<伏見宮 ― 梨本宮>

K606:霊元天皇  霊元天皇 ― 直仁親王 K841:閑院宮直仁親王


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直仁親王 典仁親王

 当時、既にあった宮家(伏見宮・有栖川宮・桂宮)は何れも天皇とは遠縁であり、皇統の断絶を危惧するも即位となれば天皇の近親者が相応しいとの考えから、宝永7年(1710年)8月10日、新井白石の建議により創設された。
 享保3年(1718年)、霊元上皇より直仁親王へ閑院宮の家号と所領1000石が下賜された。伏見宮,有栖川宮,桂宮,閑院宮を合わせて4宮家(四親王家)という。

 

 閑院宮直仁親王の第二王子として生まれる。寛保2年(1742年)、中御門天皇の猶子となり、その翌年に親王宣下を受けた。延享元年(1744年)、元服して大宰帥に任ぜられ、以後、典仁親王は「帥宮」と呼ばれた。寛延元年(1748年)、朝廷から二品に叙せられ、随身兵仗を賜わった。翌年、成子内親王を妃とする。宝暦3年(1753年)、父・直仁親王の薨去により、閑院宮を嗣ぐ。
 安永8年(1779年)、朝廷では、後桃園天皇が男子を残さないままに崩御したため、典仁親王の第六王子として生まれた師仁親王が践祚した(光格天皇)。安永9年(1780年)、典仁親王は一品に昇進した。寛政元年(1789年)、光格天皇は、父の典仁親王の宮中での地位が大臣より低いことから、太上天皇の尊号を贈ろうとし、側近の公卿・中山愛親を江戸幕府との折衝に当たらせた。幕府側では、老中の松平定信などが「皇位につかない私親への尊号宣下は名分を乱すもの」として強く反対した。しかし、朝廷側も譲らず、その後繰り返し交渉が行われたが、幕府側は典仁親王への尊号宣下をついに承認せず、寛政4年(1792年)、光格天皇もこれを断念した。この事件により朝幕関係は悪化し、松平定信が失脚する一因となった(尊号一件)。典仁親王は寛政6年(1794年)7月6日に薨去。典仁親王の第一王子である美仁親王が閑院宮を嗣いだ。
 明治17年(1884年)、中山愛親の曾孫で明治天皇外祖父の中山忠能は、典仁親王への尊号追謚を発議した。同年3月、典仁親王は明治天皇の高祖父であることを理由に、「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号を明治天皇から贈られた。以後、閑院宮典仁親王ではなく、慶光天皇または慶光院と称されるが、歴代天皇の代数には数えられない。

愛仁親王 載仁親王

 文政11年(1828年)に親王宣下・元服。天保11年(1840年)にはとこにあたる敏宮淑子内親王(仁孝天皇の第三皇女、孝明天皇と和宮親子内親王の異母姉)と婚約するも婚儀前に死去した。
 愛仁親王には嗣子がなかったため、愛仁親王没後は実母の鷹司吉子(東山天皇玄孫)が当主格に遇された。その後、明治時代に入って、伏見宮邦家親王第16王子の載仁親王が継承した。

 

