<皇孫系氏族>天武天皇後裔

K307:天武天皇  文室浄三 FY01:文室浄三

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文室浄三 文室与伎

 霊亀3年(717年)無位から従四位下に直叙され、翌養老2年(718年)大舎人頭に任ぜられる。神亀6年(729年)長屋王の変の直後に従四位上に昇叙する。
 天平13年(741年)9月に巨勢奈氐麻呂と共に恭仁京の造宮卿に任じられ、同月には民部卿・藤原仲麻呂と共に恭仁京の人民に宅地を分け与えている。天平19年(747年)には従三位に昇進して公卿に列しており、聖武朝の後半に昇進を果たしている。
 孝謙朝に入ると、天平勝宝4年(752年)に文室真人を賜姓されて臣籍に降り、文室智努を名乗る。皇位を自ら放棄することによって保身を確実にするためと見られるが、60歳直前というこの高齢期になった理由ははっきりしない。一説では妻・茨田女王の卒去をその契機とする。翌天平勝宝5年(753年)には茨田女王の追善供養のために仏足石を造立、これは現在も薬師寺に伝わり国宝に指定されている。天平勝宝6年(754年)摂津大夫を経て、天平勝宝9歳(757年)参議兼治部卿に任官する。
 淳仁朝では重用され、天平宝字6年(762年)1月御史大夫(=大納言)と急速に昇進し、同年9月の御史大夫・石川年足の薨去により、大師・藤原仲麻呂に次いで太政官で第二位の席次を占めるに至った。同年8月には老いて力が衰えたことから淳仁天皇から労りの詔があり、宮中で扇・杖を使うことを特別に許されている。天平宝字8年(764年)1月には従二位に叙されたが、同年9月の藤原仲麻呂の乱発生直前に官職を致仕し、天皇より労いの詔があって肘掛け,杖,新銭10万文を賜与されている。この致仕は藤原仲麻呂の不穏な動きを察知して危険を避けるために行ったものと見られるが、逆にこれによって乾政官(=太政官)に御史大夫以上の議政官がいなくなり、それによる政治的空白が仲麻呂の乱の引き金になったとする見方もある。    
 宝亀元年(770年)の称徳天皇の崩御後、その約2か月後に薨去。享年78。臨終にあたり子らに薄葬とすることと朝廷からの鼓吹を受けないことを命じたことが当時の人々に称賛されている。

 宝亀11年(780年)従五位下に叙爵。延暦2年(783年)従五位上・相模介に叙任され、宝亀の乱終結後間もない東国へ赴任する。翌延暦3年(784年)相模守へ昇格すると共に、征東将軍・大伴家持に次ぐ征東副将軍に任ぜられ、蝦夷征討の任に当たる。延暦4年(785年)に大伴家持が没するなどもあり、与伎自身は蝦夷征討で目立った活動を起こすことはなかった。    
 延暦6年(787年)右中弁に転任して京官に復し、延暦8年(789年)正五位下に昇叙される。延暦9年(790年)正五位上・大宰大弐に任ぜられ、今度は西国の地方官に転じる。その後、従四位下まで昇った。

>文室弟直

文室真屋麻呂

 大伴親王(のち淳和天皇)が幼い頃に母・藤原旅子を喪ったため、女官を務めていた弟直の生母・平田孫王が養母となる。延暦20年(801年)従五位下・土佐守に叙任され、桓武朝末の延暦25年(806年)に左大舎人助となった。
 大同5年(810年)薬子の変終結後に大蔵少輔次いで少納言に任ぜられる。その後、嵯峨朝において、時期は明らかでないが真人姓から朝臣姓に改姓している。
 弘仁13年(822年)20年以上ぶりに昇進して従五位上に叙せられると、弘仁14年(823年)4月の淳和天皇の即位に伴い正五位下、同年11月の大嘗祭で正五位上、翌天長元年(824年)正月には従四位下と淳和朝初頭に続けて昇叙される。のち、治部大輔,上野守,備中守,播磨守などを歴任した。天長7年閏12月18日(831年2月4日)卒去。享年61。    
 官職に在任の間、毀誉褒貶はなかった。生来、折り目の正しさがなく、物事に対する弁えがなかったが、天寿を全うしたという。

