<継体朝>

K307:天武天皇  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天武天皇 ― 舎人親王 K309:舎人親王

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舎人親王 三原王

 持統天皇9年(695年)浄広弐に叙せられ、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品となる。
  養老2年(718年)一品に昇叙される。翌養老3年には元正天皇より異母弟の二品・新田部親王とともに皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられ、また皇室の年長者として褒賞されそれぞれ内舎人,大舎人,衛士,封戸を与えられた。養老4年(720年)5月に自らが編集を総裁した『日本書紀』(紀30巻・系図1巻)を奏上する。同年8月には当時の朝廷最大の実力者であった右大臣・藤原不比等の薨去に伴って、舎人親王は知太政官事に就任して太政官の首班に立ち、知五衛及授刀舎人事・新田部親王および右大臣(のち左大臣)・長屋王とともに皇親政権を樹立する。
  神亀元年(724年)聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられる。聖武朝に入ると、舎人親王は次第に藤原氏寄りに傾斜した活動を行い、結果的に藤原四子政権の成立に協力する形となった。神亀6年(729年)2月に起こった長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し自害せしめる。
  神亀6年(729年)8月に藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる。
  天平3年(731年)8月には公卿らが死亡や病気によって政務を処理できなくなっているとして、政務に耐えうる人材を推薦するよう勅を宣べる。この結果、藤原宇合,麻呂兄弟ら6名が新たに参議に任官して、藤原四兄弟全員が議政官に加えられた。
  天平7年(735年)9月にともに皇親政治を支えた新田部親王が薨じるが、舎人親王はその邸宅に遣わされて天皇の弔意を伝える。そのわずか1ヶ月半後の11月14日に天然痘が蔓延する平城京で、舎人親王も後を追うように薨去。享年60。葬儀は太政大臣に準じた形式で行われ、皇族全員が参列したという。即日太政大臣の官職を贈られた。
  没後20年以上たった天平宝字2年(758年)に、第七王子の大炊王が即位(淳仁天皇)するに及び、翌天平宝字3年(759年)天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号されている。

 養老元年(717年)従兄弟の坂合部王や智努王(文室浄三)らとともに二世王の蔭位を受け、無位から従四位下に直叙される。
  神亀6年(729年)長屋王の変の後に行われた叙位にて従四位上に昇叙される。聖武朝の中盤は弾正尹や治部卿を歴任する。この間の天平12年(740年)藤原広嗣の乱の勃発に際して、伊勢神宮に奉幣のために派遣されている。
  天平18年(746年)正四位下・大蔵卿に叙任されると、天平年間末期以降は順調に昇進、天平20年(748年)従三位に昇叙され公卿に列す。天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位後に正三位・中務卿に叙任されている。
  天平勝宝4年(752年)7月10日薨去。

和気王 小倉王

 天平勝宝7年(755年)兄弟の細川王とともに岡真人姓を賜与され臣籍降下し、因幡掾に任ぜられる。天平宝字3年(759年)祖父の舎人親王が崇道盡敬皇帝の尊号を追贈された際に皇籍に復帰し、正六位上から従四位下に昇叙される。のち内匠頭,節部卿,伊予守を歴任する。
  天平宝字8年(764年)正月に従四位上に叙せられる。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際しては、藤原仲麻呂が準備のために軍備を整えていたことを事前に孝謙上皇(後の称徳天皇)に伝える。乱終結後、この功績により従三位に昇叙され公卿に列した。同年10月の淳仁天皇の廃位にあたっては、兵部卿として左兵衛督・山村王らとともに数百人の兵を率いて天皇の居所である中宮院を取り囲んでいる。翌天平神護元年(765年)正月に乱における功績を称えられ勲二等を叙勲され、5月には功田五十町を賜与された。
  その後、称徳天皇に跡継ぎがおらず皇太子が決まっていなかったことから、和気王は皇位を望んで当時有名な巫女であった紀益女にまじないを依頼し、参議兼近衛員外中将・粟田道麻呂、兵部大輔・大津大浦、式部員外少輔・石川永年らと謀反を計画する。しかし、計画が露見したことから、夜陰に紛れて逃走するが、率河社(大和国添上郡率川坐大神御子神社三座)に隠れているところを逮捕され、伊豆国へ流罪となる。配流の途中、山背国相楽郡で絞殺され、狛野(同郡上狛郷)に葬られた。
  和気王は当時の朝廷において舎人親王の後裔で唯一残っていた皇親であり、王が叔父である淳仁天皇の後継者の地位を望んだとも、反対に称徳天皇側が舎人親王系皇統の復活を阻止するために王の抹殺を図ったとも言われている。