 3歳で出家し真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続するが、1871年(明治4年)、伏見宮に復籍のうえ、翌年に前当主閑院宮第5代・愛仁親王の没後、孝仁親王妃・吉子が当主格に遇されていた閑院宮家を継承する。
 1877年(明治10年)、京都から東京に移り陸軍幼年学校に入学。1878年(明治11年)8月26日に親王宣下され、幼名「易宮」を改めて載仁親王と称した。1883年(明治16年)、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校,ソーミュール騎兵学校,フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て1891年(明治24年)に帰国。同年12月19日、三条実美の二女・智恵子と結婚。日清戦争では当初、第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した。その後、騎兵第1連隊長,参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)に陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任。
 日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献したという。その後、満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後、陸軍中将に進級した。
 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。1921年(大正10年)3月3日より同年9月3日まで、皇太子・裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。1923年(大正12年)9月1日、小田原の閑院宮別邸に家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。
 1931年(昭和6年)に参謀総長に就任。青年時から立派な髭を生やしており、「髭の参謀総長」と呼ばれた。この参謀総長就任は、当時の陸軍大臣・荒木貞夫の思惑があったとされる。在任中は皇族という出自もあり、傀儡として政治的に利用されることも多かった。派閥争いの激しかった陸軍内部では、どの勢力も参謀総長宮を抱え込むことによる発言権の伸張を図った。しかし当人は、直属の参謀次長として、ややもすれば独断で実務を切り回す皇道派の真崎甚三郎への反感が強く、いわゆる統制派に近い立場を取った。
 1940年(昭和15年)には、米内内閣の陸軍大臣であった畑俊六に辞表を提出するよう指示し、米内内閣瓦解の原因を作った。同年10月3日、参謀総長の地位を杉山元に譲って軍務から退き、議定官となる。
 1945年(昭和20年)5月20日、宮別邸にて79歳で薨去。直後の山手空襲で宮邸が炎上したため薨去に伴う儀式が大幅に削減されるなど、寂しい最後であった。翌月国葬を賜る。親王宣下による親王および邦家親王の32名の子女で最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬となった。

閑院春仁

 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校を卒業。原隊である近衛騎兵連隊にて見習士官を経て同年10月、陸軍騎兵少尉に任官。
 1932年(昭和7年)11月には陸軍大学校を卒業し、日中戦争には陸軍騎兵少佐・北支那方面軍参謀として従軍。陸軍大学校教官を経て1941年(昭和16年)4月、新設の総力戦研究所の聴講生となり、同年8月には陸軍大佐任官。太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)10月には戦車第5連隊長に補職。1945年8月には戦車第4師団の師団長心得。この師団は本土決戦のため九十九里浜を重点に千葉県内に配備されており、3個連隊約6,000名の大所帯であった。実際の指揮は隷下戦車連隊長の島田一雄大佐がとったとされるが、敵軍の上陸に備え九十九里浜・鹿島灘・相模灘等で準備中に終戦を迎える。終戦にあたり、大詔渙発の聖旨並びに停戦大命の徹底を期し、天皇の名代として南方(サイゴン)に派遣される。
 1945年5月20日、載仁親王の薨去に伴い閑院宮家を継承し、第七代閑院宮となる。
 1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮稔彦王は敗戦の責任を取るため、皇族の身分を離れる意向であることを表明した。賀陽宮恒憲王もこれに同調したが、春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と発言する等、このような動きに反発する皇族も多く、時の宮内大臣・石渡荘太郎も臣籍降下の勅許は得られないであろうとの見解を示した。
 1946年(昭和21年)5月23日、GHQより『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』が発せられ、財政上、従前の規模の皇室を維持することは困難となった。日本国憲法施行後から5ヶ月後、皇室会議の議を経て、正式に11宮家51名の臣籍降下が決定された。
 1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱、閑院春仁と名乗り公職追放となる。永田町の本邸跡地を売却した後、東京を離れ、かつての小田原別邸に移住する。1958年(昭和33年)7月31日、閑院純仁に改名。のち、直子夫人と離婚する。その後、直子がマスコミに純仁は同性愛者であったと語り、一時スキャンダルに見舞われた。上級将校には世話係として従兵がつく。純仁も同様であった。官舎はせまく寝室は一部屋だったため直子の隣のベッドで純仁はその従兵と同衾した。戦後は、純仁は当然のように三人で生活を送り、夫妻が喧嘩になるとその元従兵が直子を殴ったという。
 晩年はヨガに傾倒し、また地方の農業の改革を訴える活動を行っていた農民運動家に協力するなどしていたが、概ね静かな余生を送った。1988年(昭和63年)6月18日、直腸癌のため小田原市立病院で死去。これにより、宝永7年(1710年)以来278年続いた閑院宮家は絶家となった。