元明朝の和銅6年(713年)無位から従五位下に直叙され、元正朝の霊亀3年(717年)従五位上となる。その後、紀皇女(一説では多紀皇女の誤り)との密通を咎められて伊予守に左遷されるが、養老3年(719年)按察使が設置されると、阿波,讃岐,土佐の按察使を兼ねている。 左遷を受けながらも、養老5年(721年)正五位下、神亀元年(724年)正五位上、神亀4年(727年)従四位下と、元正朝後半から聖武朝初期にかけて順調に昇進する。聖武朝では摂津大夫・衛門督を務める。神亀6年(729年)に発生した長屋王の変以降昇進が止まったが、天平9年(737年)に藤原四兄弟が相次いで没すると従四位上に昇叙され、天平12年(740年)正四位下に至る。また、この間の天平11年(739年)には弟の桜井王,門部王らと共に大原真人姓を与えられ臣籍降下している。天平14年12月(743年1月)19日卒去。
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養老年間末(720年代前半)に高田女王から恋歌を贈られていることから、生年は慶雲年間(705~708年)以前と想定される。 天平11年(739年)高安王らが大原真人姓を与えられ臣籍降下した際、今城も同時に賜姓されたか。聖武朝末から孝謙朝にかけて兵部少/大丞を務め、天平勝宝9歳(757年)藤原仲麻呂の紫微内相就任と同時に従五位下に叙爵し、まもなく治部少輔に任ぜられる。 天平宝字7年(763年)正月左少弁に転じる。同年2月に新羅から金体信が朝貢のために来朝したことから、先の天平宝字4年(760年)に同じく来朝した金貞巻に伝えた内容(責任を持って対応できる人物、誠意ある礼儀、旧来通りの貢ぎ物、明らかな根拠のある言葉、の4つを備えた上で来朝すべきこと)がどうなっているのかについて、讃岐介・池原禾守らと共に推問を行う。しかし、金体信は国王の命令により朝貢を行うのみで他のことは関知していないと回答した。そのため、今回の使者は常の通り待遇するが、今後は王子か高官を入朝させるべき旨との太政官の処分について、新羅国王に伝えるように、今城から金体信に命じている。 天平宝字8年(764年)正月に従五位上に昇叙されるが、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に連座したらしく官位を剥奪される。 光仁朝の宝亀2年(771年)罪を赦されて無位より従五位上に復し、兵部少輔に任ぜられる。翌宝亀3年(772年)駿河守。 万葉歌人として、『万葉集』に作歌9首と伝誦・伝読歌8首が採録されている。
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宝亀6年(775年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵し、翌宝亀7年(776年)右大舎人助に任ぜられる。のち、美作介次いで美作守と地方官を務める。 桓武朝に入ると、天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に連座して京外追放となるが、のちに赦され延暦5年(786年)弾正弼に任ぜられて官界に復帰する。延暦10年(791年)に従五位上に昇叙されると、桓武朝中期以降は順調に昇進し、延暦18年(799年)従四位下・大膳大夫に至る。
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聖武朝の天平11年(739年)4月の、高安王らが前年10月29日の上表文により大原真人姓を授かられ、臣籍降下した際、兄の今城,宿奈麻呂らとともに臣籍降下したと想定される。あるいは、天平11年以後の生まれか。 光仁朝の宝亀4年(773年)閏11月、無位から従五位下に叙され、この頃に後宮に出仕したものと推定される。父親の大原高安が天平14年12月19日(743年1月19日)になくなっていることから鑑みて、かなり遅い出仕であったものと思われる。 桓武朝の天応2年(782年)6月、正五位下。延暦2年(783年)には正四位上藤原教貴,紀宮子,平群邑刀自,藤原産子、正四位下の藤原諸姉に次ぐ従四位下に昇進し、後宮での地位を高めてきたが、それ以上の昇叙はなく、延暦8年(789年)10月に卒去。この時、「命婦」と記されている。
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