも取り組んだ。その他、バリケンとアヒルの雑種ドバンの増殖研究にも力を入れた。鳥類の保護にも大きな熱意を注ぎ、日本鳥学会会頭,日本鳥類保護連盟会長,国際鳥類保護会議副会長,同アジア部会長等を歴任した。
 1977年(昭和52年)、鳥学の世界のノーベル賞とも言われるジャン・デラクール賞を受賞。1978年(昭和53年)、世界の生物保護に功績があったとしてオランダ王室から第1級ゴールデンアーク勲章を受章した。
 1989年(平成元年)1月28日、88歳で逝去した。
 日本鳥類三大図鑑のひとつと名高い『日本の鳥類と其生態 旧北区の部』の原色図版8枚にSUGAKOというサインが入っており、妻の寿賀子夫人が描かれた鳥が図版に使われたといわれている。 

安子女王 筑波藤麿

 1901年(明治34年)10月31日、山階宮菊麿王と同妃範子の第1王女子。旧名は、安子女王。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。母・範子は九条家の出身であり、貞明皇后の姪、昭和天皇の母方の従妹、香淳皇后の母方の従姉にあたる。安子女王を出産した後に体調を崩し、薨去している。菊麿王の後妻である常子妃に兄2人と共に育てられた。
 1920年(大正9年)11月9日、 侯爵・浅野長之の長男・浅野長武に降嫁する。その後、1男2女をもうける。1974年(昭和49年)12月29日、脳軟化症のため、東京慈恵会医科大学附属病院にて死去。73歳没。 

 1905年(明治38年)2月25日、山階宮菊麿王の第3王子として誕生。御七夜の3月3日に「藤麿」と命名された。
 1925年(大正14年)2月25日、皇族として貴族院議員に就任。皇族男子として初めて皇族軍人としての義務を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事する。義務を免除された理由は、明治天皇により、将来、伊勢の神宮の祭主となることが定められていたためとされる。1927年(昭和2年)3月に同学科を卒業した後、歴史研究を志し、東京代々木の自邸に筑波歴史研究室を作り、その年々の国史関係の文献目録を集めた『国史学界』を発行した。
 大学卒業後まもなく、1928年(昭和3年)7月20日、請願により臣籍降下が認められて筑波の姓を賜り、侯爵に叙せられる。降下に伴い、皇族としての貴族院議員資格も消滅した。「筑波」の姓は、父・山階宮菊麿王が気象観測所を立てた筑波山に由来し、父宮への思慕の念から縁ある地名を取ったものである。
 1928年10月、4歳下の毛利喜代子(毛利高範子爵の5女)と結婚。1935年(昭和10年)2月24日以降は侯爵議員として、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで貴族院議員を務めた。戦時中の食糧難の時代、華族の多くが闇市の食料や農家直買いで法外な値段で仕入れた食生活を送っていたのに対し、藤麿は潔癖すぎるほど国策に協力し、決して闇買いをせず、近郊農家への買出しにも行かず、配給と自宅の畑の野菜だけで切り詰めた食事を続けていた。そのことについて、長男の筑波常治は「同輩がすべて軍人になった中で、たった一人だけ違う道をすすんだかれの、コンプレックスのあらわれだった」と述べている。
 1946年(昭和21年)、靖国神社宮司に就任。宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議された。合祀はするという方針を取りつつも、時期については慎重に判断するとして、結局在任中には合祀しなかった。
 また、社団法人日本シェパード犬登録協会の会長職も務めていた。 

鹿島萩麿 葛城茂麿

 山階宮菊麿王第四王子。母は菊麿王妃常子。
 学習院中等科,海軍兵学校予科を経て、1926年(大正15年)3月、海軍兵学校(海兵54期)を卒業。同年4月20日、貴族院皇族議員に就任。翌年10月1日海軍少尉に任官するとともに勲一等旭日桐花大綬章を受ける。戦艦「伊勢」乗組となる。また遠洋航海が終了した同年6月13日頃から、兵学校時代より関心のあったユトランド海戦の研究に着手する。
 1928年(昭和3年)1月20日、一三式練習機を操縦して航空術講習を修了する。同年7月1日付で、願により臣籍降下が認められ、鹿島の家名を賜り伯爵に叙せられる。降下に伴い、同月20日、貴族院議員資格も消滅した。同月に戦艦「榛名」乗組となり、以後、横須賀鎮守府付,海軍大学校服務(戦史研究)などを経て、1929年(昭和4年)11月、海軍中尉に進級。海大選科学生(戦史研究)として学び、横須賀航空隊付となる。
 しかし、健康を害したため1932年(昭和7年)3月に待命となった。同年7月15日付で生涯唯一の著書『ジュトランド海戦史論』の序文を、静養先の鎌倉で書き上げた。同年8月26日、急性腹膜炎のため長谷別邸にて死去。満26歳だった。海軍大尉に没時進級した。
 逝去後の1932年(昭和7年)10月に遺産が東京養育院及び東京養老院に寄付された。1934年(昭和9年)4月に「伯爵鹿島萩麿記念奨学基金」が、萩麿の遺志に基づき後見人である兄・筑波藤麿によって創設された。同年に『ジュトランド海戦史論』が刊行された。 

 山階宮菊麿王の第五王子。母は菊麿王妃常子。
 1928年(昭和3年)4月28日、満20歳となり貴族院皇族議員に就任。1929年(昭和4年)7月に陸軍士官学校を卒業(陸士41期)。同年12月24日に願により臣籍降下して葛城伯爵家を創設し、貴族院議員を退任した。
 終戦時は陸軍中佐。1947年(昭和22年)、38歳で死去。長男の茂久が襲爵した。 死因は白血病であり、陸軍在籍中に原子爆弾の研究に関わり被曝したことが原因とされる。