<伏見宮 ― 梨本宮>

K801:貞清親王  (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 守脩親王 K811:守脩親王

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守脩親王 守正王

 天保4年(1833年)4月親王宣下。守脩と命名される。同年9月に円満院に入り、出家し覚諄入道親王を名乗る。安政3年(1856年)二品に叙せられる。
 安政6年(1859年)6月、円融院に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改めた。親王は天台座主も務めたが、明治維新後は他の皇族と同様に還俗し、梶井宮守脩親王を名乗った。明治2年(1869年)上野太守に任ぜられる。明治3年(1870年)、宮号を梨本宮に改称する。1881年(明治14年)9月薨去。63歳。
 親王には継嗣となる王子が無かったため、山階宮晃親王の王子・菊麿王を養子とした。

 

 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代・守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされる。
 1894年(明治27年)3月、満20歳となり貴族院議員に就任。1896年(明治29年)に陸軍士官学校卒業後、歩兵第11連隊附。1903年(明治36年)にフランス留学。これに先立つ、1900年(明治33年)に鍋島直大侯爵の2女・伊都子と結婚。方子女王,規子女王の2女をもうける。1904年(明治37年)11月3日に大勲位菊花大綬章を受章した。
 日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第3軍付き武官として出征した。この功績により、1906年(明治39年)4月1日に功四級金鵄勲章を受章。日露戦争の勝利後、再度フランス留学。フランス陸軍大学校卒業。第一次世界大戦では第16師団長など部隊長を歴任し、陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜った。1940年(昭和15年)4月29日には大勲位菊花章頸飾を受章。軍事参議官,日仏協会総裁,在郷軍人会総裁,大日本武徳会総裁などを歴任。敗戦後、陸軍解体直前の 1945年11月30日に退役した。
 第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)には、伊勢神宮祭主に就任した。1945年(昭和20年)には皇典講究所第6代(最後)総裁に就任した。
 敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、1945年12月2日に連合国軍最高司令官総司令部から日本政府に逮捕命令が出された。結果的に皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。本人も身の覚えがないと自覚しており、半年後に不起訴で釈放されたが、宮邸に帰宅してみると、集団強盗に襲われ家財の多くが盗難に遭っていた。同じ皇族の将官でも、統帥部長を長く務め軍部の動向にも大きく影響を及ぼした閑院宮載仁親王,伏見宮博恭王や大戦中に軍司令官を務めた東久邇宮稔彦王,朝香宮鳩彦王に比べれば、ほとんど軍務や時勢には関与していなかった。同じくA級戦犯に指定されて出頭せずに自殺した近衛文麿は、守正王が出頭した新聞記事を見て「宮様も宮様だ。なぜ陛下のために、日本のために何故自決して下さらなかったのか」と無念そうに嘆いたという。
 1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。連合国軍占領統治下の1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱。同月公職追放。1951年(昭和26年)1月1日、自邸で逝去した。76歳没。逝去後の1952年3月に公職追放を解除された。

