伏見宮 ― 梨本宮

K803:伏見宮邦家親王  (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 ― 朝彦親王 K806:久邇宮朝彦親王


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朝彦親王 多嘉王

 通称に中川宮他多数。諱もたびたび改名している。香淳皇后(昭和天皇后)の祖父。
 天保7年(1836年)、仁孝天皇の猶子となり、翌天保8年(1837年)に親王宣下、成憲の名を下賜される。天保9年(1838年)に得度して尊応の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、青蓮院門跡の第47世門主に就き、法諱を尊融と改める。青蓮院が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮または粟田宮と呼ばれた。その後には第228世天台座主にも就いている。
 尊融は天台座主,護持僧としての祈祷・勤行を通じて孝明天皇に接するうちに政治向きの相談相手ともなっていった。また嘉永7年(1854年)に御所で火事が起きると、青蓮院門跡となっていた尊融はいち早く孝明天皇が避難していた下賀茂神社に駆け付け、青蓮院を内親王の仮住まいに提供し、天皇の信頼を得た。
 尊融入道親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、江戸幕府13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老・井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融入道親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮と呼ばれた。
 井伊大老が翌万延元年(1860年)に桜田門外の変で暗殺され、文久2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には青蓮院門跡のまま孝明天皇の相談相手、政治顧問として国事御用掛に任命され朝政に参画、翌文久3年(1863年)8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。
 文久3年前半は長州藩を中心とした尊王攘夷派公卿が朝廷の主流だった。そして尊攘派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔だった。孝明天皇が大和に行幸し、その際に天皇自ら攘夷のための軍議を開き、それによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すという企てである。その上で勅許を待たずに条約を批准した幕府にこそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取らせようという算段でもあった。
 公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」として都から遠ざけられそうになった。しかし中川宮はこれを固辞し、政敵であり長州派の有力者のひとりだった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を譲った。
 即時攘夷は難しいと内心考えていた孝明天皇は三条実美らの尊攘過激派が勝手に大和行幸の詔を出すと、中川宮を呼び、よろしく対処せよと命じたため、「朝彦命脈あるかぎりはその説を斥け、佐幕の議を唱えん」と答えたという。孝明天皇から内意を得た中川宮は京都守護職を務める会津藩主・松平容保,薩摩藩の高崎左太郎,前関白の近衛忠煕,左大臣・二條斉敬らと謀り、八月十八未明に急遽参内し会津藩兵に御所の門を固めさせ、長州勢を追い払い、三条らの参内を禁ずる八月十八日の政変を断行した。
 同年、元服を済ませて朝彦の諱を賜り、親王任官職の二品弾正尹に任じられる。以後は弾正尹の通称である尹宮とも呼ばれた。
 八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐される(七卿落ち)と、朝彦親王や関白・二条斉敬は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うこととなり、「陰謀の宮」などと呼ばれるようになった。元治元年(1864年)、因幡国鳥取藩士・河田景与らを中心とした一部の尊攘派は、朝彦親王邸への放火や松平容保の襲撃を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった古高俊太郎に大量の武器を用意させた。しかし、計画途上で古高が新選組に捕らえられ、6月5日の夜に関与していた者の多くが潜伏していた三条木屋町の旅館・池田屋で闘死、もしくは捕縛された(池田屋騒動)。この年、宮号を引っ越し先の屋敷の栢の木から賀陽宮に改め、公武合体派の重鎮として孝明天皇を補佐した。京都御所南方の旧恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、賀陽宮は家禄1500石で宮家の列に新しく加わった。
 同年7月19日、長州藩兵が京都へ攻め上る蛤御門の変が勃発、その懲戒として幕府は前後2度にわたる長州征討を行ったが、1度目は長州藩のあっけない降伏により短期間で終結、慶応2年(1866年)に行われた2度目の征伐では長州藩の前に敗北を重ねる中で、幕府は14代将軍・徳川家茂を病で失い、同年9月に実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。12月には家茂の後を追うように孝明天皇が崩御し明治天皇が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。一方幕府では15代将軍となった徳川慶喜が意表をつく大政奉還によって国政の主導権を確保しようとしていた。
 慶応3年(1867年)12月9日、小御所会議において王政復古が決定し、これに伴い長州藩主・毛利敬親・広封父子や、有栖川宮熾仁親王,中山忠能,三条実美,岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。朝彦親王は1868年(明治元年)8月に徳川慶喜へ密使を送るなどし陰謀を企てたとして親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった。翌1869年(明治2年)3月6日には安芸国で幽閉されることとなった。
 1870年(明治3年)閏10月、政府から京都の伏見宮邸に護送する命令が下り、帰京。明治5年1月、謹慎を解かれて、伏見宮家の一員に復帰する。同年7月、東京移住を命令されるものの京都で暮らし続ける。
 1875年(明治8年)4月、一代宮家となる。同年5月、新たに久邇宮家を創設する。1883年(明治16年)7月11日、二代皇族に列せられた。1887年(明治20年)、次男・邦憲王が病弱のため、三男・邦彦王を継嗣と定める。1889年(明治22年)の旧皇室典範成立により、久邇宮家を含む全ての宮家が永世皇族となった。
 1875年(明治8年)7月、伊勢神宮の祭主に就任する。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られるほか、親王が書き残した日記は『朝彦親王日記』と呼ばれ、幕末維新史料として重視されている。
 朝彦親王は当初は伏見宮貞敬親王の子とされていたが、皇室典範制定直後の1889年(明治22年)11月、貞敬親王の子の邦家親王の子であると訂正がなされた。これにより継承順位が17位から10位に上昇した。1890年(明治23年)2月、貴族院皇族議員に就任。1891年(明治24年)10月25日、S状結腸潰瘍のため死去。墓所は泉涌寺。 

