<継体朝>

K307:天武天皇  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天武天皇 ― 忍壁皇子 K311:忍壁皇子

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忍壁皇子 山前王

 天武天皇元年(672年)の壬申の乱では父・天武天皇が吉野から東国に赴いた際に付き従った者として、草壁皇子とともに名が挙げられている。
 天武天皇10年(681年)に川島皇子,三野王,忌部子首,中臣大島らと共に、「帝紀および上古諸事」の記録校定事業を命ぜられる。
  天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定に伴い浄大参に叙せられる。朱鳥元年(686年)7月に民部省の蔵庸舎屋で火災が発生したが、忍壁皇子の宮殿の失火が延焼したとも言われた。
  持統天皇10年(696年)高市皇子が没すと、天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在となる。一方で、持統朝においては彼の事績は伝わらないことから、持統天皇に嫌われて不遇をかこっていた所を、藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したとする主張がある。
  文武朝に入ると、文武天皇4年(700年)6月に藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられ、翌大宝元年(701年)8月に完成させた。またこの時に大宝令による位階制の導入により三品に叙せられている。大宝2年(702年)12月に持統上皇が崩御すると、若い文武天皇の補佐を目的に、大宝3年(703年)正月に忍壁親王は知太政官事に就任して太政官の統括者となる。この時点で既に二品の位階にあった異母弟の長親王,舎人親王,穂積親王ではなく、忍壁親王が知太政官事へ任官されたことについて、大宝律令の編纂を主宰するなどの政治面での実績があることや、天武天皇の最年長の皇子であったことから、最有力の皇族として重んぜられていたことが理由と見られる。慶雲2年(705年)5月7日薨去。 忍壁皇子を高松塚古墳の被葬者とする説がある。

 慶雲2年(705年)6月に父の忍壁皇子が没すると、同年12月に山前王は二世王の蔭位により従四位下に直叙される。その後、刑部卿などを歴任したが、目立った事績がないまま養老7年(723年)12月20日卒去。
  『万葉集』に、兄弟の石田王が没した際に詠んだ挽歌1首(一説では柿本人麻呂作)と、紀皇女が没した際に石田王に代わって詠んだ挽歌2首の、合わせて3首の和歌作品が採録されている。『懐風藻』にも漢詩作品1首が採録されている。

葦原王 保雄王
 天平宝字5年(761年)御使麻呂と賭博,飲酒中に、俄に怒りを発し麻呂を刺殺した。そして、その胸を俎にして股肉を膾に切り刻み食してしまった。ほかにも余罪があったが皇族のため、淳仁天皇により死罪を免れ、龍田真人の賜姓を受け臣籍降下の上、子女6人とともに種子島に配流された。生まれつき凶悪な性格で、好んで酒を飲ませる店で遊んだという。  仁明朝の承和9年(842年)忍壁皇子の六世孫にあたる保雄王およびその子息の長宗王,広宗王,高枝王ら合わせて10人が、翌承和10年(843年)五世孫にあたる令根王の子女の安継王,清淵王,易野女王,五世孫の永根王の子女の良長王,良雄王,良氏王,瀧子女王の合わせて7人が、清滝真人姓を与えられて臣籍降下している。
大野王

 和銅5年(712年)二世王の蔭位により无位から従四位下に直叙される。元正朝に入り、霊亀2年(716年)弾正尹に任ぜられる。
 聖武朝の天平9年(737年)7月5日平城京にて疫病が蔓延する中で卒去。