K307:天武天皇 | 継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天武天皇 ― 草壁皇子 | K308:草壁皇子 | ● |
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草壁皇子 | 文武天皇 |
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天武天皇元年(672年)、壬申の乱が勃発すると大津皇子ら他の兄弟達と共に両親に同伴する。天武天皇2年(673年)、2月27日に飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位。 |
父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。 |
元正天皇 | 吉備内親王 |
同母弟・珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。 |
吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、膳夫王,葛木王,鉤取王を産んだ。和銅8年(715年)2月25日に、息子達が皇孫待遇になる。同年、元号が霊亀となった後に三品に叙される。養老年間に、元正天皇のために東禅院を建立する。これがのちに薬師寺東院堂となる。神亀元年(724年)2月4日に二品に叙される。 |
聖武天皇 | 高円広世 |
霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。 |
『新撰姓氏録』によると、高円氏(高円朝臣)は広世を祖とする皇別氏族で、さらに広世は当初母方の氏姓である石川朝臣を称していたとされる。そのため、広世を文武天皇とその嬪であった石川刀子娘の間に生まれた皇子で、和銅6年(713年)に石川刀子娘が嬪の称号を廃された際に、広世も皇籍を剥奪されたものとの説がある。これに対して『新撰姓氏録』に記されたのは広世の母が石川朝臣の出であることのみで石川刀子娘であるという証拠は存在しないこと、石川朝臣は元々皇別である以上そこから分かれた高円朝臣も皇別氏族となるとして、広世が何らかの事情で父親の戸籍に入れなかったことと『新撰姓氏録』編纂時にはその父親が誰であったか不明であったこと以上の事実は確認できず、文武天皇と石川刀子娘の子である事実は認められないとする反論もある。 |
孝謙天皇/称徳天皇 | 井上内親王 |
天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王を擁立する動きを見せている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。 |
養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去により、斎王の任を解かれ退下する。 |
基皇子 | 安積親王 |
聖武天皇と光明皇后とのあいだに生まれた唯一の男子である。待望の男子を得た天皇の喜びはひととおりではなく、生後わずか32日、11月2日(12月22日)には皇太子に立てられた。天皇はもちろん皇太子にも成人であることが求められた当時としてはきわめて異例な措置であった。しかし、翌年には病気となり、生後1年に満たずに夭逝する。死後は那保山に葬られた。 |
神亀5年(728年)に聖武天皇の第二皇子として生まれる。同年の9月13日に皇太子の基皇子が死去したため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補となった。しかし、天平10年(738年)1月13日に光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙/称徳天皇)が立太子される。 |
不破内親王 | |
時期は不明であるが、新田部親王の子で天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚している。また、一時、内親王の身位を剥奪されたことがあったというが、具体的な時期や事情はわかっていない。天平宝字8年(764年)9月、塩焼王が藤原仲麻呂の乱に参加して殺害されているが、不破内親王と息子・氷上志計志麻呂は連坐を免れている。 |