伏見宮 ― 梨本宮

K803:伏見宮邦家親王  (栄仁親王)― 貞常親王 ― 貞清親王 ― 邦家親王 ― 嘉言親王 K805:聖護院宮嘉言親王

 

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嘉言親王 智成親王

 天保2年(1831年)に聖護院で出家し、雄仁法親王と名乗った。同年、光格天皇の猶子となり、天保3年(1832年)には親王宣下を受けて嘉言と命名される。同年、京都山科の門跡寺院曼殊院に入室した。
 慶応4年(1868年)、王政復古の大号令を契機に聖護院宮を称して還俗し、再び嘉言親王を名乗る。園城寺長吏を止められ、一品に昇叙されて、内国事務科内国事務総督となるが、直後に薨去。47歳。弟宮の智成親王が聖護院宮を継承した。

 

 万延元年(1860年)、孝明天皇の猶子となり、聖護院門跡雄仁法親王(後の聖護院宮嘉言親王)附弟となる。慶応2年(1866年)2月に親王宣下を受け、智成と命名される。同月聖護院に入り、落飾し信仁入道親王を称する。
 慶応4年(1868年)、明治維新に際し、照高院宮を称し還俗し、再び智成親王を称する。その後、聖護院宮を継承する。明治2年(1869年)三品に叙せられる。明治3年(1870年)、宮号が旧門跡との区別が判然としないとの理由で北白川宮に改称する。明治5年(1872年)正月没。17歳。遺言で兄に当たる能久親王が北白川宮を相続した。 

能久親王 恒久王

 嘉永元年(1848年)8月3日、1歳で青蓮院宮の附弟となり亡き仁孝天皇の猶子とされ、嘉永5年(1852年)に梶井門跡の附弟となる。安政5年(1858年)10月22日に親王宣下を受け能久の諱を与えられ、翌月の11月23日には輪王寺宮慈性入道親王(有栖川宮幟仁親王の弟)の附弟となり、兄の青蓮院宮尊融入道親王(後の久邇宮朝彦親王)を戒師として得度し、公現の法諱を称する。
 慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月の慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。慈性入道親王は天台座主であったが、座主職は梶井門跡の昌仁入道親王が再継承している。
 慶応4年(明治元年・1868年)1月に戊辰戦争が始まり鳥羽・伏見の戦いの後、輪王寺宮は前将軍徳川慶喜の依頼を受けて2月21日に出発、3月7日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、新政府に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行うが、助命については条件を示されたものの東征中止は一蹴されたため、13日には寛永寺へ戻った。
 父や熾仁親王からは京都へ帰還を勧められるも拒絶した。彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では輪王寺宮執当覚王院義観ら側近とともに会津,米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。輪王寺宮自身も新政府軍に対して強い反感を持っていた。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした。結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。以後降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来していた。
 輪王寺宮が戊辰戦争中の慶応4年に彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。
 9月15日、仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王も仙台藩からの連絡を受け取り18日に降伏文を奥羽追討平潟口総督四条隆謌へ提出、10月12日には仙岳院を出発して途中の江戸で官軍に護送され、11月19日に京都に到着、そこで蟄居を申し付けられ実家の伏見宮家へ預けられた。更に仁孝天皇猶子と親王の身分を解かれる処分も受けた。
 明治2年(1869年)9月4日に処分を解かれ、伏見宮に復帰し終身禄三百石を賜った。この頃は幼名の伏見満宮で呼ばれた。明治3年(1870年)10月10日に熾仁親王との同居を命じられ、閏10月28日には太政官に対してイギリスへの海外留学を願い出ている。11月4日には宮号を称することが認められ、能久の諱に戻った。12月にプロイセン(後のドイツ帝国)留学に出発。留学中の明治5年(1872年)3月、早世した弟の北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続した。
ドイツではドイツ語を習得、ドイツ軍で訓練を受けた後に陸軍大学校で軍事を学習した。明治7年(1874年)9月25日には陸軍少佐に任官している[20]。ところが明治9年(1876年)12月にドイツの貴族の未亡人ベルタ(ブレドウ・ヴァーゲニッツ男爵の娘、テッタウ男爵の寡婦)と婚約、翌明治10年(1877年)4月に明治政府に対し結婚の許可を申し出るが、政府は難色を示し帰国を命じる。帰国直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため問題となったが[21]、結局7月2日にインド洋経由で日本に帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、7月26日から京都でまた謹慎することになる。
3ヶ月後に謹慎解除された後は陸軍で職務に励み、明治11年(1878年)8月26日に仁孝天皇の猶子であることと、親王位に復帰、明治17年(1884年)に陸軍少将、さらに明治25年(1892年)に中将に昇進している。また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力した。同年4月、創設された大日本農会の初代総裁となった。
 明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征(乙未戦争)。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。しかしそれが秘匿されたまま遺体は日本に運ばれ、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示されて国葬に付された。
皇族としては初めての外地における殉職者となったため、豊島岡墓地に葬られた。
 親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげたことで日本武尊にたとえられた。  

 北白川宮能久親王の第1王子。妃は明治天皇の第6皇女・昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。
 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵・南部利祥騎兵中尉が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。享年37。30日葬送。
 なお、恒久王の死により、同月29日に予定されていた皇太子・裕仁親王(恒久王の義理の甥)の成年式が5月7日に延期になっている。