 1909年(明治42年)9月23日、伊勢神宮祭主となる(男性の祭主としては最後)。
 1907年(明治40年)に皇室典範が増補され、王が臣籍降下し華族となる道が開けた。従来は男子皇族の臣籍降下は認められておらず、男子が絶えぬ限り皇族が増え続けることとなっていた(永世皇族制)。しかし、皇族が養子をとることは禁じられていたため、男子のいない宮家は断絶することとなっていた。皇室典範増補により当時の宮家当主及び跡継ぎではない王は皆一様に臣籍降下し華族となり爵位を賜ったが、多嘉王のみ臣籍降下しなかった。これには「西久邇宮」創設のために温存されたとの説がある。多嘉王家は京都市上京区の久邇宮別邸に住まい、久邇宮本家からは独立した生活を送り、その子らは東京の学習院ではなく京都市内の学校にて学んだ。

宇治家彦 邦彦王

 1920年(大正9年)3月17日、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
 京都府立京都第一中学校,第三高等学校理科乙類を経て、1940年(昭和15年)に京都帝国大学理学部物理学科に入学。1940年(昭和15年)3月17日に成年を迎え、貴族院議員となった。
 当時は学徒出陣を前に、大学の修業年限が短縮されており、家彦王も京都帝大を繰り上げ卒業後、1942年(昭和17年)9月、第32期技術科士官として海軍に採用される。第32期は1000名を超える大所帯で、日本本土に適切な訓練施設が無かったため中国大陸山東半島の青島で初級士官教育を受ける。なお、軍学校を経ずに皇族軍人となった稀有な例である。同年10月5日、請願による臣籍降下が認められ、「宇治」の家名を下賜され伯爵となるとともに、貴族院議員の資格が消滅した。翌1943年(昭和18年)1月、海軍中尉に任じられ、海軍技術研究所電気研究部に山崎晃市とともに配属される。終戦時は海軍技術大尉。戦後は母校の京大理学部物理学教室研究嘱託に就いた。 