 延暦3年(784年)正月に無位から従五位下に叙爵され、同年12月に従五位上、翌年延暦4年(785年)正月少納言に叙任される。延暦6年(787年)阿波守、延暦18年(799年)2月に典薬頭次いで同年12月に内膳正を歴任し、この間の延暦8年12月(790年1月)の皇太后・高野新笠の崩御の際には、山作司を務めている。
  正五位下に叙された後、延暦23年(804年)に五男の繁野王と兄・和気王の孫である山河王に対して、延暦17年(798年)の友上王の故事に倣って清原真人姓を賜与の上で臣籍降下されるよう上表して許される。また同時に、繁野の名について桓武天皇の皇女・滋野内親王の名に触れることを避けるために、夏野に改めることも許されている。

石浦王 清原長谷
 延暦3年(784年)兄弟の小倉王とともに無位から従五位下に直叙され、翌延暦4年(785年)主馬頭に任ぜられる。延暦6年(787年)少納言を経て、延暦10年(791年)越中守として地方官に転じた。

 延暦10年(791年)清原真人姓を与えられ臣籍降下するが、これは初めての清原真人姓の賜与であった。延暦22年(803年)陸奥大掾に任ぜられる。同年には造志波城使・坂上田村麻呂によって志波城の築城が行われており、長谷もこれに従事したと思われる。
  嵯峨朝に入ると、宮内少輔に任ぜられる。弘仁8年(817年)山城介に転じると、弘仁10年(819年)遠江守と嵯峨朝後半は地方官を務めた。
  弘仁14年(823年)かつて春宮進として仕えた大伴親王が即位(淳和天皇)すると、右衛門権佐に任ぜられて京官に復す。同年従五位上、天長2年(825年)正五位下次いで従四位下に昇叙されて近衛中将に任官するなど、淳和朝では武官を務めながら急速に昇進する。その後、左衛門督・按察使を歴任し、天長8年(831年)には参議に任ぜられて公卿に列した。天長9年(832年)従四位上。
  仁明朝初頭の承和元年(834年)11月26日卒去。享年61。

船王 池田王

 神亀4年(727年)二世王の蔭位により無位から従四位下に直叙される。天平15年(743年)従四位上、天平18年(746年)弾正尹に叙任される。
  天平勝宝9年(757年)7月の橘奈良麻呂の乱においては、出雲守・百済王敬福とともに謀反に加担した者に対する拷問を行い、道祖王,黄文王,大伴古麻呂らを死に追い込んだ。同年8月には乱での処置を賞されて正四位上への加叙を受けた。
  天平宝字2年(758年)8月に大炊王の即位(淳仁天皇)に伴い、従三位に叙され公卿に列す。天平宝字3年(759年)6月に淳仁天皇が父の舎人親王に天皇の尊号(崇道尽教皇帝)を贈ったことに併せて、船王は天皇の兄弟として池田王とともに親王宣下を受けて三品に叙される。同年8月新羅征討を行うこととなり、香椎廟に派遣されて征討の事情を奏上している。同年9月には遠征のため船500艘を造ることが決められるなど遠征の準備が進められるが、翌天平宝字4年(760年)正月になると大宰帥は藤原真楯に交替し、船親王は信部卿に転任する。天平宝字6年(762年)二品に進む。
  天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、藤原仲麻呂とは行動を共にせず戦死は免れたものの、事前に仲麻呂と反乱について共謀していた手紙が仲麻呂邸(田村第)から発見され隠岐国への流罪となった。なおこの時、子息の葦田王と孫の他田王も三長真人姓を与えられて臣籍に落とされ、丹後国に配流となっている。

 天平7年(735年)二世王の蔭位により無位から従四位下に直叙される。天平勝宝6年(754年)正月に19年ぶりに昇叙され従四位上となる。のち畿内巡察使・弾正尹を歴任。天平勝宝9年(757年)年4月皇太子・道祖王を廃すにあたり、摂津大夫・文室珍努と左大弁・大伴古麻呂から代わりの皇太子に推挙される。しかし、孝謙天皇から孝行に欠けると評されて退けられ、弟の大炊王(のち淳仁天皇)が皇太子に冊立された。同年正四位上・刑部卿に叙任。
  天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位に伴って従三位に叙せられる。翌天平宝字3年(759年)淳仁天皇が舎人親王に対して崇道盡敬皇帝の尊号を追贈した際に、池田王は天皇の兄弟として親王宣下を受けて三品に叙せられ、まもなく糺政尹に任ぜられる。天平宝字7年(762年)母親が橘奈良麻呂の乱に関与した者の一族であったことからかつて皇族籍から削除していた自らの子女5名について、御長真人姓の下賜を上表し許されている。天平宝字9年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、藤原仲麻呂とは行動を共にしなかったものの、事前に馬を集めて仲麻呂と謀反の相談をしていたとして、親王から諸王に戻され土佐国への流罪となった。

