<継体朝>

K305:押坂彦人大兄皇子  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天武天皇 K307:天武天皇

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天武天皇(大海人皇子) 大津皇子

 中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった。大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った。旅の途中、斉明天皇7年(661年)1月8日に妻の大田皇女が大伯海で大伯皇女を生み、大津皇子の名も筑紫の娜大津での出生に由来すると言われる。大海人皇子は額田王を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説がある。 
 天智天皇7年(668年)1月7日に中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。しかし、やがて大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる。そして、壬申の乱勃発。天武天皇元年(672年)7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
 大海人皇子は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
  天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮に大伯皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇,皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。
天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。天皇は、15年(686年)5月24日に病気になり、9月11日に病死した。10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇である。 
 陵は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵に治定されている。持統天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は野口王墓古墳。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地は、天武天皇と持統天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。

663年(天智天皇2年)、九州の那大津で誕生。
  『懐風藻』によると、体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた、とある。『日本書紀』にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、抜群の人物と認められていたようである。
  母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。
  683年(天武天皇12年)2月に朝廷の政治に参加。この「始聴朝政」という大津の政治参加を示す文句については様々なとらえ方があるが、『続日本紀』に皇太子である首親王(聖武天皇)の政治参加におなじ用語を使っていることからみると、草壁と匹敵する立場に立ったと理解するのが妥当だと思われる。しかし、当時まだ年少だった長皇子,舎人親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。
  686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余にある訳語田の自邸にて自害した。享年24。『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。

大伯皇女 長親王

 斉明天皇7年(661年)に筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯の海の上を通過している時に誕生した。『日本書紀』に、天智天皇6年(667年)の2月27日に斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬し、大田皇女(大伯皇女と大津皇子の母)をこの陵の前の墓に埋葬したという記述があるので、2月27日以前に大田皇女は薨去したと思われる。
  大伯皇女は天武天皇2年(673年)4月14日に父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)として泊瀬斎宮(在所不明)に入斎院、翌3年(674年)10月9日に伊勢国に下向した。翌年の天武天皇4年(675年)の2月13日には、十市皇女と阿陪皇女(後の元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。朱鳥元年(686年)、4月27日、多紀皇女,山背姫王,石川夫人が伊勢神宮に遣わされた。同年の10月3日に、大津皇子が謀反人として死を賜った後、11月17日に退下し都に帰った。大宝元年12月27日(702年1月)に薨去。
  三重県名張市の夏見廃寺(国の史跡)は、『薬師寺縁起』に見える大伯皇女の発願により神亀2年(725年)に完成した昌福寺とされている。

 持統天皇7年(693年)同母弟の弓削皇子とともに浄広弐(三品に相当)に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品となる。
  その後文武朝から元明朝にかけて、慶雲元年(704年)と和銅7年(714年)にそれぞれ封戸200戸を与えられている。天武天皇の皇子の中でも天智天皇を祖父に持つ血筋の良さもあり、穂積親王の次代の知太政官事となる可能性もあったが、穂積親王にわずかに1ヶ月早い和銅8年(715年)6月4日薨去。享年は不明だが、皇子である智努王(文室浄三)らの生年から、40歳代中盤から50歳代前半と推定される。
  また、キトラ古墳の被葬者とする説も存在している。

浄原王 直世王

 天平神護2年(766年)従五位下に直叙される。称徳朝にて何らかの理由で罰せられたらしく、位階を剥奪される。
 光仁朝に入り、宝亀2年(771年)罪を赦されて本位の従五位下に復し、翌宝亀3年(772年)大膳亮に任ぜられる。宝亀9年(778年)大炊頭を経て、宝亀10年(779年)6月に少納言に補せられるが、早くも同年9月には越後守として地方官に転じる。
 桓武天皇が即位した天応元年(781年)に従五位上に叙せられ、延暦4年(785年)右大舎人頭に任ぜられ京官に復している。