 久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。
 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、1891年(明治24年)には朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。1904年(明治37年)には日露戦争に出征。戦功により歩兵少佐に進級し功四級金鵄勲章を受章する。以後も累進し1910年(明治43年)に歩兵第38連隊長、1917年(大正6年)、第15師団長,近衛師団長,軍事参議官を歴任する。
 第一王女の良子女王は1918年(大正7年)1月に皇太子・裕仁親王との婚約が内定したが、後に婚約破棄や山縣有朋暗殺説が飛び交う宮中某重大事件と称する事件へと発展した。発端は枢密院議長・山縣有朋が良子女王の母方である島津家に色盲の遺伝ありと軍医学校教官の草間要より聞いたことに始まる。他にも山縣は良子女王の兄・朝融王が学習院の身体検査において色弱の疑いがあると診断されたとの情報を良子女王の担当医・平井政遒より得て、皇室に色覚障害の遺伝子が混ざることを恐れた山縣は元老・西園寺公望,松方正義と内談する。両元老は山縣に同意し、久邇宮に婚約を辞退させようと謀る。医師団の見解としては良子女王には色覚異常は認められないものの、色覚異常の遺伝子を有しているために皇子に遺伝する可能性があると判断した。山縣はこれを受けて邦彦王に婚約解消を迫るが、邦彦王は貞明皇后に拝謁し直訴するに及び、また宮内省は1921年(大正10年)2月10日に「良子女王殿下東宮妃御内定ノ事ニ関シ世情種々ノ噂アリヤニ聞クモ、右御決定ハ何等変更ナシ」と発表する。宮内省がこの発表を行った頃には過激派が山縣や時の首相原敬、他の皇族を暗殺するとの噂があり、山縣が皇族に危害が及ぶ前に解決を図ったものである。この発表があるまで報道が禁止されていたため、新聞は一斉にこの件を宮中某重大事件として報じたが、そもそも真相が分からないため複数の高官が辞表を提出するなどの憶測を報じていた。事件が解決し皇太子と良子女王は3年後の1924年(大正13年)1月26日に成婚となった。一方、政界に隠然とした勢力を保ち続けていたさしもの山縣も、この件を契機に急速にその影響力を失っていく。ところが翌年に長男の朝融王と酒井菊子の婚約破棄の問題が発生、この問題で邦彦王は先件とは逆の立場に陥ったため、婚約相手の酒井家や宮中からも大きな批判を受ける。結局婚約破棄は実現したものの、摂政宮から訓戒処分を受けることとなった。
 外戚となった邦彦王はしばしば皇居に出入りし、のみならず皇室に金の無心をするようになった。特に自邸の改装費に関しては、貞明皇后を怒らせるまでに至った。しかしこのような邦彦王の行動は当時は一切表沙汰にはならなかった。 

久邇朝融 良子女王

 久邇宮第3代当主。香淳皇后の兄。1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と俔子の第1王子として誕生。
 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われ、同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
 1924年(大正13年)頃、婚約が内定した伯爵・酒井忠興次女菊子との婚約を朝融王が破棄するスキャンダルが発生し、最終的に、酒井家側に落ち度はないものの同家が婚約を辞退することで決着した(菊子に節操に関する疑いがあるとの噂が流れたが、事実無根であった)。
 1925年(大正14年)1月26日、元帥海軍大将・伏見宮博恭王第3王女の知子女王と結婚する。しかし、1928年(昭和3年)、朝融王は鎌倉に単身赴任中、妻のいないすきに侍女と関係を持ち妊娠させる。知子女王は、事務官に父親の伏見宮博恭王に知らせないでほしいと告げる。侍女は他家へ嫁がされ、侍女の産んだ子供は事務官の手配で農家の養子になった。侍女には5000円、養子先の農家には1万円が支給された(当時の総理大臣の年俸は1万円に満たない額だった)。朝融王の3女・通子は戦後、「(父は)いろんな女性に、1ダースではきかないほどご落胤を生ませている」と述べている。
 1929年(昭和4年)1月27日の父宮の薨去を受けて久邇宮家を継承する。妃知子女王との間に、8子を儲けた。1947年(昭和22年)
6月28日、妃知子女王が薨去する。
 1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱し、久邇朝融と名乗った。海軍軍人であったため公職追放となる。戦後は東京・立川のオパレスク化粧料本舗が1948年(昭和23年)頃から売り出した「久邇香水」に名義貸しビジネスをするなど、いくつかの事業を興すがいずれも上手くいかず、赤字を補填するために渋谷区宮代町の本邸,静岡県熱海別邸と新潟県赤倉別邸を売却し、渋谷区常磐松町の母・俔子の隠居所に5人の子供と転がり込んだが、ここも飯野海運社長・俣野健輔の手に渡った。
 生活に窮した朝融は、東本願寺に嫁いでいる妹・大谷智子裏方に頼み、当時米国留学中だった大谷光紹の住まいである、京都市左京区の大谷家聖護院別邸に入ろうとしたが、真宗大谷派門徒の反対に遇い断念した。
 女性関係の派手さは相変わらずで、当時の宮内庁長官や昭和天皇も苦言を呈している。1959年(昭和34年)12月7日に死去。