竹田恒和 成久王

 恒徳王妃光子の腹にいた時は家族は皇族であったが、父の恒徳王が皇籍離脱を行ったのは1947年(昭和22年)10月14日で、恒和はその18日後に誕生したため戦前生まれの4人の兄姉と違って恒和が皇族であった時期はない。慶應義塾幼稚舎より慶應義塾に学び、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業する。
 1972年(昭和47年)のミュンヘンオリンピックに日本代表として馬術の障害飛越競技に出場、乗馬はジョセフィンで、個人42位、団体16位であった。
 1974年(昭和49年)10月、茨城の国体大会会場に向かう途中に茨城県内で自動車事故を起こし事故に遭った22歳の女性が亡くなった。遺族に補償することで決着がついた。
 1976年(昭和51年)にはモントリオールオリンピックに出場、乗馬はフィンク、個人39位、団体13位の記録を残した。ロサンゼルスオリンピック日本選手団コーチ,バルセロナオリンピック日本選手団監督,シドニーオリンピック日本選手団本部役員(広報担当),ソウルオリンピック日本選手団コーチ。
 2001年(平成13年)、この年の9月9日に死去した八木祐四郎の跡継ぎで日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任した。2002年ソルトレークシティオリンピックでは、日本選手団団長を務め、JOC会長には10期再任されている。また日本オリンピアンズ協会の名誉会長も務めている。
 2012年(平成24年)3月に国際オリンピック委員会の理事会においてIOC委員への推薦が決まり、7月26日のIOC総会にて正式に委員に任命された[4]。
2013年(平成25年)、東京招致委員会委員長として地道なロビー活動を続けた。国際オリンピック委員会が9月7日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで総会を開き、2020年夏季五輪・パラリンピックの開催都市に東京が選ばれた。東京では1964年以来56年ぶり2回目の五輪開催となった。
 2014年9月29日、2022年冬季オリンピックの立候補都市調査する評価委員会のメンバーに2018年冬季オリンピックに続いて選ばれた。

 1895年(明治28年)、父宮の薨去により北白川宮家を相続。1909年(明治42年)に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。
 1917年(大正6年)に大勲位菊花大綬章を受ける。陸軍士官学校(20期),陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
 1921年(大正10年)より軍事・社交の勉強のため、「北伯爵」の仮名でフランスに留学。翌年には自動車免許も取得し、機械好きな人柄から自家用車(ボアサン社製)も購入。房子妃も合流し、「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かった。銀行家アルベール・カーンとは家族ぐるみで親交があり、カーンによるプライベートフィルムが残されている。
 1923年(大正12年)、成久王は滞仏中に運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり既に運転の覚えがあった東久邇宮稔彦王をドライブに誘った。成久王の腕前が怪しかったため、稔彦王は「あなたはまだ危ないからおやめなさい」と忠告したが、成久王は聞き入れず、1923年4月1日には留学中の朝香宮鳩彦王と同日朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発した。途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとった後、成久王がハンドルを握った。その後ペリエ・ラ・カンパーニュの村から遠くない地点で前の車を追い抜こうとした際に、スピードの出し過ぎで車は大きくスリップし、路傍にあったアカシアの大木に衝突。この事故で運転していた成久王と助手席のフランス人運転手は即死、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負った。パリの日本大使館での葬儀の後、ヨーロッパに滞在していた中島今朝吾少佐に扈従され帰国。6月8日に豊島岡墓地で斂葬の儀が執り行われた。

永久王 小松輝久

 1923年(大正12年)、父・成久王の事故死により北白川宮家を継ぐ。翌1924年(大正13年)、東京陸軍幼年学校に入校、続いて陸軍士官学校予科,同本科(43期、兵科・砲兵)を経た1931年(昭和6年)、陸軍砲兵少尉任官。1934年(昭和9年)、陸軍砲工学校高等科を卒業する。その後も陸軍野戦砲兵学校で乙種学生として教育を受け、1939年(昭和14年)には陸軍大学校を卒業(52期)。
 陸大卒業後、初めて赴任した蒙彊方面の駐蒙軍で参謀の職についていたが、1940年(昭和15年)9月4日午前11時過ぎ、張家口での演習中、不時着して来た戦闘機の右翼の先端に接触、右足膝下切断、左足骨折,頭部に裂傷という状態で病院に運ばれたが、同日午後7時過ぎに薨去した。享年31。
 翌9月5日午後1時には死亡が発表されたが、具体的な地名・死亡の状況は軍事機密として伏せられていた。しかし、翌日の新聞では午前11時20分負傷、午後7時21分薨去と詳細が報じられた。尚、永久王の死は純然たる事故死であったが、名誉の戦死と発表されている。
 永久王は父・成久王や他の皇族たる陸軍軍人(朝香宮鳩彦王・賀陽宮恒憲王・閑院宮春仁王・朝香宮孚彦王・竹田宮恒徳王等)がそうであったように、軍服は大正末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒で派手なものを仕立て着用していた。

 北白川宮能久親王第4王子。長兄・恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄・延久王は夭折し、北白川宮家は三兄・成久王が相続した。
 皇族の子弟については、陸軍幼年学校,陸軍士官学校,海軍兵学校等への入学は無試験で天皇の許可のみで許されていた。海軍兵学校への入学を希望していた輝久については、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般の者とともに試験を受けそれに合格して入学した。入学時の席次は180人中160番だった。
 21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下し小松侯爵家を創設する。これによって1903年(明治36年)に小松宮彰仁親王が薨じて以来、断絶していた小松宮家の祭祀を承継する。なお、諸王の臣籍降下に際して従来は伯爵を賜っていたが、侯爵を賜った初めての例である。
 皇族軍人の席次は首席であるのが通常であるが、入校時122番,卒業時は26番である。これは輝久王(当時)が、特別待遇を受けることを拒否したためであった(皇族関係者で唯一入学試験を受け自力で海軍兵学校に合格した)。卒業後は一貫して終戦間際まで帝国海軍の軍務に服する。海上勤務と共に、海軍大学校など教育畑の勤務も多かった。戦後は、旧皇族の中で唯一の戦犯として実刑判決を受けて服役。出所後は平安神宮宮司を務める。