<皇孫系氏族>天武天皇後裔

K307:天武天皇  文室大市 FY02:文室大市

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文室大市 文室波多麻呂

 天平11年(739年)無位から従四位下に直叙され、聖武朝にて刑部卿・内匠頭を歴任する。孝謙朝に入り、天平勝宝3年(751年)従四位上に叙せられる。翌天平勝宝4年(752年)兄・浄三と共に文室真人姓を賜与され臣籍降下した。天平勝宝6年(754年)大蔵卿、天平宝字元年(757年)正四位下・弾正尹、天平宝字3年(759年)節部卿に叙任。天平宝字5年(761年)には故・光明皇太后の一周忌御斎会の供奉の功労により正四位上に昇叙された。
 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の直後に民部卿に任ぜられる。天平神護元年(765年)正月に従三位に叙せられて公卿に列し、翌天平神護2年(766年)参議に任ぜられた。
 神護景雲4年(770年)8月の称徳天皇崩御に際して御装束司を務める。称徳天皇崩御後の皇嗣選定にあたり、右大臣・吉備真備によって兄・浄三に次いで候補者に推されるが、藤原氏に推戴された白壁王(のち光仁天皇)に敗れたともされる。同年10月の光仁天皇即位に伴い正三位・中納言、翌宝亀2年(771年)には左大臣・藤原永手の薨去と右大臣・吉備真備の致仕により従二位・大納言へと、光仁朝初頭に急速に昇進を果たした。
 宝亀3年(771年)より老齢を理由に致仕を願い出ていたが、宝亀5年(774年)7月に許されて大納言の官職を辞任し、11月正二位に叙せられた。宝亀11年(780年)11月28日薨去。享年77。     
 天平勝宝年間以降、皇族や臣籍降下した子孫で罪を得る者が多かったが、大市は剃髪して僧となることで自らの身を全うしたという。

 天平勝宝4年(752年)父・大市王ら一族と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する。天平勝宝9年(757年)三世王の蔭位により無位から従五位下に直叙され、天平宝字3年(759年)右大舎人助に任ぜられる。
称徳朝から光仁朝にかけて20年以上に亘って叙位任官の記録がないことから、天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱といった政変に巻き込まれて失脚したか。従五位上に昇叙された後、延暦2年(783年)雅楽頭に任ぜられて再び『六国史』上に名前が現れる。その後、延暦10年(791年)弾正弼、延暦18年(799年)雅楽頭に任ぜられるなど、桓武朝では主に京官を歴任する。弾正弼在職時の延暦14年(795年)に旧都の長岡宮の守衛を命ぜられ、延暦16年(797年)には宇治橋の造営を行っている。また、延暦6年(787年)正五位下に昇叙され、桓武朝末までに従四位下に至る。     
 長命を保ち、嵯峨朝初頭の大同5年(810年)2月14日卒去。最終官位は散位従四位下。

文室久賀麻呂 文室八島

 宝亀8年(777年)従五位下に叙爵し、翌宝亀9年(778年)但馬介に任ぜられる。     
 桓武朝に入り、延暦3年(784年)左大舎人頭に任ぜられると、延暦5年(786年)木工頭と桓武朝初頭は京官を歴任する。延暦6年(787年)従五位上・摂津亮に叙任されて地方官に転じ、延暦8年(789年)には10年ぶりに但馬介に再任している。

 宝亀9年(778年)従五位下に叙爵し、翌宝亀10年(779年)内兵庫正に任ぜられる。     
 桓武朝では、延暦6年(787年)正親正、延暦8年(789年)弾正弼を経て、延暦9年(790年)に伯耆守として地方官に転じた。またこの間、天応元年(781年)光仁上皇、延暦8年(789年)皇太后・高野新笠、延暦9年(790年)皇后・藤原乙牟漏がそれぞれ崩御した際に、作方相司や山作司として供奉している。