 第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位: 1926年12月25日~1989年1月7日)。お印は桃。
 久邇宮家出身の生まれながらの皇族であり、誕生から昭和天皇の践祚以前は、名と身位は良子(ながこ)女王と称され、皇室典範における敬称は「殿下」であった。
 1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子・裕仁親王(のちの昭和天皇)と成婚し、2男5女を儲けた。1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御及び昭和天皇の践祚に伴い、皇后に冊立された。
 1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御し、第1皇男子の皇太子明仁親王(上皇)が第125代天皇に即位し、その妃・美智子が立后して皇后となったことに伴い、自身は皇太后となった。1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、藤原寛子(後冷泉天皇后)の数え年92歳を抜いて神代を除いては皇室歴代最長寿となった。
 2000年(平成12年)6月16日に崩御し、当時の天皇勅定により「香淳皇后」と追号された。
 夫たる昭和天皇が神代を除いた歴代天皇のうち最長在位であるように、香淳皇后自らも歴代皇后の中で最長の在位(62年と14日間)であり、神代を除き最長寿(満97歳没)である。また、皇族出身である直近最後の皇后かつ皇太子妃である。
 2019年(令和元年)の第126代今上天皇践祚/即位時において、昭和天皇・香淳皇后夫妻が皇位継承権を有する3人の親王(秋篠宮文仁親王,悠仁親王,常陸宮正仁親王)の最近共通祖先にあたる。