方子女王 規子女王

 梨本宮守正王と同妃伊都子の第1王女子。肥前佐賀藩主・鍋島直正の曾孫。皇室典範における敬称は殿下。日本国内で王公族として皇族に準じる待遇をうけた李垠(旧大韓帝国、高宗第七皇子)に嫁した。「李方子」は、第二次世界大戦後、王公族としての身分を喪失したことにより夫の姓を名乗ったものである。
 皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補の一人として取り沙汰されたが、学習院女子中等科在学中に李王世子(当時)である李垠と婚約した。自らの婚約を知ったのは、1916年(大正5年)8月3日の早朝、手元にあった新聞を何気なく開いて記事を発見した際である。大変ショックを受けたが、母・伊都子妃から宮内大臣を通じ「天皇の思し召し」であると説明を受けた。正式に梨本宮守正王から婚約を告げられた時には、「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます」と答えたという。
 しかし、母・伊都子妃は後年公開された日記の中で、方子女王の縁談がまとまらず、寺内正毅朝鮮総督を通じ極秘裏に李王家(王公族)に縁談を申し込み、表向きは天皇の命令としたことを告白している。梨本宮家には方子女王と、妹の規子女王の姉妹しかおらず、近い将来の絶家が確実だったため、皇族との縁組を強く希望していた。方子女王と李王世子垠の結婚に向けて、(日本の)皇族と王公族の身分の取り扱い問題が表面化し、最終的に1918年(大正7年)11月28日に皇室典範第39条が増補されて、皇族女子と王公族の結婚が容認された。同年12月5日に結婚の勅許が下りた。
 1918年(大正7年)12月8日に納采の儀が行なわれた。女子学習院卒業後、1919年(大正8年)1月25日に婚儀の予定だったが、直前に義父にあたる李太王(高宗)が脳溢血のため死去。これには日本側の陰謀による毒殺説が存在し、三・一運動の引き金ともなった。このため婚儀は延期された。李垠の服喪期間について、李王純宗を含む朝鮮側は数えで2年(実質3年)を主張したが、大正天皇は早期の結婚を要望し、皇族同様に1年の喪に服すこととなった。
 喪が明けた1920年(大正9年)4月28日、李垠と婚姻した。厳密には非皇族男性への降嫁であるが、婚姻に際し、大正天皇の「御沙汰」によって、女王の身位を保持することとなった。
 婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生した。婚礼に際しては、和装(十二単)・洋装に加え、朝鮮服も準備された。方子自身は当時を「夢のようにしあわせな日々」と回想し、1921年(大正10年)、第1子・晋が誕生する。
 1922年(大正11年)4月、夫妻は、晋を連れて日本統治下の朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨んだが、帰国直前に晋は急逝した。急性消化不良と診断される。李太王を毒殺されたと考えた朝鮮側による報復の毒殺説がある一方で、日本軍部による毒殺説も流布されている。第1子を失った方子妃は、日本に留学した李垠の異母妹・李徳恵の身辺を親身に世話した。
 1927年(昭和2年)5月から翌1928年(昭和3年)4月まで、夫妻は欧州を訪問した。その後、1923年(大正12年)と1930年(昭和5年)の2度の流産を経て、1931年(昭和6年)12月、第2子・玖が誕生した。
 1945年(昭和20年)の日本の敗戦による朝鮮領有権喪失、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴って王公族の身分を喪失し、1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効による日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した(旧朝鮮籍のため無国籍となった)。李垠は財産税法による多額の税を課され、また身分に執着する弱みを握られ邸宅・資産を売却しながら、細々と生活を送っていた。大韓民国の初代大統領であった李承晩は、譲寧大君の子孫であることを誇り、現実的には王政復古を怖れ、嫡流の李垠に敵対的であった。
 一人息子の李玖は、長じて米国に留学し、1957年(昭和32年)にマサチューセッツ工科大学を卒業した。夫妻が卒業式に出席するため米国訪問を希望した際には、大学の招聘状を根拠に、日本政府が旅行証明書を発行した。訪米時に玖からジュリア・マロックを紹介され、方子も好感を持った。親子で米国で生活を送るが、1959年(昭和34年)3月、李垠が脳血栓に倒れ、同年5月に日本に戻る。翌1960年(昭和35年)に再度渡米を企図したが、招聘状等がないため旅行証明書を発行してもらえないため、夫妻は日本国籍を取得した。
 1960年に李承晩が失脚すると、1961年(昭和36年)11月に訪米途上の朴正煕国家再建最高会議(当時)が病床の垠を見舞い、帰国を歓迎する旨を表明した。翌1962年(昭和37年)、大韓民国の国籍法の規定に基づき、夫妻が「韓国籍を回復」したことが告示された。1963年(昭和38年)11月21日、夫妻はようやく帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内に住居を構えることとなった。1970年(昭和45年)4月28日に金婚式を記念したミサを病院で開き、その3日後の5月1日、李垠と死別した。
 韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮王朝の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、"明暉"は李垠の、"慈恵"は方子自身のそれぞれの雅号である。方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、全斗煥大統領政権下の1981年(昭和56年)には、韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
 また、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を務めている。また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳皇后,皇太子・明仁親王・皇太子妃・美智子(当時)を始めとする日本の皇族とも会い、戦後の皇室との交流を設ける機会はあった。
 1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王・同妃百合子夫妻が参列した。後に韓国国民勲章(勲一等)を追贈された。 