 延暦5年(786年)6月に少納言に任ぜられるが、早くも10月には右大舎人頭に転じる。その後、桓武朝前半は治部少輔・主馬頭と京官を歴任する。延暦10年(791年)但馬介に任官し、地方官に遷る。その後、時期は明らかでないが、文室真人から三諸朝臣に改姓し、従五位上に叙せられる。
 平城朝に入ると昇進を果たし、大同3年(808年)には従四位上に叙せられる。また、大同4年(809年)には三諸朝臣から三山朝臣、文室朝臣と続けて改姓している。    
 嵯峨朝の弘仁3年(812年)正四位下に至る。

三諸大原

文室綿麻呂

 孝謙朝の天平勝宝4年(752年)父・智努王と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する。
 桓武朝の延暦4年(785年)従五位下に叙爵し、右兵衛佐に任ぜられる。翌延暦5年(786年)上総介として地方官に転じる。延暦9年(790年)治部少輔に任ぜられ京官に復帰するが、翌延暦10年(791年)には早くも陸奥介兼鎮守副将軍として地方官に戻り、蝦夷征討の任にあたる。蝦夷征討における大原の具体的な活動内容は伝わらないが、勲三等の叙勲を受けていることから、大きな戦果を挙げた延暦13年(794年)の征夷副将軍・坂上田村麻呂の遠征軍に従軍した可能性もある。またこの間、延暦11年(792年)文室真人から三諸朝臣に改姓している。
 その後、常陸守の任期中に稲216,090束を横領していたことが発覚するが、延暦21年(802年)になって罪を免ぜられている。延暦23年(804年)播磨守、延暦24年(805年)備前守と引き続き地方官を歴任した。    
 平城朝初頭の大同元年(806年)11月9日に自邸で卒去。

 延暦11年(792年)に父・大原と同時に文室真人から三諸朝臣へ改姓する。桓武朝後半に、延暦15年(796年)近衛将監、延暦22年(803年)近衛少将と武官を務める傍ら、近江大掾,出羽権守,播磨守と地方官も兼ねる。この間の延暦20年(801年)には坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣されると、田村麻呂らと共に昇叙され正五位上に昇進している。

 

 大同元年(806年)平城天皇の即位に伴って従四位下に叙せられ、侍従に中務大輔を兼ねて天皇の身近に仕える。平城朝では右兵衛督,右京大夫,大舎人頭を歴任し、大同4年(809年)には三山朝臣姓、次いで文室朝臣姓を賜与されている。同年4月に平城天皇の弟である嵯峨天皇が即位すると左兵衛督に転じ、大膳大夫,兵部大輔,播磨守を務める。
 翌大同5年(810年)9月に発生した薬子の変では平城上皇と共に平城宮にいたが、平安京に召還され左衛士府に拘禁されてしまう。しかし、大納言となっていた田村麻呂が東国へ向かった平城上皇を迎え撃つために美濃道に向かう際に、武術に優れ辺境での戦闘の経験が豊富であることを理由に綿麻呂を同行させたい旨を上奏する。結局上奏は認められ、綿麻呂は正四位上・参議に叙任されて同行することになった。
 薬子の変後、大蔵卿・陸奥出羽按察使を兼ね、東北地方に駐在して蝦夷征討の責任者を務める。活発に活動した様子が『日本後紀』に記載されている。    
 後に衛門督・右近衛大将を経て、弘仁9年(818年)に中納言に昇進する。弘仁14年(823年)4月26日薨去。享年59。

文室巻雄

文室秋津

 仁明朝において、皇太子・道康親王に帯刀舎人として仕える。道康親王の即位(文徳天皇)後、仁寿3年(853年)相模掾に任ぜられ、のち右兵衛少尉次いで同大尉を歴任する。天安元年(857年)播磨大掾に転任。清和朝に入っても順調に昇進した。
 貞観18年(876年)11月に陽成天皇が即位すると、まもなく左近衛少将から伊予権守に遷り地方官に転じる。陽成朝では備前守,因幡権守,相模守と専ら地方官を務めるが、因幡権守と相模守は遙任であったという。のち、子息である房典の近江少掾への任官と引き替えに相模守を辞した。この間、元慶3年(879年)従四位上に昇叙されている。
仁和3年(887年)8月7日卒去。享年78。
 小さい頃から勇敢で力が強かったが、読書を好まなかった。弓馬の技術を身につけていたが、騎射を最も得意としていた。身体が敏捷で、意気も盛んであった。また、昼夜を問わず武器を持って天皇に侍し、宿衛の勤めでは並ぶ者がなかったという。

