<継体朝>

K305:押坂彦人大兄皇子  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天智天皇 K306:天智天皇

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天智天皇(葛城皇子,中大兄皇子) 持統天皇(鸕野讃良皇女)

 645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。その翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した。663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮へ遷都し、668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した。668年4月10日(天智天皇年2月23日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に第1皇子・大友皇子を史上初の太政大臣としたのち、671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
 白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火,防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
 671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたと云われている。宝算46。                       
 弟・大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている。

 斉明3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女,大江皇女,新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。天智6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。 
 天皇11年(672年)、大海人皇子は壬申の乱を起こした。皇女は草壁皇子と忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃国に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。
 大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。
 679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。
 685年頃から天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高め、草壁皇子と共同で政務を執るようになった。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子の草壁皇子より才能が優れていたことは確かなようである。そして、聖武天皇の崩御の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。川島皇子の密告というが、謀反の真偽は不明。
 ところが、689年4月に草壁皇子が病気により薨去したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子・軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。持統天皇の即位の儀式で、天つ神の寿詞を読み上げることと、公卿が連なり遍く拝みたてまつり、手拍つというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。
 その即位の前年に、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。即位の後、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。 
 持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。
 持統天皇は頻繁に吉野行幸した。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。また、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。 
 外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。 
 持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族,臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった。
 持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になり、譲位した後も文武天皇と並び座して政務を執った。     
 大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。宝算58。1年間の殯の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。

弘文天皇(大友皇子) 川島皇子

 諱は大友または伊賀。1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられたが、実際に大王に即位したかどうか定かでなく、大友皇子と表記されることも多い。過去から現在まで、壬申の乱の基本史料は『日本書紀』であり、これには大友皇子が皇太子になったとも、即位したとも記していない。やや時代がくだる『懐風藻』は、大友皇子を「皇太子」と記すが、天皇とはしていない。平安時代の複数の史書には、大友皇子の即位を記しているものがある。江戸時代から明治時代初めにかけては、大友皇子即位説が有力であった。そこで1870年(明治3年)に、明治政府は大友皇子に「弘文天皇」と追諡した。しかし明治時代の終わり頃から即位説の根拠に疑問が提出され、現在では即位はなかったとみる見方が有力である。
 天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。

 淡海朝臣・春原朝臣などの祖。妃が天武天皇の皇女(泊瀬部皇女)なので天皇に重んじられ、天武天皇8年(679年)の「吉野の盟約」にも参加している。天武天皇10年(681年)詔を奉じて忍壁皇子らと共に「帝紀及び上古諸事」の編纂を命じられ、国史編纂の大事業を主宰、記定には筆頭の編纂者として参与した。
 天武天皇が崩御すると、大津皇子が謀反を理由に捕えられ自害させられるが、この際に川島皇子が親友であった大津皇子の翻意および謀反計画を皇太后(持統)に密告したと伝えられる。しかし、『日本書紀』のこの事件に関する記事に川島皇子の名がない上に、褒賞を与えられた形跡もないことから、密告は史実ではないとする見方もある。     
 持統天皇5年(691年)正月に100戸の加封を受け、合計の封戸は500戸となる。これは2000戸の太政大臣・高市皇子に次いで、浄広弐・穂積親王や右大臣・多治比島と並ぶ戸数であった。同年9月9日薨去。

元明天皇(阿閉皇女) 施基皇子

 天武天皇8年(679年)頃、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚した。同9年(680年)に氷高皇女を、同12年(683年)に珂瑠皇子を産んだ。文武元年8月17日(697年9月7日)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となった。慶雲4年(707年)4月には夫・草壁皇子の命日(旧暦4月13日)のため国忌に入ったが、直後の6月15日(707年7月18日)、息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御してしまった。残された孫の首皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。
 慶雲5年1月11日(708年2月7日)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等を重用した。     
 和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
 同5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。翌同6年(713年)には『風土記』の編纂と好字令を詔勅した。
 715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。養老5年(721年)5月に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。宝算61。

 天武天皇8年(679年)天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)も列席する中、天智,天武両天皇の諸皇子(草壁皇子,大津皇子,高市皇子,川島皇子,忍壁皇子)とともに、皇位継承の争いを起こすことのないよう結束を誓う(吉野の盟約)。天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定により吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受けるが、志貴皇子のみ叙位を受けた記録がない。朱鳥元年(686年)封戸200戸を与えられる。
 持統朝では、持統天皇3年(689年)撰善言司(良い説話などを撰び集める役)に任ぜられた程度で、叙位や要職への任官記録がなく、天皇の弟でありながら不遇な状況にあったか。
 文武朝に入ると、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて四品に叙せられる。大宝3年(703年)持統天皇の葬儀では造御竃長官を務め、慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御にあたっては殯宮に供奉している。
 同年7月に元明天皇が即位し、再び天皇の兄弟となる。元明朝では、和銅元年(708年)三品、和銅8年(715年)二品と昇進を果たしている。元正朝の霊亀2年(716年)8月11日薨去。
 壬申の乱を経て、皇統が傍系,天武天皇系に移ったことから、天智天皇系皇族であった自身は皇位継承とは無縁で、政治よりも和歌などの文化の道に生きた人生だった。     
 薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)、第六男子の白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、天皇の実父として春日宮御宇天皇の追尊を受けた。御陵所の田原西陵にちなんで田原天皇とも称される。

