<伏見宮 ― 久邇宮 ― 賀陽宮>

K806:朝彦親王  (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 ― 朝彦親王 ― 邦憲王 K807:邦憲王

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邦憲王 恒憲王

 久邇宮朝彦親王の第二王子で、母は家女房の泉亭静枝子。1874年(明治7年)3月15日、名を巌麿王とするが、1886年(明治19年)7月21日に邦憲と改名する。王は第二王子であるが、兄王は生後間も無く薨去しているため実質長男であり、久邇宮の継嗣であったが生来病身のため、弟の邦彦王に家督を譲った。
 1891年(明治24年)父の朝彦親王が薨去。これを受けて邦彦王は久邇宮を継承、邦憲王は結婚を控え京都に一家を構えるにあたり新たな宮家設立を明治天皇に請願し勅許を得、1892年(明治25年)11月17日、結婚に先立ち賀陽宮の称号を賜わる。賀陽宮の名は、朝彦親王邸の榧の木に由来する。また、江戸期に親王号を一時剥奪されるまで、父の朝彦親王が称していた宮号でもある。翌日の11月26日、従一位侯爵醍醐忠順の長女・醍醐好子と結婚する。好子妃との間に1男2女をもうける。
 1895年(明治28年)、神宮祭主に就任。1900年(明治33年)5月9日に賀陽宮家を創立(これは、先の25年の時点で称号としての賀陽宮ではあったが王家には非ず、久邇宮家の一員であったことを意味する)。
 1909年(明治42年)12月、腸狭管症のため42歳で薨去する。

 軍人として陸軍中将に昇り東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。また、終戦が決まると皇族の臣籍降下も主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下しその3日後には区役所にて住民手続きし賀陽恒憲となる。臣籍降下直後に公職追放となる(1952年解除)。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、1934年(昭和9年)にはアメリカ・ニューヨーク、ヤンキー・スタジアムで試合を観戦した。
 終戦後、御歌所長を務めた後、日清生命社友会会長などの公職を歴任した。 王の邸宅はかつて閑院宮載仁親王や久邇宮邦彦王が居住していたが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。

佐紀子女王 賀陽邦寿

 1903年(明治36年)3月30日、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子として誕生。京都府立第一高等女学校を卒業。
 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられたが、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日に結婚の儀を執り行い、山階宮武彦王と結婚した。
 翌1923年(大正12年)9月、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した。圧死であった。
 佐紀子女王を守ろうと、好子妃や侍女、そして侍医が身を重ねたが、間もなく建屋が崩壊した。瀕死の侍医に、好子妃はその死が「国家の損失である」と声をかけ、侍医はその言葉に感謝しつつ絶命した。夫の武彦王は、追浜(現横須賀市)から自動車で駆けつけ、震災発生から約2時間後に妃の遺体に対面した。佐紀子女王の遺体が発見された際、結婚以前から仕えていた侍女の石島祥(石嶋祥子とも)が、佐紀子女王を守ろうと覆いかぶさるようにして殉死していた。武彦王は、胎児だけでも助からないかと下問したが、侍医がその可能性も無いことを告げると、好子妃は涙を流して悲しんだ。遺骸は、防腐処理の上で鎌倉御用邸内のテントに移された。テントには、負傷した母・好子妃も身を寄せ、武彦王は妃の通夜と、姑の看病に臨んだ。武彦王は、横須賀の海軍航空隊に勤務しており、同部隊からテント等の資材や警護人員の差出を受けた。
 妻子を喪った武彦王は精神疾患を発症し、梨本宮家の規子女王との再婚も破談となった。なお、同震災では、藤沢市で東久邇宮稔彦王第2王男子の師正王が、小田原市で閑院宮載仁親王第4王女子の寛子女王がやはり遭難し、皇族ではあわせて3名が落命している。後年、昭和天皇は皇族の薨去があったことを理由に、9月1日を「慎みの日」としていた。

 1922年(大正11年)4月21日、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第1男子として誕生。学習院中等科を経て、東京陸軍幼年学校(40期)卒業後、1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校(55期)を卒業。陸軍少尉に任官する。大尉時代には早淵四郎中将の下で豊橋第一陸軍予備士官学校の教官を務め、精神訓話と戦術の講義を担当した。
 1942年(昭和17年)4月21日、満20歳に達し、貴族院の皇族議員となる。同年12月7日に、成年式が執り行われた。
 同年から南方を転戦。陸軍大尉として、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦を迎える。1946年(昭和21年)5月23日付で、他の皇族男子と共に貴族議員議員を離職した。
 復員後、1946年に京都大学経済学部に入学。大学在学中、1947年10月14日、他の皇族と共に臣籍降下(皇籍離脱)し、以降は賀陽邦寿となる。1950年、京都大学経済学部を卒業。東京銀行や日本国土開発などへの勤務を経て、後に賀陽会を主宰、賀陽政治経済研究所を設立し、所長となった。
 また、第8回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。大日本居合道連盟初代会長を務めた。1986年(昭和61年)4月16日、心筋梗塞のため旅行中の台湾で客死。
 邦寿が会長を務めた「日本経営功労顕彰委員会」という団体は、2万8000円から6万8000円を支払った中小企業経営者に「功五等位」から「功一等位」という称号を与えていた。賞勲局はこれを問題視し調査にまで発展している。また、同じく邦寿が会長を務めた「時事新聞社社会事業団」という団体も、全国の中小企業の社長や商店主に菊の紋章入りの「経営褒華賞受賞資格推薦書」という称号を送っており、これを受賞するためには5万円を支払う必要があったという。