 弘仁8年(817年)に藤原真川の後任として甲斐守となり、翌弘仁9年には武蔵介に転任する。この転任は、弘仁・天長期に行われていた御牧整備との関連が指摘されている。弘仁13年(822年)10月木工頭となるが、同年12月に甲斐守に再任されるなど、嵯峨朝の後半は主に地方官を務めた。
 淳和朝に入り、急速に昇進し、天長7年(830年)参議に任ぜられ公卿に列した。のち議政官として左右中将・左右大弁と文武の要職を兼任する。またこの間、天長8年(831年)従四位上に昇進し、天長9年(832年)には兼務ながら武蔵守に再任している。
 天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い、淳和天皇の皇子・恒貞親王が皇太子に冊立されると春宮大夫を兼ねる。承和元年(834年)左大弁,左中将の兼官の返上を上表し左大弁の辞任を許される。さらに翌承和2年(835年)には左中将から右中将次いで右衛門督兼検非違使別当に転任となる。承和8年(841年)正四位下に昇進するが、翌承和9年(842年)に発生した承和の変で恒貞親王が皇太子を廃されると、春宮大夫であった秋津も連座して出雲員外守に左遷された。承和10年(843年)3月2日配所で卒去。享年57。
 違法の取り締まりについて最も適した人材であり、武芸を論ずる際には、驍将と呼ぶに足る人物でもあった。一方、酒席にあっては、このような立派な人物に似つかわしくなく、酒を数杯飲むと必ず泣く癖があったという。

文室有真

文室宮田麻呂

 承和7年(840年)従五位下に叙爵し、出羽守に任ぜられる。承和15年(848年)には左衛門佐に任ぜられる一方、班山城田使長官・近江介にも補任され、引き続き地方行政に携わった。
 仁寿4年(854年)相模権守、斉衡3年(856年)従五位上・陸奥守に叙任されるなど、文徳朝でも地方官を歴任する。しかし、貞観3年(861年)の陸奥守の任期終了時に、新任国司の坂上当道との解由がうまく進まず、期限内に官物の引き継ぎができなかったことを理由に記事・葛木種主と共に公事稽留罪を科せられた。    
 その後も貞観5年(863年)下総守となおも地方官を務めている。

 淳和朝の天長3年(826年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵。
 仁明朝の承和6年(839年)従五位上に叙せられ、翌承和7年(840年)4月に筑前守に任ぜられたが、承和8年(841年)正月までに官職を解かれた。この間、承和7年12月(841年1月)に新羅人・張宝高が特産品の朝廷への献上を目的に使人を大宰府に派遣してきたが、他国の臣による安易な貢進は受け入れられないとして献上品の馬の鞍を返却するように朝廷から命じられている。この際、宮田麻呂は張宝高に絁を贈って唐の物産を得ようとしたとみられるが、同年11月の張宝高の死去により失敗した。そのため、承和8年(841年)に渡来した新羅の廻易使・李忠がもたらした貨物について、李忠は張宝高の使人であることを理由に宮田麻呂が没収しようとする。しかし承和9年(842年)になって、宮田麻呂による貨物の没収が朝廷に発覚し、大宰府官人の手で貨物は李忠に返還させられた。
承和10年(843年)宮田麻呂は、従者の陽侯氏雄から謀反を図っているとの告発を受けて左衛門府に禁獄され、訊問の結果、宮田麻呂は謀反の罪を負って斬刑に当たるところ、位階を一等降された上で伊豆国への流罪となった。同様に子息や従者も流罪となった。以降六国史に宮田麻呂に関する記事はなく、配所で没したと思われるが、詳細は明らかでない。のちに宮田麻呂は無実であるとされ、貞観5年(863年)に神泉苑の御霊会で慰霊されている。  
 この謀反に問われた事情は必ずしも明らかではないが、承和9年(842年)に発生し同族の参議・文室秋津も連座した承和の変の影響とする説、前述の新羅との貿易トラブルに関係するもの、さらには、藤原北家が瀬戸内海交易活動の独占を図る中で、国際交易にまで活動範囲を広げていた宮田麻呂を脅威に感じて抹殺した事件とする説もある。