 延暦23年(804年)縫殿大允に任ぜられ、平城朝では大舎人允・内蔵助を歴任する。嵯峨朝では順調に昇進し、弘仁12年(821年)参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。
  淳和朝でも引き続き参議に左大弁を兼帯する一方、天長4年(827年)正四位下に叙せられている。天長7年(830年)従三位・中納言兼中務卿に叙任。同年、薬師寺にて毎年法事を開催して、高徳の僧侶を集めて『最勝王経』の講説を行うこと、この法会における論議を諸国の講師・読師に任用するための試験とすることを上奏し、許されている。また、淳和天皇の勅により『日本後紀』の編纂にも参画した。
  天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い兼官が弾正尹に移るが、まもなく中務卿に還任している。承和元年(834年)1月4日薨去。享年58。最終官位は中納言従三位兼中務卿。

文屋助雄 文屋笠科

 若くして大学で学び、経書と史書を概ね読破していた。対策に及第しないまま官途に就き、承和元年(834年)従五位下に叙爵される。のち、文室朝臣姓を与えられ臣籍降下する。仁明朝では玄蕃頭,刑部少輔,遠江守,斎宮頭,大蔵少輔,左少弁などを歴任した。
 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い、従五位上に叙せられる。仁寿3年(853年)右中弁に昇進した後、斉衡3年(856年)丹波守に任ぜられて地方官に転じ、丹波守在任中の天安2年(858年)3月14日卒去。享年52。

 承和3年(836年)従五位下に叙爵し、承和6年(839年)土佐守に任ぜられる。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に勘解由次官に任ぜられると、仁寿2年(852年)中務少輔、仁寿3年(853年)従五位上・宮内大輔に叙任されるなど、文徳朝前半は京官を歴任する。仁寿4年(854年)武蔵守に任ぜられ地方官に転じる。
 清和朝の貞観2年(860年)刑部大輔として京官に復すが、翌貞観3年(861年)正月には早くも丹後守に遷り、三度地方官を務めた。

穂積親王 新田部親王

 前半生は不明な点が多く、持統朝までは持統天皇5年(691年)に封500戸を与えられたこと以外は詳細な事跡は不明。また『万葉集』に基づき、藤原氏の血を引く但馬皇女との密通が露顕し、一時左遷されていたとの推測もある。
  文武朝に入り、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。大宝2年(702年)12月の持統上皇の崩御に際して作殯宮司を、翌大宝3年(703年)10月の葬儀では御装長官を務めている。
  慶雲2年(705年)5月に異母兄・忍壁親王が薨ずると、同年9月にその後任として知太政官事に任ぜられる。文武朝末から元明朝を通じて太政官の統括者となり、左大臣・石上麻呂、右大臣・藤原不比等とともに政権を支えた。和銅8年(715年)正月に一品に叙せられるが、母の大蕤娘に先立って同年7月27日に薨去。享年は40代前半と推定される。
  なお、群馬県にある多胡碑には、和銅4年(711年)3月9日の日付とともに「太政官二品穂積親王」と名前が刻まれている。また、穂積親王を高松塚古墳の被葬者とする説もある。

 文武天皇4年(700年)浄広弐に叙せられ、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。慶雲4年(707年)文武天皇の葬儀に際し造御竈司を務めた際は二品の位階にあった。
  養老3年(719年)、ときの元正天皇は、舎人,新田部の両親王に皇太子首親王(のちの聖武天皇)の補佐を命じるとともに、皇室の年長者であり天皇にとっても重要な人物であるとして褒賞し、それぞれ内舎人,大舎人,衛士を与え、封戸を加増する。
  養老4年(720年)右大臣・藤原不比等が薨御すると、新田部親王は知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力(五衛府・授刀舎人寮)の統括者となる。このとき同時に知太政官事に就任して太政官の首班に立った舎人親王、翌養老5年(721年)に右大臣に任ぜられた長屋王とともに皇親政権を構成した。
  神亀元年(724年)聖武天皇の即位に伴って一品に昇叙される。神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、六衛府の軍隊が屋敷を包囲するなか、舎人親王らとともに派遣されてその罪の糾問に当たっている。
  天平7年(735年)9月30日薨去。最終官位は大将軍一品。葬儀に際して、ともに皇親政権を支えた舎人親王が派遣されて聖武天皇の弔意が伝えられた。なお、約1ヶ月半後には舎人親王も後を追うように薨去している。
  新田部の邸宅のあった地は、その後、鑑真に与えられ唐招提寺となった。