大田皇女 山辺皇女

 同母妹・鸕野讚良皇女とともに大海人皇子(天武天皇)の妃となり、大伯皇女,大津皇子を生むが、夫の即位前に薨去。薨去当時の大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。祖母・斉明天皇、叔母・間人皇女とともに葬られた。  
 同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武の皇后となったかもしれない妃であった。     
 2010年(平成22年)、奈良県明日香村の牽牛子塚古墳のそばから新たに石室が出土し、越塚御門古墳と命名された。『日本書紀』に記述されている斉明天皇の墓との位置関係から、一部では大田皇女の墓であることが決定的であると報じられた。

 大津皇子の正妃となったが、朱鳥元年(686年)に皇子が謀反の意ありとして捕えられて磐余の自邸で死を賜ったのに伴い殉死した。その様子を『日本書紀』には、髪を振り乱して裸足で走り殉死した、それを見た者は皆嘆き悲しんだ、と記されている。
光仁天皇(白壁王) 早良親王

 8歳で父が薨去して後ろ盾を失くしたためか、初叙が29歳と当時の皇族としては非常に遅かった。
 天平勝宝4年(752年)頃までに、すでに斎宮を退任していた井上内親王は権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王と結婚した。天平勝宝6年(754年)の白壁王45歳、井上内親王38歳の時に酒人女王が誕生。それから俄然として昇進を速め、天平宝字3年(759年)には50歳にして従三位に叙せられる。天平宝字5年(761年)井上内親王45歳の時、他戸王(第4皇子)が誕生。天平宝字6年(762年)に中納言に任ぜられる。度重なる政変で多くの親王,王が粛清されていく中、白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごすことにより、凡庸,暗愚を装って難を逃れたと言われている。
 神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御する。生涯独身の称徳天皇に後継者はなく、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族が少なくなっていた。しかし妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の一人であった。このことから天皇の遺宣に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。元号は宝亀と改められた。『日本紀略』などの記述は、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている。
 即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、宝亀3年(772年)3月2日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、5月27日、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。翌宝亀4年(773年)高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる。さらに、翌宝亀4年(773年)10月14日、天皇の同母姉・難波内親王が薨去すると、10月19日、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王,他戸親王母子が幽閉先で急逝した。この同じ日に二人が薨じるという不自然な薨去には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。
 この事件後、光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を図った藤原蔵下麻呂が急死すると、宝亀7年(776年)、祟りを恐れた光仁天皇より秋篠寺建立の勅願が発せられる。
その後も天変地異が続き、宝亀8年(777年)11月1日には光仁天皇が不豫(病)となり、12月、山部親王も薨去の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたと『水鏡』は記している。これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。
 天皇は70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月に第1皇女・能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位し、太上天皇となる。同年12月23日、光仁天皇は崩御した。宝算73。
 直後の天応2年(782年)閏正月頃、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)。同年6月14日、人臣の最頂点である左大臣・藤原魚名が氷上川継の乱に加担していたとして罷免され、その子の鷹取,末茂,真鷲もそれぞれ左遷された。藤原魚名は翌延暦2年(783年)7月25日頓死。光仁天皇崩御後も政情が落ち着くことは無かった。

 母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた。天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかったことも立太子された要因と考えられている。
 しかし延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近で憤死したとする。 
 ただ、桓武天皇が意図的に飲食物を与えないで餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説もある。
 種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。桓武天皇は道鏡事件での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする。 
 その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子,藤原乙牟漏,坂上又子の病死、桓武天皇,早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。また、この近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数km離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。京の鬼門に位置する高野村には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。東大寺では毎年二月堂修二会のおり神名帳を奉読し法会の加護を願い、最終段で十一柱の「御霊」の名前を読み上げられるが、その冒頭には八嶋ノ御霊と記され早良親王の怨念を慰めている。 

稗田親王 他戸親王

 宝亀元年(770年)父・白壁王の即位(光仁天皇)に伴い、三世王から一世王となり親王宣下される。宝亀4年(773年)には皇太子であった兄弟の他戸親王が廃され、藤原式家の藤原百川らの推挙により光仁天皇の第一皇子・山部親王(のち桓武天皇)が新たな皇太子として冊立されたが、藤原京家の藤原浜成は母親(尾張女王)が皇族出身であるとして薭田親王を推挙していたという。宝亀6年(775年)四品に叙せられる。
 天応元年(781年)4月に兄・桓武天皇の即位に伴い三品に昇叙されるが、同年12月17日薨去。享年31。薭田親王の薨去の6日後に父の光仁太上天皇が亡くなっていること、藤原浜成が親王が皇位継承に相応しいと考えていた逸話の存在から、桓武天皇が父である光仁太上天皇の崩御が時間の問題となる中で自らの皇位への脅威となる親王の死に何らかの関わっていた可能性、及び親王の死から2か月後に発生する氷上川継の乱の一因となった可能性を指摘する説もある。

 父の白壁王は天智天皇の孫であるが、当時の皇統は天武天皇系に移されて久しく、白壁王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下、天智天皇の曾孫で聖武天皇(天武天皇の嫡流)の皇女を母に持つ他戸王が注目されるようになる。やがて称徳天皇が崩御すると、藤原永手らによって他戸王の父である白壁王が皇位継承者として擁立された。そして宝亀元年(770年)に白壁王は即位し、光仁天皇となった。翌宝亀2年1月23日には、他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。     
 ところが宝亀3年(772年)、突如皇后の井上内親王が夫である天皇を呪詛したという大逆のかどで皇后を廃され、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃された。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡没官の邸に幽閉され、宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母と共に急死した(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。 
 この事件により、異母兄の山部親王が替わって皇太子に立てられ後に桓武天皇として即位するものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で他戸親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁,桓武両天皇を悩ませることになる。