K806:久邇宮朝彦親王 | (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 ― 朝彦親王 ― 稔彦王 | K809:東久邇宮稔彦王 | ● |
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稔彦王 | 東久邇盛厚 |
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貴族院議員,陸軍航空本部長(第10代),防衛総司令官(第2代),内閣総理大臣(第43代),陸軍大臣(第34代)などを歴任した。世界連邦建設同盟(現在の世界連邦運動協会)名誉会長,第2代会長。千葉工業大学の創設発案者。 詳細はWikipedia(東久邇宮稔彦王)を参照
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学習院,陸軍士官学校予科を経て1937年6月に陸軍士官学校を卒業、同年8月、陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附を命ぜられ、陸軍将校として勤務する。1939年、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った。1943年10月30日、昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王と結婚。 |
東久邇信彦 | 粟田彰常 |
盛厚王と成子内親王の長男。出産時は東京大空襲の最中であり、自宅の防空壕の中での誕生となった。1947年(昭和22年)10月14日、祖父・東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離脱したため、信彦王も皇室典範第13条により皇籍離脱した。当時まだ2歳であった。 |
1940年(昭和15年)5月に皇族議員として貴族院議員となり、同年9月陸軍士官学校(54期)を卒業する。翌月の10月25日願による臣籍降下が認められ、昭和天皇から粟田の氏を賜り、侯爵の爵位を授けられ華族に列せられた。賜った粟田の氏の由来は、彰常の祖父にあたる久邇宮朝彦親王が、還俗する前に門主を務めていた青蓮院の所在地である洛東粟田口にちなむ。粟田侯爵家は日本で最後に創設された侯爵家であった。 |