氷上塩焼 氷上志計志麻呂

 天平5年(732年)二世王に対する蔭位により無位から従四位下に直叙される。聖武天皇の女婿として順調に昇進する。
  天平14年(742年)8月の紫香楽宮行幸では前次第司となり、聖武天皇の行幸に供奉するが、同年10月に女嬬4人とともに平城獄に投獄された後、伊豆国に配流された。その理由について明らかでない。天平17年(745年)に赦免されて帰京し、翌天平18年(746年)には本位(正四位下)に復している。
  天平勝宝9年(757年)3月に弟の道祖王が皇太子を廃され、皇太子には舎人親王の子である大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた。同年5月に正四位上に昇叙し、6月には大蔵卿に任じられた。また、同年7月に起きた橘奈良麻呂の乱では、謀反計画の中で新天皇候補の四王の一人に挙げられており関与を疑われたが、塩焼王自身は謀議の場に参加していなかったとして、不問に付されている。
 のち、氷上真人姓を与えられて臣籍降下する。天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位に伴って従三位に叙せられ公卿に列す。姉・陽侯女王の夫で淳仁天皇を擁して権力を握っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図る。天平宝字6年(763年)になると恵美押勝が子息を次々と参議として議政官に加える中で、塩焼王も急速に栄達して同年正月に参議、6月には中納言に至った。
  しかし、天平宝字8年(764年)9月に押勝が孝謙上皇との権力争いの結果、武装叛乱に追い込まれる。押勝によって塩焼王は天皇に擁立されて「今帝」と称したが、押勝の敗走に伴い孝謙上皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一家とともに殺害された(藤原仲麻呂の乱)。

 父の塩焼は天平宝字2年(758年)に氷上真人姓を与えられ臣籍降下しているが、志計志麻呂の誕生がその以前か以後かは明らかでない。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱にて、塩焼は藤原仲麻呂によって天皇に擁立されようとして殺害された際、不破内親王が称徳天皇と異母姉妹であったことから、不破内親王,志計志麻呂母子は連坐を免れている。
  神護景雲3年(769年)不破内親王は県犬養姉女,忍坂女王,石田女王らともに、称徳天皇を呪詛してその命を縮め、志計志麻呂を皇位につけようとする巫蠱の術を行ったとして処罰された。その際に発せられた宣命によれば、天皇の髪の毛を盗んで佐保川の髑髏に入れ、宮中に持参してまじないを行うこと3度に及んだという。不破は内親王の身位と皇親の身分を奪われ「厨真人厨女」と賜姓・改名のうえで、平城京内に居住することを禁止された。志計志麻呂は土佐国に配流された。共犯の3人の女性たちもそれぞれ遠流に処せられた。その後の志計志麻呂の消息は明らかでないが、高知県須崎市には志計志麻呂の供養塔がある。
  宝亀2年(771年)になって、この呪詛事件発覚のきっかけとなった丹比乙女の訴えが誣告であったとされ、県犬養姉女・忍坂女王が赦免された。なお、不破の内親王復帰は翌宝亀3年(772年)12月にずれこんでいる。
  なお、母の不破が卑しい名前に改名させられたのと同様に、志計志麻呂もこのときに改名させられたものであって、実は、弟とされる氷上川継と同一人物とする説もある。

