築山殿想定地
つきやまどの そうていち(Assumed Place of Tsukiyamadono)
【Z-AC069】探訪日:2024/8.26
愛知県岡崎市康生通南3丁目39
【MAP】
〔駐車場所〕
徳川家康の正室・築山殿(築山御前)の屋敷があったと推定されている場所である。現在のNTT西日本岡崎ビルや岡崎康生郵便局の辺りにあったとされる。
現在、北の中町にある築山稲荷と総持尼寺は鎌倉時代の建立当時、この辺り(築山稲荷は郵便局の辺り、総持尼寺は岡崎ビルの辺り)にあり、当地は築山と呼ばれていた。
1560(永禄3)年の桶狭間の戦い後、松平元康(徳川家康)は今川氏から離反し、約2年後、正室の瀬名姫(実名は不明だが、ここでは瀬名とする)も駿府から岡崎に迎えられるが、瀬名姫は岡崎城に住むことはなく、築山辺りの独立した屋敷にて居住・生活することになる。築山は岡崎城外ではあるが、城から北東約1kmほどとさほど遠くない位置にあり、今川氏親の妻の寿桂尼がそうであったように、城外の屋敷に住むことは由緒ある家柄の出である瀬名姫に対する家康の配慮であったとも考えられている。こうして、瀬名姫は「築山殿」と呼ばれるようになる。
その後、1570(元亀元)年には、松平信康が嫡子として岡崎城に移った際に、嫡子生母として岡崎城に入ることとなるが、やがて、武田氏への内通という謀反計画に加担していたとして、織田信長から家康に信康,築山殿の処分を言い渡される(ただし、近年では、信長の関与を含め、その背景については諸説出されている)。事実として、築山殿は1579(天正7)年、遠江国敷知郡の佐鳴湖付近で殺害され(御前谷太刀洗の池がある)、遺体は浜松市の西来禅院に、首は岡崎市の祐傳寺(後に八柱神社)に埋葬された。