<継体朝>

K307:天武天皇  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天武天皇 ― 草壁皇子 K308:草壁皇子

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草壁皇子 文武天皇

 天武天皇元年(672年)、壬申の乱が勃発すると大津皇子ら他の兄弟達と共に両親に同伴する。天武天皇2年(673年)、2月27日に飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位。
  天武天皇8年(679年)には吉野の盟約で事実上の後継者となり、天武天皇10年(681年)、2月に立太子。おそらく、母の鸕野讃良皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去していることから、大田皇女の息子である大津皇子を押さえ、皇太子になったものと思われる。
  朱鳥元年(686年)7月には重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任され、9月には天武天皇が崩御する。翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。だが、鸕野讃良皇后は皇子を直ちに即位させることはしなかった。皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。
  なお、少数説であるが、草壁皇子の立太子そのものを軽皇子(文武天皇)の即位を正当化するために後世作為されたもので、鸕野讃良皇后が草壁皇子に天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある。
  皇位に就くことなく持統天皇3年(689年)4月13日薨去。淳仁天皇即位後の天平宝字2年(758年)に岡宮御宇天皇の称号が贈られた。陵は奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵。

 父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
  文武天皇元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。このような若さで即位した経緯については、葛野王の皇位継承は親から子・孫へと行われるべきという考え方が認められたためとされる。
  大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し翌年公布している。また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
  公式記録の『続日本紀』には妃や皇后を持った記録はない。藤原不比等の娘・藤原宮子が当初から夫人であったとするのは『続日本紀』編者の脚色で、当初は石川,紀と同じく嬪であり、慶雲4年以降に夫人に昇格したとする説もある。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。

元正天皇 吉備内親王

 同母弟・珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。
  慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼かったため、母の阿閉皇女が即位し元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京に遷都。和銅7年(714年)年1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。霊亀元年(715年)1月10日に一品を昇叙。
  霊亀元年9月2日(715年10月3日)、皇太子である首皇子がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け即位。歴代天皇の中で唯一、母から子への女系での皇位継承が行われた。
  養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年、長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。
 養老7年(723年)、三世一身法が制定され、これにより律令制は崩れ始めていく。
  養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子に譲位した。退位の詔では新帝を「我子」と呼んで退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄,藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。

 吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、膳夫王,葛木王,鉤取王を産んだ。和銅8年(715年)2月25日に、息子達が皇孫待遇になる。同年、元号が霊亀となった後に三品に叙される。養老年間に、元正天皇のために東禅院を建立する。これがのちに薬師寺東院堂となる。神亀元年(724年)2月4日に二品に叙される。
 しかし、神亀6年(729年)2月、長屋王の使用人であった漆部造君足と中臣宮処連東人の密告により、長屋王が国を傾けるため「左道」を行ったとして、彼は自刃に追い込まれた。吉備内親王も3人の息子達と共に縊死した。彼女は長屋王と同じく、生駒山に埋葬された。
  当時皇太子基王が急死し、自らも病弱であった聖武天皇に万が一の事があれば、天皇の叔母にあたる内親王やその子供達の皇位継承の可能性もあったと考えられる。天皇が根拠のない密告を信じて政府首班の長屋王を死に追い込んだ背景には、皇位を巡る聖武天皇の疑心暗鬼があったとする説もある。

聖武天皇 高円広世

 霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
  聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変で長屋王は自殺、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代いずれかまたは両人の血縁の者である。
  天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われて、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
  天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。
  天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位(太上天皇)した初の男性となる。
  天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。

 『新撰姓氏録』によると、高円氏(高円朝臣)は広世を祖とする皇別氏族で、さらに広世は当初母方の氏姓である石川朝臣を称していたとされる。そのため、広世を文武天皇とその嬪であった石川刀子娘の間に生まれた皇子で、和銅6年(713年)に石川刀子娘が嬪の称号を廃された際に、広世も皇籍を剥奪されたものとの説がある。これに対して『新撰姓氏録』に記されたのは広世の母が石川朝臣の出であることのみで石川刀子娘であるという証拠は存在しないこと、石川朝臣は元々皇別である以上そこから分かれた高円朝臣も皇別氏族となるとして、広世が何らかの事情で父親の戸籍に入れなかったことと『新撰姓氏録』編纂時にはその父親が誰であったか不明であったこと以上の事実は確認できず、文武天皇と石川刀子娘の子である事実は認められないとする反論もある。
 天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位に伴って、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵される。但馬介を経て、天平宝字4年(760年)母方の氏姓であった石川朝臣から高円朝臣に改姓し、同年文部少輔に任ぜられる。のち、摂津亮,尾張守,山背守を歴任し、天平宝字8年(764年)正月には従五位上・播磨守に叙任される。藤原仲麻呂政権下では畿内またはその近辺の大国・上国の地方官を歴任していたものの、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱で活動した記録はなく、乱後の10月には播磨守の官職を藤原黒麻呂に取って代わられている。
 称徳朝では周防守,伊予守と引き続き地方官を歴任したが、伊予守在任中の神護景雲3年(769年)瑞祥となる白鹿1頭を貢進し、さらに翌神護景雲4年(770年)には伊予員外掾・笠雄宗が再び白鹿を献上したことから、伊予国の神護景雲3年(769年)以降の正税の未納を免除された。同年10月の光仁天皇の即位に伴い正五位下に昇叙されている。

