K304:敏達天皇 | 継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 | K305:押坂彦人大兄皇子 |
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押坂彦人大兄皇子 | 舒明天皇(息長足日広額尊) |
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蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただし、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後も暫く生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(奈良県広陵町の牧野古墳か)に葬られた。 |
先代の推古天皇は崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。 |
古人大兄皇子 |
間人皇女 |
645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(天智天皇),中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」と言った。入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。 |
白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。 |
皇極天皇/斉明天皇(宝皇女) |
孝徳天皇(軽皇子) |
舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、 皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。 |
『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。 |
有間皇子 | |
父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている。 |