築山稲荷
つきやまいなり(Tsukiyama Inari Shrine)
【S-AC062】探訪日:2024/8.19・8.26
愛知県岡崎市中町小猿塚33-7
【MAP】
〔駐車場所〕
岡崎天満宮の由緒として伝わる伝説によれば、鎌倉時代の順徳天皇の頃(1210~1221年)、夜な夜な光る野狐が宮中の皇女を祟っていたため、宮中警護の武士で弓の名手の本間三郎重光が命を受けて弓矢でそれを射ち抜いたところ、それは一匹の白狐であったという。その遺骸は重光の所領である三河国菅生郷に送られ埋葬された。また、射た弓の弦は岡崎天満宮に祀られた。
その後、今度は天皇が病にかかり、陰陽博士に尋ねると、白狐のたたりで、「菅生郷に日本六十余州の名山の土を集めて山を築いてその上に稲荷社を建立し、隣に寺を建てて出家した皇女が祈りを奉げれば帝の病も癒えるだろう」と言った。1214(建保2)年、こうして建立されたのが築山稲荷と総持尼寺という。ただ、総持尼寺は1355(正平10/文和4)年に高明阿(明阿尼)によって建立された説が有力である。
創建以来、築山稲荷,総持尼寺は岡崎の中心地にあり、1560(永禄3)年の桶狭間の戦い後、松平元康(徳川家康)は今川氏から離反し、2年後には正室の瀬名姫(実名は不明だが、ここでは瀬名とする)も岡崎に迎えられるが、瀬名姫が居住・生活していたところが、築山稲荷のある築山辺り(築山殿想定地)とされ、瀬名姫は「築山殿」と呼ばれるようになる。
昭和になり、1927(昭和2)年に総持尼寺とともに現在地に移築された。
なお、築山稲荷と総持尼寺の創建にまつわる白狐の伝承は、岡崎十二社の2番札所・恵美須神社にも同様の話が残されている。