智子女王 信子女王

 香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。
 1906年(明治39年)9月1日、久邇宮邦彦王と俔子の第3王女子(第5子)として誕生。御七夜の9月7日に「智子」と命名された。
 1918年(大正7年)1月に良子女王と皇太子裕仁親王との婚約が内定すると、良子女王は久邇宮邸内に建設された学問所で教育を受けるようになり、良子女王の学友2名と、姉宮である信子女王と智子女王の2名も共に教育を受けた。
 浄土真宗の宗祖・親鸞の末裔で東本願寺の住職を世襲した大谷家(伯爵家)の法嗣(法主後継者)・大谷光暢と婚約し12歳で京都へ移る。1924年(大正13年)5月3日、大谷光暢に降嫁した。東本願寺では、皇族女子と新法主の婚礼を盛大に祝賀した。
 降嫁の翌年、光暢の父・大谷光演が巨額の負債を抱え、限定相続によって法主を譲職したため、急遽1925年(大正14年)10月に光暢が法主となったことに伴い、智子も法主夫人すなわち「お裏方」となった。同月には、大谷夫人法話会の会長として女性としてのあるべき姿を説いたが、内容は時代の制約から良妻賢母像を求めるものであり、現代の価値観・視点からは批判もある。
 1938年(昭和13年)1月13日から夫の光暢が中国の華北・華中を慰問すると、智子も同月31日に同地を訪問した。智子は、天津在住の実業家で信仰心の篤い平林千賀子の仲介で、北寧鉄路局長だった陳覚生の未亡人である陳鮑蕙と面会し、鮑蕙は夫の遺産で仏教精神の女学校を建設し、東本願寺に運営を委ねたいと申し出た。こうして、同年9月には北京に北京覚生女子中等学校が創立され、智子は同校の名誉校長に就任した。日中提携の中国人女子の高等教育学校に、日本の元皇族が関与していることは、現地でも大きな話題となった。1943年(昭和18年)10月、光暢と知子は満州国及び華北における開教地巡回を行った際、同月20日に智子は名誉校長として初めて覚生女子中を訪問し、日華提携の先駆けである同校に大きな期待を寄せた。
 中国に設置された西欧のキリスト教系学校が宗教儀式に偏った文化的侵略の側面があったため、西洋式に変わる日本・中国式教育の覚生女子中は、年々生徒数が増加していたことからも現地の中国人にも大きな期待を寄せられていたと考えられている。幼稚園や日本語学校の併設など、徐々に規模が拡大していった。なお覚生女子中は、日本の敗戦後に廃校になっている。
 また、智子は、京都にも仏教精神に基づく女学校を建設する意欲を持ち、翌1939年(昭和14年)7月に学校法人光華女子学園の設立を文部省に届け出た。そして、1940年(昭和15年)4月に光華女子高等女学校が開校し、学園理事長には大谷瑩誠が、総裁には智子がそれぞれ就任した。さらに、大谷婦人会会長や全日本仏教婦人連盟初代会長を務めた。
 また、合唱グループ「大谷楽苑」を結成し、仏教音楽の普及にも尽力した。智子自身も、1963年(昭和38年)3月9日に催された香淳皇后の還暦祝いのパーティーで、皇后と姉妹でクラシック歌曲の重唱を披露している。
 1960年代以降、大谷家と改革派の主導する真宗大谷派内局とに生じた紛争(お東騒動)においては、一貫して4男・大谷暢道(のちの大谷光道)を支持し、この紛争に重要な影響を与えたともいわれる。
 1989年(平成元年)11月15日、病のため逝去。享年84(満83歳没) 。10代前半から短歌を詠み、83歳で亡くなるまで約2000首を残した。2008年(平成20年)、歌集「白萩の道」が出版されている。 

 香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。
 1904年(明治37年)3月30日、久邇宮邦彦王と俔子の第2王女子(第4子)として誕生。御七夜の4月5日に「信子」と命名された。 
 久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。こうした中、姉・良子女王と妹・智子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした。信子女王と智子女王は、良子女王に心酔し、姉宮の一挙手一投足を真似るほどだった。
 1918年(大正7年)1月に良子女王と皇太子裕仁親王との婚約が内定すると、良子女王は久邇宮邸内に建設された学問所で教育を受けるようになり、良子女王の学友2名と、妹宮である信子女王と智子女王の2名も共に教育を受けた。
 信子女王自身は、1924年(大正13年)12月9日に、三条西実義伯爵の嫡男・三条西公正に降嫁した。1936年(昭和11年)9月9日、婦人教化団体である大日本連合婦人会の理事長に推され、受諾した。翌1937年(昭和11年)9月11日、会長就任依頼を受諾。同会は1941年(昭和16年)末に解散を決議し、翌年2月に大日本婦人会に統合された。同時期には、吉岡彌生とともに国民精神総動員中央連盟の評議員も務めた。
 1945年(昭和20年)11月8日に逝去した。享年41歳。これに伴い、実姉の香淳皇后をはじめ皇族・王公族が喪に服した。

久邇邦久

 学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1922年(大正11年)3月10日、貴族院皇族議員に就任。1923年(大正12年)、陸軍士官学校を卒業する(35期)。同年10月25日、臣籍降下し皇族議員を退任し侯爵を授爵、久邇の家名を賜り従四位に叙せられる。1932年(昭和7年)3月9日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任。1935年(昭和10年)、浴室において脳出血で死去した。
 初め公爵・島津忠済の女・量子と結婚、後に離婚し子爵・松浦靖の2女・董子と再婚した。妻の董子は邦久との間に子がなかったことから邦久逝去の後久邇家を離れる。久邇家は、伯爵・三条西公正と妹・信子女王の2男・実英(実栄と改名)が養子となり跡を継いだ。実栄はその後、田口茂の長女・操と結婚した。