K307:天武天皇 | 文室浄三 | FY01:文室浄三 | ● |
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文室浄三 | 文室与伎 |
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霊亀3年(717年)無位から従四位下に直叙され、翌養老2年(718年)大舎人頭に任ぜられる。神亀6年(729年)長屋王の変の直後に従四位上に昇叙する。 |
宝亀11年(780年)従五位下に叙爵。延暦2年(783年)従五位上・相模介に叙任され、宝亀の乱終結後間もない東国へ赴任する。翌延暦3年(784年)相模守へ昇格すると共に、征東将軍・大伴家持に次ぐ征東副将軍に任ぜられ、蝦夷征討の任に当たる。延暦4年(785年)に大伴家持が没するなどもあり、与伎自身は蝦夷征討で目立った活動を起こすことはなかった。 |
>文室弟直 |
文室真屋麻呂 |
大伴親王(のち淳和天皇)が幼い頃に母・藤原旅子を喪ったため、女官を務めていた弟直の生母・平田孫王が養母となる。延暦20年(801年)従五位下・土佐守に叙任され、桓武朝末の延暦25年(806年)に左大舎人助となった。 |
延暦5年(786年)6月に少納言に任ぜられるが、早くも10月には右大舎人頭に転じる。その後、桓武朝前半は治部少輔・主馬頭と京官を歴任する。延暦10年(791年)但馬介に任官し、地方官に遷る。その後、時期は明らかでないが、文室真人から三諸朝臣に改姓し、従五位上に叙せられる。 |
三諸大原 |
文室綿麻呂 |
孝謙朝の天平勝宝4年(752年)父・智努王と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する。 |
延暦11年(792年)に父・大原と同時に文室真人から三諸朝臣へ改姓する。桓武朝後半に、延暦15年(796年)近衛将監、延暦22年(803年)近衛少将と武官を務める傍ら、近江大掾,出羽権守,播磨守と地方官も兼ねる。この間の延暦20年(801年)には坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣されると、田村麻呂らと共に昇叙され正五位上に昇進している。
大同元年(806年)平城天皇の即位に伴って従四位下に叙せられ、侍従に中務大輔を兼ねて天皇の身近に仕える。平城朝では右兵衛督,右京大夫,大舎人頭を歴任し、大同4年(809年)には三山朝臣姓、次いで文室朝臣姓を賜与されている。同年4月に平城天皇の弟である嵯峨天皇が即位すると左兵衛督に転じ、大膳大夫,兵部大輔,播磨守を務める。 |
文室巻雄 |
文室秋津 |
仁明朝において、皇太子・道康親王に帯刀舎人として仕える。道康親王の即位(文徳天皇)後、仁寿3年(853年)相模掾に任ぜられ、のち右兵衛少尉次いで同大尉を歴任する。天安元年(857年)播磨大掾に転任。清和朝に入っても順調に昇進した。 |
弘仁8年(817年)に藤原真川の後任として甲斐守となり、翌弘仁9年には武蔵介に転任する。この転任は、弘仁・天長期に行われていた御牧整備との関連が指摘されている。弘仁13年(822年)10月木工頭となるが、同年12月に甲斐守に再任されるなど、嵯峨朝の後半は主に地方官を務めた。 |
文室有真 |
文室宮田麻呂 |
承和7年(840年)従五位下に叙爵し、出羽守に任ぜられる。承和15年(848年)には左衛門佐に任ぜられる一方、班山城田使長官・近江介にも補任され、引き続き地方行政に携わった。 |
淳和朝の天長3年(826年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵。 |