孝謙天皇/称徳天皇 井上内親王

 天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王を擁立する動きを見せている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。
  天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮を改組した紫微中台の長官で皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。聖武上皇が皇太子にと遺詔した道祖王は孝謙天皇と仲麻呂の意向で廃され、自身の意向として舎人親王の子・大炊王を新たな皇太子とした。強まる仲麻呂の権勢にあせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らはクーデターを計画したが、察知され粛清された(橘奈良麻呂の乱)。以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。
  天平宝字2年(758年)8月1日に孝謙天皇は病気であった光明皇太后に仕えるためとして退位し、大炊王(淳仁天皇)に譲位した。
  天平宝字4年(760年)7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂,淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。同年8月に孝謙上皇,淳仁天皇らは小治田宮に移り、天平宝字5年(761年)には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。やがて、両勢力の不和が表面化した。
  天平宝字8年(764年)9月11日、仲麻呂が軍事準備を始めたことを察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。仲麻呂は9月13日に殺害された。仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とした。10月9日には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした。
  淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続くことになるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められないこととした。
  以降、道鏡は太政大臣禅師,法王に任じる。神護景雲3年(769年)、大宰府の主神・中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。
 神護景雲4年(770年)3月なかばに発病し、病臥することになる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張がある。
 称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂,吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという(偽造とされる)。白壁王は光仁天皇として即位する。
  孝謙天皇には、自らに反抗したものに卑しい名前を付けるという性格があった。その性格の元には、名前や言の葉(=言葉)は一つ一つ、思いがこもった霊であり、大切にしなければならない、という孝謙の考えがあった。一方で女性の地位向上に尽力し、多くの実績のある有力な女性に位階勲等を与えたことでも知られる。

 養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去により、斎王の任を解かれ退下する。
 帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関しては前近代の女性としてはあまりにも高齢であるため、井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。
  光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子される。
  宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
  宝亀4年(773年)10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
  宝亀3年(772年)、井上内親王の廃后と他戸親王廃太子事件のあった後の11月13日、にわかに井上内親王の娘の酒人内親王が19歳で伊勢の斎王に卜定されており、この事件と酒人内親王の斎王卜定は連動していた可能性がある。また、井上内親王の立后と他戸親王の立太子に尽力したと言われている左大臣・藤原永手が宝亀2年(771年)の2月21日に他界して、藤原氏内部における藤原北家から藤原式家への政権移動があったことも注目すべき事柄である。井上内親王の光仁天皇呪詛事件は、山部親王の立太子をもくろむ藤原良継や藤原百川ら藤原式家一派の陰謀とする解釈がある。

基皇子 安積親王

 聖武天皇と光明皇后とのあいだに生まれた唯一の男子である。待望の男子を得た天皇の喜びはひととおりではなく、生後わずか32日、11月2日(12月22日)には皇太子に立てられた。天皇はもちろん皇太子にも成人であることが求められた当時としてはきわめて異例な措置であった。しかし、翌年には病気となり、生後1年に満たずに夭逝する。死後は那保山に葬られた。
  この早すぎる死は左大臣長屋王の呪詛によるものだという噂を生んだ。それは、長屋王の持つ有力な皇位継承権者としての立場とも相まって、わが子を強く哀惜する聖武天皇に長屋王への不信感を生じさせ、讒言による政治的粛清である長屋王の変へとつながってゆくことになる。

 神亀5年(728年)に聖武天皇の第二皇子として生まれる。同年の9月13日に皇太子の基皇子が死去したため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補となった。しかし、天平10年(738年)1月13日に光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙/称徳天皇)が立太子される。
 天平8年(736年)5月、すでに斎王になっていた姉・井上内親王のために写経をおこなっている。天平15年(743年)には恭仁京にある藤原八束の邸にて宴を開いているが、この宴には当時内舎人であった大伴家持も出席しており、家持が詠んだ歌が『万葉集』に残されている。
  天平16年(744年)閏1月11日、難波宮に行幸の際、その途中に桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返すが、2日後の閏1月13日に17歳で死去した。藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。墓は宮内庁により「和束墓」として京都府相楽郡和束町に治定されている。

不破内親王

 時期は不明であるが、新田部親王の子で天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚している。また、一時、内親王の身位を剥奪されたことがあったというが、具体的な時期や事情はわかっていない。天平宝字8年(764年)9月、塩焼王が藤原仲麻呂の乱に参加して殺害されているが、不破内親王と息子・氷上志計志麻呂は連坐を免れている。
  神護景雲3年(769年)1月、県犬養姉女、新田部親王の娘である忍坂女王、石田女王と共謀して称徳天皇を呪詛し、志計志麻呂を皇位につけようとしたとして、再び内親王の身位を廃され、厨真人厨女と改名させられたうえ、平城京内の居住を禁じられた。志計志麻呂は土佐国に配流されている。宝亀3年(772年)12月、呪詛事件は誣告による冤罪であったとして、内親王に復帰している。
  延暦元年(782年)閏正月、息子の氷上川継が謀反を起こそうとしたとして伊豆国に配流されたのに連坐して、娘たちとともに淡路国に配流された。延暦14年(795年)12月、和泉国に移された。以後の消息は不明である。
  千葉県印西市に所在する松虫寺に、不破内親王にまつわる伝承が残されており、現在も松虫寺には「松虫姫御廟」と呼ばれる堂がある。

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