総持尼寺

そうじにじ(Sojini-ji Temple)

【T-AC119】探訪日:2024/8.19

【T-AC119】総持尼寺 愛知県岡崎市中町小猿塚37 <📲:0564-22-6732>

【MAP】

〔駐車場所〕

【T-AC119】総持尼寺

   総持寺ともいう。曹洞宗の寺院。本堂横に築山稲荷が並び建つ。1355(正平10/文和4)年、高師泰の娘で高師冬の妻だった高明阿(明阿尼)は滅亡した高一族の菩提を弔うために寺院の建立を決意し、足利尊氏に申請して許可された。姪の「いち」を住持として総持寺を建て重代相伝の地である菅生郷築山を寄進した。寺は2,3年後には完成したものと推定される。創建時より1875(明治8)年までは尼寺であった。
 観応の擾乱のなか、1351年(観応2)年、足利尊氏に仕えた高師冬は、直義派であった上杉憲顕に敗れ甲斐国の須沢城に逃れたが、直義派の上杉憲将や諏訪直頼の軍勢に包囲され、同地で自害して果てた。約1ヶ月後には、摂津国打出浜の戦いで直義方に敗れた叔父の高師直,父の師泰,兄弟の師世ら高一族8人も摂津から京への護送途中、復讐のために待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって武庫川畔において虐殺された。
 明阿は総持尼寺建立にあたり、後々、問題が紛糾しないよう尊氏・義詮の書状を得、足利家から菅生郷を寺へ寄進してもらうかたちを採っている。
 なお、総持尼寺創建にはもうひとつの言い伝えがある。鎌倉時代の順徳天皇の頃(1210~1221年)、夜な夜な光る野狐が宮中の皇女を祟っていたため、宮中警護の武士がその白狐を射止め、築山稲荷を建立した。のちに築山稲荷の隣に皇女が尼となり開山したのが総持尼寺というものである(「築山稲荷」サイト参照)。
 1670(寛文10)年に焼失。江戸時代は長く龍海院末寺であったが、1766(明和3)年に離檀した。1854(安政元)年の安政地震で崩壊し、再建はされたものの大正時代には伽藍の老朽化は著しかった。
 また、総持寺と築山稲荷は、もとは西に約1.2kmの旧籠田町の籠田総門の北側にあったが、1927(昭和2)年に現在地に移転している。移転にあたっては、激しい反対運動もあったが、市助役の小瀧喜七郎の決断で実行された。これにより太平洋戦争での岡崎空襲の被害を免れることができた。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 南北朝時代 昭和時代:前期
関連年号 1210年代 1355年 1927年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
明阿尼 TS09 足利尊氏 G332 高 いち TS09

 

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