氷上川継 道祖王

 父の塩焼は天平宝字2年(758年)に氷上真人姓を与えられて臣籍降下しているが、川継の誕生がその以前か以後かは明らかでない。
  天平宝字8年(764年)9月に父・塩焼は藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとするも殺害されたが、不破内親王,川継母子は連坐を免れている。神護景雲3年(769年)1月に不破内親王が称徳天皇を呪詛したとして皇親の身分を奪われた時も川継は関係していない。ただし、このとき不破内親王が天皇に擁立しようとした兄・志計志麻呂は実は川継と同一人物であり、母が不破から「厨女」へと改名させられたのと同様、「川継」から「志計志麻呂」(しけし=穢れる・荒れるなどの意)へと改名させられたのとする説もある。
  天応2年(782年)正月に因幡守に任じられる。同年閏正月10日に川継は味方を集めて、平城宮の北門より侵入して朝廷を転覆させる謀反を計画。一味の宇治王を決行に参加させるために、資人の大和乙人に武器を持たせて密かに宮中に侵入させる。しかし、乙人はあっさり捕縛されて、尋問を受けて川継の謀反計画を自白してしまう。すぐに桓武天皇は勅使を派遣して川継を召喚しようとしたため、川継は裏門より逃亡するが、14日には大和国葛下郡で捕らえられた。川継は伊豆国への流罪となり、母の不破内親王と川継の姉妹たちも連坐して淡路国へ流された。また、大宰員外帥として大宰府に赴任していた舅の藤原浜成は兼任していた参議と侍従を解任され、左大弁・大伴家持や右衛士督・坂上苅田麻呂らも一時解任された(氷上川継の乱)。
  配所で20年以上過ごした後、桓武朝末の延暦24年(805年)3月に赦免され、翌延暦25年(806年)3月には従五位下に復す。その後、大同4年(809年)典薬頭、弘仁3年(812年)伊豆守を歴任した。

 天平9年(737年)藤原四兄弟の相次ぐ死去に伴って、朝廷の新体制構築に向けて叙位任官が行われた際、無位から従四位下に直叙され、翌天平10年(738年)散位頭に任じられる。天平12年(740年)従四位上に叙せられ、のち中務卿を務めた。
  天平勝宝8年(756年)5月に聖武上皇は死に臨んで、道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てることを遺詔したが、淫らで勝手気ままな気持ちがあり、教え戒める勅にも悔い改めることがなかったことを理由に、天平勝宝9年(757年)3月、皇太子を廃された。
  同年4月に後継の皇太子に大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた。
  同年7月に橘奈良麻呂の乱が発覚すると、奈良麻呂らが擁立しようとした天皇候補(塩焼王,安宿王,黄文王,道祖王)の中に道祖王の名があったため、朝廷の兵士に右京の邸宅を包囲され、捕縛された。道祖王は「麻度比」(まどひ=惑い者の意)と改名させられた上、同時に捕縛された黄文王,大伴古麻呂,多治比犢養,賀茂角足らと共に杖で激しく殴打される拷問を受けて獄死した。

三原弟平(乙枚王) 三原春上

 新田部親王の曾孫である三原春上の父とされることから、弟平自身は新田部親王の孫であるが、父の名は明らかでない。新田部親王の子息の内で塩焼王の子孫は氷上真人姓を称したため、弟平は道祖王または長野王の子と想定される。
 延暦10年(791年)三世王としての蔭位により無位から従五位下に直叙され、造酒正に任ぜられる。その後、三原朝臣姓を与えられて臣籍降下し、延暦18年(799年)内蔵助に転じる。従五位上に昇叙されたのち、弘仁4年(813年)尾張守に任ぜられ地方官を務めた。

 弾正大忠,民部大丞,式部大丞,蔵人を経て、弘仁11年(820年)47歳にしてようやく従五位下に叙爵。同年伊賀守に任ぜられる。
  弘仁14年(823年)淳和天皇が即位すると京官に復し、中務少輔に右少弁を兼ね次いで主殿頭に転任する。淳和朝で急速な昇進を果たし、天長5年(828年)参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間、下総守,兵部大輔,弾正大弼などを歴任している。参議昇進後も累進し、議政官として右大弁,式部大輔,治部卿などを務めた。
  仁明朝に入ると、嵯峨源氏や天皇と親族関係にある橘氏公,藤原良房らが急速に台頭する傍らで昇進は止まるが、弾正大弼,治部卿,伊勢守などを歴任した。承和10年(843年)4月上表して致仕。承和12年(845年)11月18日卒去。享年72。