 梨本宮守正王と同妃伊都子の第2王女子。広橋真光伯爵の妻。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。姉は、李方子。香淳皇后は従姉にあたる。
 規子女王は乳児期から落ち着いた様子であったという。1925年(大正14年)7月、山階宮武彦王と同年秋にも結婚すると発表され、規子女王は学習院を退学した。内約中は、武彦王が創設した御国航空練習所を訪問し、強い関心を示した。しかし、武彦王は前妃を関東大震災で失って以降、神経衰弱を発病しており、まだ10代と若い規子女王への配慮から、翌1926年(大正15年)年7月に婚約を辞退すると発表があり、8月に正式に破談となった。
 1926年(大正15年)12月2日、広橋真光伯爵に降嫁した。その後は、慈善活動を行い、戦中は大日本婦人会の渋谷支部長として活動していた。
 1985年(昭和60年)8月25日、脳腫瘍のため、東京女子医科大学病院にて逝去した。 

梨本徳彦

梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰[1]。梨本家(旧梨本宮家)前当主。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦という。
 久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。京都府立京都第一中学校を経て、1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同年11月19日に貴族院皇族議員となる。
 1943年(昭和18年)4月2日、勲一等旭日桐花大綬章を受章し、成年式が執り行われた。同年6月1日、海軍少尉に任官。6月7日、旧皇室典範増補第1条に基づき、本人の情願により、一時金を賜って臣籍降下し龍田伯爵家を創設する。これに伴い同日、貴族院皇族議員を失職した。昭和天皇より賜った「龍田」の家名は、近江国の久邇宮家旧領地にある龍田神社にちなんだものとされる。皇族の臣籍降下による華族家創設も、伯爵の叙爵も、龍田が最後である。
 1945年(昭和20年)4月22日、民間人として久邇宮朝融王第一女子の正子女王と結婚する。戦後は松下電器産業・東京丸物(パルコの前身)などに勤務し、松下電器時代にはニュース映画で「はたらく貴族」と題して紹介された。ただし旧皇族の肩書きを利用されることもあって不快だったという。
 1966年(昭和41年)に、夫婦揃って梨本宮守正王妃であった梨本伊都子の依頼で、同家の養子となって祭祀を継承する。姪夫婦が梨本家の後継者となったことに、香淳皇后は大変喜んだという。しかし、妻の正子とは1980年(昭和55年)に調停離婚した。その後、同居していた愛人も病で倒れ、独り暮らしとなる。
 晩年には自らのお印に由来する「鳳凰会」の総裁となったが、金銭管理に関わるトラブルに巻き込まれていた。また、日本文化振興会という団体の名誉総裁を務めており、旧宮家の名前を用いたビジネスを行っていた。そのビジネスとは、ある人物を表彰するにあたって、その対象者から多額の礼金を募るものであった。礼金は50万円であったとの証言が臨済宗妙心寺派興禅寺の住職からなされている。さらに2004年・2005年には、徳彦が名誉総裁となっていたNPO法人「やまびこ会」が、元本保証と高配当を約束して焼却炉販売事業への出資を募り約1000人から10数億円を集めたものの、配当未払いを理由に詐欺や出資法違反容疑で警視庁に告訴されている。同NPO法人は他にも「霊芝」などのキノコ栽培により収入を得るというビジネスで出資金を集めるなどしていたことから、結果的に法人の代表理事ら4名が詐欺容疑で逮捕されるという事態にまで発展している。2006年には、伊勢神宮の灯籠を建て替えると嘘の話を出し寄付を募った団体の名誉総裁としても徳彦の名前が見える。2002年(平成14年)、名義を貸した団体の詐欺疑惑に巻き込まれることもあった。
 2007年(平成19年)2月7日、死去。梨本宮家は2代目から6代目まで全て養子であり、6代目梨本隆夫が養子で梨本家は継続しており、自民議連・旧宮家復活の中に梨本宮家も含まれている。