御長仲嗣 御長広岳

 天平宝字7年(763年)父親と見られる池田親王が、自らの子女の内で母親が凶賊(橘奈良麻呂の乱の加担者またはその親族か)であった5名について、かつて皇籍から削除していたが戸籍がない状態となることを懸念して、御長真人姓を賜与されることを願って許されている。この時に仲嗣も御長真人姓となったか。
  延暦14年(795年)丹後介の官職にあったが、国内に帳簿外の余剰稲46001束がある旨を言上する。これを受けて朝廷は続く者を勧奨するためにこの稲を仲嗣に与えることとした。
  従五位下に叙爵の後、延暦25年(806年)伊豆守に任ぜられる。その後、大同3年(808年)左兵庫頭、弘仁2年(811年)刑部少輔と平城朝から嵯峨朝にかけて京官を歴任している。

 天平宝字7年(763年)父親と見られる池田親王が、自らの子女の内で母親が凶賊(橘奈良麻呂の乱の加担者またはその親族か)であった5名について、かつて皇籍から削除していたが戸籍がない状態となることを懸念して、御長真人姓を賜与されることを願って許されている。この時に広岳も御長真人姓となったか。
  延暦15年(796年)5月に渤海使・呂定琳を送り届けるために送渤海客使に任ぜられて、式部大録・桑原秋成とともに渤海へ渡る。渤海まで無事に呂定琳と回賜品を送り届けて帰国する際に、渤海国王・大嵩璘から使人派遣の打診を受けるが、日本の朝廷から渤海使の受け入れについて許可を得ていないことを理由に辞退している。同年10月に渤海王の啓を携えて朝廷に復命し、桑原秋成とともに昇叙を受けて広岳は従五位下に叙爵する。延暦18年(799年)大学助に任ぜられて京官に遷る。
  その後、正五位下まで昇進し、桓武朝末の延暦25年(806年)2月左中弁に任ぜられる。また同年3月の桓武天皇の葬儀にあたっては御装束司を務めている。平城朝では、宮内大輔・左中弁を歴任する。
  大同5年(810年)に発生した薬子の変に際しては、小野岑守・坂上広野とともに近江国へ派遣されて国府と故関(逢坂関)の守護を担当し、乱後伊勢守に転じた。
  弘仁8年(817年)3月27日卒去。享年69。

山辺笠王 淳仁天皇

 天平宝字3年(759年)淳仁天皇の父である舎人親王に崇道盡敬皇帝の尊号が贈られた際、その孫として二世王待遇となり、無位から従四位下に直叙される。翌天平宝字4年(760年)大舎人頭に任ぜられる。
  天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後の淳仁天皇の廃位に伴って、王籍を除かれて三長真人姓となり、丹後国に配流となる。
  光仁朝に入ると罪を赦されて、宝亀2年(771年)7月に王族に復すが、同年9月には早くも山辺真人姓を与えられて再び臣籍降下する。翌宝亀3年(772年)従五位下に叙爵。  
 宝亀5年(774年)12月には三度王族に復す。光仁朝では玄蕃頭,内蔵頭,武蔵守を歴任し、宝亀11年(780年)従五位上に叙せられている。
  桓武朝では、左右大舎人頭・大膳大夫を歴任した後、延暦8年(789年)正五位下、延暦10年(791年)には正五位上に至る。またこの間、延暦4年(785年)早良親王が皇太子を廃された際、中納言・藤原小黒麻呂とともに山科山陵に廃太子の旨を報告する遣使を勤めている。

 3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
  756年に没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、4日後の同年4月4日(4月26日)、光明皇后を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂の強い推挙により大炊王が立太子した。
  大炊王は仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。
  天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。しかし践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の二字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。755年に唐で安禄山の乱が発生した際には九州の警備強化にあたるが、仲麻呂が新羅討伐を強行しようとしこれを許可する(ただし後の称徳天皇=孝謙上皇により実現しなかった)。また官位を唐風の名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。天平宝字4年(760年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。同年、光明皇太后が薨去するが、仲麻呂は天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌天平宝字5年(761年)天皇と上皇は小治田宮や保良宮に行幸して保良宮を「北宮」とした。
  ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇は看病していた弓削道鏡を寵愛するようになり、仲麻呂の進言により天皇がこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。
  天平宝字8年(764年)9月、上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は最大の後見人を失った。乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。
  乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇は廃位、上皇は重祚して称徳天皇となった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。

安倍内親王
 父の即位前は山於女王と呼ばれていたが、即位後に斎宮に卜定され、内親王宣下により名を改めることとなった。天平宝字5年8月29日(761年10月2日)に大祓が行われ、翌9月に伊勢へ群行したが、天平宝字8年10月9日(764年11月6日)の父の廃位により退下した。その後、磯部王の妃となって石見王を産んだとされる。