<伏見宮 ― 久邇宮 ― 朝香宮>

K806:朝彦親王  (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 ― 朝彦親王 ― 鳩彦王 K808:鳩彦王

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鳩彦王 朝香孚彦

 1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。朝香宮の宮号は、朝彦王が伊勢神宮の祭主をつとめた縁で、伊勢にある朝香山にちなんで名づけられたという。1910年(明治43年)に明治天皇皇女・允子内親王と結婚した。
 鳩彦王は学習院,東京陸軍地方幼年学校,陸軍中央幼年学校を経て1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校を卒業し、同年12月25日、陸軍歩兵少尉に任官し、近衛歩兵第2連隊附となった。また、1907年(明治40年)10月4日、貴族院議員に就任した。
 1914年(大正3年)11月に陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第61連隊中隊長となる。大正11年10月から14年12月まで「朝伯爵」の仮名でフランスに留学した。
 1923年(大正12年)4月1日復活祭の日曜日、義兄・北白川宮成久王の運転の車でで事故(アカシアの巨木に衝突)に遭い、成久王は死亡し、後部座席の鳩彦王も重傷を負った。顎を砕かれたほか右足大腿中央部骨折、左の親指と人差指を骨折した。この事故後、右足は少し不自由になった。
 怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、1925年(大正14年)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。後の1933年(昭和8年)に完成した東京都港区芝白金台町の朝香宮邸は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。
 その後、陸軍少将,陸軍中将と昇級し歩兵第1旅団長,近衛師団長,軍事参議官を歴任する。1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加、現地にいたこともあって、いわゆる南京事件の実際の責任者の一人として疑いが持たれている。
 1938年(昭和13年)11月、恩賜財団軍人援護会の総裁に就任(これ以前より大日本軍人援護会の総裁にあった)。1939年(昭和14年)8月には陸軍大将に昇った。後の太平洋戦争(大東亜戦争)終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。また、小磯内閣当時には杉山元陸軍大臣の更迭を求めて運動したこともあった。
 1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。1947年(昭和22年)、GHQの命令により同年10月14日に皇籍離脱。公職追放を受けた。皇籍離脱時、一時金目当ての「うまい話」には一切乗らず、白金台の本邸を外務大臣公邸として貸し、1928年に建てた熱海の和館別荘に居を構えてゴルフ三昧の優雅な暮らしぶりだったという。1981年(昭和56年)4月12日に93歳で没した。

 第124代天皇・昭和天皇は従兄、第125代天皇・明仁は従甥、第126代天皇・徳仁は従姪孫にあたる。
 1912年(大正元年)10月8日、朝香宮鳩彦王と同妃允子内親王(第122代・明治天皇の第8皇女)の第1王子として生を受ける。陸軍大学校卒業後、航空兵科に異動し、陸軍航空本部教育部部員,第51航空師団参謀等をつとめた。1938年(昭和13年)12月16日、伯爵藤堂高紹令嬢・千賀子と結婚。
 1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、妻・千賀子妃や家族と共に皇籍を離脱し、以後は「朝香 孚彦」と名乗る。戦後は、公職追放を経て、聴講生として東京大学で航空工学を学び、1952年(昭和27年)には日本航空運航部に就職。この間、1950年(昭和25年)に妻・千賀子が、自らの結核の快癒を願ってカルメル会に入り、カトリック信者となったのを機に家族全員で受洗。1952年(昭和27年)12月26日に千賀子が病死した後も敬虔なクリスチャンであり続けた。1994年(平成6年)5月6日、逝去。81歳没。

音羽正彦

 1914年(大正3年)1月5日、朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任。1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。海軍少尉任官と共に願により臣籍降下して音羽侯爵家を賜り、貴族院皇族議員を退任し、貴族院侯爵議員となる。
 少尉任官後、「羽黒」「五十鈴」乗組。1937年(昭和12年)12月、海軍中尉。「長門」乗組。
 1938年(昭和13年)、上海海軍特別陸戦隊で土師喜太郎少佐のもと砲隊中隊長として日中戦争に参戦。田家鎮攻略、馬鞍山攻撃など連戦の激戦で敢闘する。この頃、軍服は泥まみれ、髭はのばし放題であったが、音羽は平然としていた。上海時代には同期の平塚清一に「戦闘というものは、決して格好いいものでもないし華やかなものでもないよ。泥まみれ,ずぶ濡れになり、兵隊とともに苦労するのが戦闘なんだ」と語りかけた。
 「赤城」「山城」「陸奥」各分隊長を経て、1942年(昭和17年)11月に「陸奥」副砲長となる。1943年(昭和18年)、海軍砲術学校高等科学生。なお、この年に「陸奥」は爆沈し、かつての上官である土師喜太郎中佐も「陸奥」砲術長として殉職している。8月21日には海兵同期の伏見博英(博英王)が戦死している。
 砲術校卒業直前から前線行きを希望しており、第6根拠地隊参謀の海軍大尉としてマーシャル方面の前線部隊に配属された。クェゼリンの戦いにて5日間の死闘の末、1944年(昭和19年)2月6日、マーシャル諸島のクェゼリン島で戦死(クェゼリンの戦い)。享年31。1944年(昭和19年)2月6日、戦死認定され海軍少佐に進級。
 運動神経抜群で、様々なスポーツに興味を持った。皇族初の講道館柔道初段で、兵学校時代は名ショートとして知られ、ラグビーも好み、100m走で11秒8の記録を保持し、テニスも一流の腕前であった。