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稔彦王 東久邇盛厚

 貴族院議員,陸軍航空本部長(第10代),防衛総司令官(第2代),内閣総理大臣(第43代),陸軍大臣(第34代)などを歴任した。世界連邦建設同盟(現在の世界連邦運動協会)名誉会長,第2代会長。千葉工業大学の創設発案者。
 8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、日本憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。
内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印,陸海軍の解体,復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。
 その一方、昭和天皇への問責を阻止するため「一億総懺悔」を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。歴代総理大臣では最高齢(死去時102歳48日)の首相経験者である。
 首相辞任後には公職追放を受けたうえ皇籍を離脱し、その後は元皇族として担がれて新興宗教の教祖になったこともあるが、手がけた事業はことごとく失敗した。

詳細はWikipedia(東久邇宮稔彦王)を参照

 

 学習院,陸軍士官学校予科を経て1937年6月に陸軍士官学校を卒業、同年8月、陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附を命ぜられ、陸軍将校として勤務する。1939年、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った。1943年10月30日、昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王と結婚。
 その後、陸軍砲工学校,陸軍大学校を経て、第36軍情報参謀を任ぜられるが、任務中に終戦を迎えた。1946年、一般受験生に混じって東京大学を受験したが不合格となり、「昔なら無条件入学なのに」と話題となる。
 1947年10月14日に皇籍を離脱し、東久邇盛厚と称することとなり、その直後に公職追放となる。皇籍離脱後、今度は聴講生として東京大学経済学部に3年間学び、民間人として再出発する。北海道炭礦汽船社長室勤務の後帝都高速度交通営団監事等を務めた。また、1959年には日本狆クラブ会長に就任する。成子夫人との間に5子がいるが、1961年7月23日に死別。その後、寺尾孝吉の長女・佳子と再婚し、2子がある。1969年に52歳で死去した。

東久邇信彦 粟田彰常

 盛厚王と成子内親王の長男。出産時は東京大空襲の最中であり、自宅の防空壕の中での誕生となった。1947年(昭和22年)10月14日、祖父・東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離脱したため、信彦王も皇室典範第13条により皇籍離脱した。当時まだ2歳であった。
 皇籍離脱後は、東久邇信彦を名乗り、民間人として生活。慶應義塾幼稚舎から慶應義塾で学び、慶應義塾大学法学部卒業後は三井銀行に勤務。財団法人日本タイ協会役員・常務理事、かをり会会員などの要職を歴任した。2008年(平成20年)6月、全日本野球会議名誉会長に就任。2009年(平成21年)7月、日米友好の架け橋実行委員会名誉顧問就任。崇敬会「東郷会」の名誉会長、日本の伝統を守る会の名誉会長も務める。
 私生活では、1972年(昭和47年)6月に、島田吉子と結婚。島田家は横浜で不動産管理業(アパート・駐車場経営)を営む庶民であるが、昭和天皇は島田家の家庭的な様子に好感を持ち、信彦の結婚を祝福した。夫妻には、翌年に男児が誕生した。
 新潟県長岡市に2009年(平成21年)8月3日、名誉顧問に東久邇信彦、顧問に山本五十六の長男の山本義正,経団連元会長の今井敬・新日鉄相談役名誉会長らが名を連ねる「日米友好の架け橋実行委員会」(会長・森民夫市長)が発足した。

 1940年(昭和15年)5月に皇族議員として貴族院議員となり、同年9月陸軍士官学校(54期)を卒業する。翌月の10月25日願による臣籍降下が認められ、昭和天皇から粟田の氏を賜り、侯爵の爵位を授けられ華族に列せられた。賜った粟田の氏の由来は、彰常の祖父にあたる久邇宮朝彦親王が、還俗する前に門主を務めていた青蓮院の所在地である洛東粟田口にちなむ。粟田侯爵家は日本で最後に創設された侯爵家であった。
 1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行され、華族制度が廃止されたため華族の身分を失う。戦後は東京農業大学を卒業して東京都建設局に勤務し、飼育係として上野動物園に入り、ニワトリやヤギなど多くの生き物の飼育を担当。家庭では2人の男子(粟田彰彦,粟田常一)をもうけた。